1955年 高校時代
優勝候補高松商を破った殊勲の若狭高、その勝利の立役者は松井武雄投手だ。三回二点先行され、八回山地に本塁打された苦しい試合をつかむことができたのは崩れそうで崩れなかった松井の落着いた投球による。攻めても彼は八回自ら一死走者一人おいて1-0のカウントから外角球を右翼線に二塁打しこれがとどめの一撃となった試合後ダッグアウトで・・・「なにしろ甲子園は初めてなのでアガりました。ブルペンでは普通の調子なのにマウンドに上ると不思議に肩がこわばってしまっていつもの速球が出ません。それでも三回高松に二点取られてからかえって気が楽になり、四回一点を返した時、これならいけそうだと思うようになった。九回裏はイヤだったです。こんな大観衆にワァワァ騒がれると血が頭に上ってしまって・・・。だからぼくは先攻が嫌いなんです。一回よけいに守らされるような気がして・・・。ぼくはカーブでカウントをととのえ直球で勝負する型なので、内角のシュートが生きたことは幸いでした。八回二塁打した時は嬉しかったですね名門を破った気持はなんといってもいいものです」去年の大会では同じ北信越の飯田長姫高が強豪浪商を破って優勝をかちえた。その長姫の後をうけて出場した若狭高である。松井投手のもとには長姫高から学んだ光沢投手から三日前に選抜大会必勝虎の巻なる手紙がとどいていた。自分の経験から光沢は甲子園の心得をくわしく書いて激励したのである。まず第一球は必ずストライクを取ること、食物に注意すること、外出しないこと、よくねむること、など・・・。松井投手は「前の晩十一時間もねむって、これは光沢さんの教えどおりですが、第一球にストライクがよくきまらなかったのは申しわけない」と残念がっていた。福井県小浜市堀屋敷に住み六人兄弟の末っ子、家業は鉄鋼業。阪急村上前代表は「五尺七寸五分二十貫の体格は申し分はなく、上手から伸びるのと低目にナチュラル・スライドする速球がよく、将来有望な投手」といい、前川八郎氏も「その重い速球は高校ではA級」とほめている。
優勝候補高松商を破った殊勲の若狭高、その勝利の立役者は松井武雄投手だ。三回二点先行され、八回山地に本塁打された苦しい試合をつかむことができたのは崩れそうで崩れなかった松井の落着いた投球による。攻めても彼は八回自ら一死走者一人おいて1-0のカウントから外角球を右翼線に二塁打しこれがとどめの一撃となった試合後ダッグアウトで・・・「なにしろ甲子園は初めてなのでアガりました。ブルペンでは普通の調子なのにマウンドに上ると不思議に肩がこわばってしまっていつもの速球が出ません。それでも三回高松に二点取られてからかえって気が楽になり、四回一点を返した時、これならいけそうだと思うようになった。九回裏はイヤだったです。こんな大観衆にワァワァ騒がれると血が頭に上ってしまって・・・。だからぼくは先攻が嫌いなんです。一回よけいに守らされるような気がして・・・。ぼくはカーブでカウントをととのえ直球で勝負する型なので、内角のシュートが生きたことは幸いでした。八回二塁打した時は嬉しかったですね名門を破った気持はなんといってもいいものです」去年の大会では同じ北信越の飯田長姫高が強豪浪商を破って優勝をかちえた。その長姫の後をうけて出場した若狭高である。松井投手のもとには長姫高から学んだ光沢投手から三日前に選抜大会必勝虎の巻なる手紙がとどいていた。自分の経験から光沢は甲子園の心得をくわしく書いて激励したのである。まず第一球は必ずストライクを取ること、食物に注意すること、外出しないこと、よくねむること、など・・・。松井投手は「前の晩十一時間もねむって、これは光沢さんの教えどおりですが、第一球にストライクがよくきまらなかったのは申しわけない」と残念がっていた。福井県小浜市堀屋敷に住み六人兄弟の末っ子、家業は鉄鋼業。阪急村上前代表は「五尺七寸五分二十貫の体格は申し分はなく、上手から伸びるのと低目にナチュラル・スライドする速球がよく、将来有望な投手」といい、前川八郎氏も「その重い速球は高校ではA級」とほめている。