プロ野球 OB投手資料ブログ

昔の投手の情報を書きたいと思ってます

荒砂任司

2019-06-15 11:49:53 | 日記
1956年

試合は荒砂、石川(緑)の好投ではじまったが荒砂は最後までペースをくずさず石川(緑)は後半疲れ、阪急はこれにつけこみ勝利を握った。阪急は六回無死岡田が遊撃左を抜く安打、荒砂四球の一、二塁のチャンスに、バントと片山のスクイズで手がたく先行、つづく早水が一塁線に安打して二点を加えた。石川(緑)は横手から山なりのカーブを外角一ぱいにきめ、内角へのシュートもよくコントロールされ、七回を終って投球数は60球、前半は三回市原に安打されただけだったが、後半に入り少し疲れ気味、球威が落ちたところを打たれた。八回にも荒砂以下に三連安打され、一点を許した。一方の荒砂はカーブの切れも鋭く、直球もスピードがあり低目にきまった。このカーブで有利なカウントをとり、直球、シュートで勝負し、八回までに許した走者は二回丹羽の遊ゴロ失と八回三振食い逃げだけだった。九回一死後あと一人でノーヒット・ノーランの記録が生まれるところまでこぎつけたが、石川の代打金子になんでもない二ゴロを打たれ、これが前進した二塁手の前でイレギュラー・バウンドして頭上を抜かれるという不運があって目の前の記録を一瞬にしてつぶされてしまったのは気の毒であった。
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小川敏明

2019-06-15 11:00:36 | 日記

1959年

全日本大学野球選手権大会で強肩捕手としてプロ球団から注目されていた中京大学の小川敏明選手(21)=商学部三年生=名古屋市中川区=は、家庭の事情から学業をつづけることを断念、愛知大学リーグ戦を待たずして同校を中退し、ドラゴンズへ入団すると十四日夜自宅で意志を表明した。正式契約は十六日、名古屋市中区の同球団事務所で行なわれる。

同選手は高校野球の名門中京商時代は現阪神の本間投手とバッテリーを組んで活躍、卒業後プロ各球団をはじめ、社会人球界から多く勧誘をうけたが昭和三十三年中京大へ進学。一年生からマスクをかぶり強肩捕手として知られ、同三十四年春以来三シーズン連続優勝に貢献。神宮球場で行なわれた全日本大学選手権大会へ二度出場した。プロや大学野球関係者は「東京六大学の捕手で、小川の強肩にかなうものは一人もいないだろう」と高く評価しており、ことしの夏の高校野球で、母校中京商を小川選手といっしょにコーチした一年先輩の立大安井投手も「投手が思わず首をかがめなければならないほどで、その強肩にはおどろいた。六大学、東都大学にもこんな肩のいい捕手はいない」と語っていた。三年生で在学中のため、プロ各球団は卒業の年に入団交渉を進めようとしていたが、社会人球界からは、すでにことしの四月に地元の全チームをはじめ日本石油、日本通運、日鉱日立、日立製作、日本生命などほとんどの会社から誘いをかけられていた。身長1㍍75、体重75㌔、腕っぷしの強いバッティングを誇る大型捕手として、将来性を大いに買われている。

ー大学を中退してプロ入りした動機は。
「両親と兄弟三人の生活で長男の私がめんどうをみていかなければならない家庭の事情から、あと一年で大学を卒業できるのに、まことに残念ですが、中退してプロ入団の決意をかためました。滝監督さんにはなんとか大学だけは卒業してはどうかと、強く引きとめられましたが・・・」
ー中日を選んだ理由は。
「名古屋で育った私は中学生のころから中日が好きでした」
ーほかの球団からも勧誘されたことがあるが。
ノンプロ・チームからたくさん勧誘をうけていました。高校時代にプロへ行かないかと誘いをかけられたことがあります。大学へ入学してからもそんな話をよく聞きましたが、学業をつづけるつもりでいましたので、プロ入りのことは全然考えていませんでした。
ープロ野球をみたことがあるか。
「練習に追われて、いつもみるというわけにはいきませんでしたが中日球場の近くに住んでいる関係で、ひまがあれば見に行きました。学生野球とはなにもかもちがうと思っていました」
ーこれからの目標は・・・。
「もう一度野球の第一歩から踏み出す気持ちでがんばります」
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江口晴造

