プロ野球 OB投手資料ブログ

昔の投手の情報を書きたいと思ってます

菊村徳用

2017-06-11 16:40:24 | 日記
1975年

門限破りをしたかと思うと、カネやん張りの暴言を吐いたり、新人にしては自由奔放なふるまいを見せていたロッテのドラフト一位、左腕の菊村には、この日、いつもの元気さは全く見られず、卒業式を終えていない純朴な高校生の姿であった。「おーい、キクよ、四球も野球のうちじゃ。気にするな」と、ベンチにすわりっ放しのカネやんから、時々こう激励を受けていたマウンド上の菊村。「打者のタイミングを外す投球フォームの素質は抜群や。ことしの新人は豊作だ」とカネやんの期待がものすごかったにもかかわらず、その菊村、広島とのオープン初戦に先発しながら、ストライクゾーンになかなか球が決まらない。先頭打者にいきなりストレートの四球を与えたのを皮切りに、二回表、連続3個の四球を出して一死も取れずダウンするまで打者8人に対し、被安打2本、四球4個の最悪状態。そればかりではない。一回表には、三社走者を気にしてのボークも演じて見せ、実に多彩な演技ぶりを披露したわけ。プロの水は甘くはなかったのである。ストレートを投げて打たれ、カーブを投げても決まらないマウンドの菊村には、余裕は全然なかったようだ。むしろ痛々しかった。スタンドには、わが息子の晴れ姿を見ようと、大阪から駆けつけた父親栄一さん(43)、母親道子さん(41)、両親の気持は神に祈るような心境だったに違いない。いいところ一つもなくマウンドをおりてきた菊村は「とても緊張して、体はピリッとしていたのですが・・・。投球中には、スタンドにいる父母がどんなことを思っているのかとちらりと考えたり、ベンチの監督さんがいつごろげんこつを振り上げて出てくるかと、気がかりでした。球の抑えができなかったのは、新しいボールなので、手に合わなかったからです。練習ではいつも使い古しの球でしたから・・・・。自分の持ち球のカーブが決まらないですからダメです」とハアハア荒い呼吸をしながら顔を上げ、目を白黒させてボソボソと話した。カネやんの菊村は見事に裏切られた。しかし、カネやんのさい配にしても、チャンピオンチームらしいいいところは何一つなかった。細かい内容まで見せてくれたルーツ野球の広島の仕上がりが順調に見えたのとは対照的であった。7-3でロッテの完敗。「よくウチが3点も取ったね。それにしても、菊村はプロの世界の非常に厳しいことをこれで知ったと思う。昨年の新人王の三井もスタートの時は菊村と同じことだった。菊村は一軍に同行して指導しようと思ったが、二、三年間はファームで徹底的にきたえなきゃいかんな。素質を生かして必ず立派な投手にしてみせる。上辻でも小川でも下積みからはい上がってきた投手には底力があるもんだ。菊村にとって、きょうはとてもよい日になったはずだ」とカネやん。日本一チームのスタートをつまづかせた菊村に、金田監督は、トラがわか子を谷底へ突き落す愛のムチだと強調していた。昨年の新人王三井のように菊村が意外に早く出てくるとしても、後半となろう。
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才田修

2017-06-11 14:17:42 | 日記
1970年

5位に指名していた北陽高才田修内野手(18)=1㍍70、65㌔、右投げ右打ち=の入団が二十一日内定した。河西スカウトは同日午後一時から大阪梅田のホテル阪神で父親徳一氏(47)=カンサイ技術経営=をまじえ、二回目の交渉を行った結果、条件的にも折り合いがつき入団が内定したもの。同選手は北陽高の中心打者として今季の選抜大会に出場、決勝戦では延長12回惜しくも島本の簑島高に敗れたが、通算5割をマーク、特に準々決勝では岐阜短大付の湯口の球を右越えに本塁打して注目を浴びていた。なお、正式発表は近日中に行われる。

才田選手の話 阪神にお世話になることにしました。ボクは体が小柄なのでタイプとしては巨人の土井さんを目標に一日も早くレギュラーになれるようにがんばりたい。
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加藤譲司

2017-06-11 10:02:02 | 日記
1968年

東映の塚本スカウトは第2位で指名した加藤譲二投手獲得のため十六日午前十一時半、藤沢市内の藤沢商に金子野球部長をたずね交渉のあいさつをした。さらに午後、茅ヶ崎市南湖町二丁目の同投手の自宅をたずね、父親福司氏(46)=国鉄大船工場勤務=母親フミさん(46)本人と会い約一時間半第一回の正式入団交渉を行った。同投手は社会人三菱重工川崎に就職が内定しているが、塚本スカウトは「周囲の状況からみてプロ入りの公算が強い。希望が持てた」といっている。なお同スカウトは十九日日大山形の小山田健一捕手獲得にあたる予定。
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山田直政

2017-06-11 09:28:12 | 日記
1968年

巨人を自由契約選手になった山田直政投手(19)は二十二日午後東京のテストを受けた。東京球場で里見捕手を相手に約30~40球ほどピッチングをしたが、審査役の植村コーチは「練習不足のようだ。それに、たった一日ではどう判定してよいのかわからない」といっていたが、すでに秋季練習も終了しており、採否決定は濃人監督が鹿児島、松山などのキャンプ候補地視察から帰る二十四日以後になる。山田は産経のテストも受けたが、不採用だった。
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飯尾為男

2017-06-11 09:20:55 | 日記
1961年

阪神タイガースでは大毎のトレード要員である飯尾為男投手(28)=新居浜高=を譲り受け投手陣を強化することになった。大毎との具体的な話し合いは十二月三日に箱根で開かれる巨人会(巨人軍OBで結成)に出席する藤本監督が巨人会の前に上京して話し合う。大毎はトレードを希望している飯尾の意思を尊重する態度を示しているので、飯尾の阪神入りは決定的とみられる。

松浦大毎代表の話 藤本君から飯尾を譲り受けたいような電話があったのは事実だが、その後なんの交渉もうけていない。しかし飯尾君の希望は聞いているし、私もなるべく彼の希望を入れてやりたい気持ちでいるので、どうせ移籍させるなら大映時代から深い関係にある藤本君のもとへやりたいと考えている。だから阪神から正式なトレード申し入れがあればいつでも話し合いに応ずる用意はある。

阪神藤本監督の話 飯尾はセ・リーグならまだ十分に使える投手だ。うちに飯尾が入団すると小山、村山、本間、伊奈、飯尾と完投能力のある投手五人がそろう。飯尾は二十五年に私が大映に入団させた投手だから技術的にも性格的にもクセは知りつくしている。飯尾のようなタイプの投手は使いにくい投手だが私は彼のクセを知っているので大丈夫だ。大毎とはこれから話し合うことになるだろう。大毎が選手の交換を条件に出せば手放す選手がいないので、ご破算になるおそれがある。できることならトレード・マネーで譲ってほしい。
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