2019-06-15 10:25:42 | 日記
1963年

大毎は十九日午後一時、大阪・北区堂島の毎日会館内大映関西支社五階会議室で、ノンプロ積水化学・江口晴造投手(21)=1㍍85、73㌔、左投左打、京都桃山高中退=の入団を発表した。背番号未定。同投手はノンプロ時代伊藤(積水化学ー近鉄)竹村(現積水化学主将)のかげにかくれて無名だったが、速球が武器の左腕本格派。大毎は青木チーフ・スカウトが高校時代から目をつけており、東映、近鉄も勧誘していたが、一番熱心だった大毎に決まった。

江口投手「目標は小野さん(大毎)です。速球には自信がある。もっとスピードを増すため、下半身を鍛えて早く一人前の投手になりたい」
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七森由康

2019-06-15 10:12:10 | 日記
1964年

七森は打線の援護に気をよくして投げた。シュートとカーブがタイミングよくきまった。三回田中、大和田の安打で二死一、二塁となったのが唯一のピンチ。ホームラン性の大きなフライも強い逆風が押しもどしてくれた。四回以後大羽を四球で出しただけで広島打線を二安打散発におさえ、プロ入り初完封を記録した。広島はこれで今シーズンの全日程を終了した。
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松下秀文・島田博

2019-06-15 10:08:59 | 日記
1954年

読売巨人軍では新人募集テストの結果次の二名を採用した。

投手 松下秀文(17)神奈川山北高=五尺八寸、十八貫、右投右打。
捕手 島田博(18)福島会津工=五尺七寸五分、十七貫、右投右打。
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大杉勝男

2019-06-15 10:05:43 | 日記
1965年

ノンプロ丸井(東京都支部)の大杉勝男左翼手(19)=1㍍80、78㌔、右投右打、岡山・関西高出=は十二日、西京極球場で行なわれた産業対抗予選決勝戦(対立正佼成会)で敗れ、東映入りにふみきったようである。同選手は高校時代から大型打者としてプロ球団にマークされていたが、高校の先輩である丸井・岡田監督のすすめで昨年丸井に入社。すぐ四番を打ち、今夏の都市対抗予選では二回戦(対熊谷組)で負けたが、8打数4安打、打点2をマーク。今春のオープン戦では4ホーマーと長打力もある。足がややおそいのが欠点。東映は宮沢スカウトがはやくから大杉のバッティングにほれこみ、相談相手である丸井・岡田監督を通して説得した。金銭的な折り合いがつき次第契約する。

丸井・大杉選手「プロ入りの話は岡田監督からきいている。まだはっきりきめてはいないが、できるものならプロで力をためしてみたい。東映以外のチームはどこもきていないが、東映からも条件などはきいていない」

東映・宮沢スカウト「からだが大きく、しかも非常にやわらかい。きれいなバッティングをする。岡田監督はもう少し自分のところにおいてきたえたいといっているが、無理におねがいした」
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藤本典征

2019-06-15 10:04:12 | 日記
1961年

伊万里高野球部の藤本典征選手(18)=三年=はこのほど、セリーグ広島カープと契約した。同校のエースで、夏の大会では西九州代表となった佐商に好投一回戦で惜敗した。速球とドロップが得意で、左投げ左打ち。百七十五㌢、七十㌔。性格は明るく、根性も持っており、地元では未完の大器と期待されている。同校からは初のプロ入り。
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三原卓三

2019-06-15 10:02:31 | 日記
ゴルフ場の朝は早い。午前八時には、気の早いゴルファーが押しかけてくるからだ。だから、ゴルフ場に働くプロ・ゴルファー、従業員、キャデーは、それ以前にやってこなくてはならない。江ノ島にある江ノ島ゴルフ場も、ご多分にもれず朝は早い。このごろ午前五時になると、一人の青年が真っ先きにコースへ飛び出す。コースをひと回りランニングしたあと、早くからやってきたお客さんのキャデーをつとめる無口な男である。黒いセーターに、作業ズボンという服装で、どう見ても元プロ野球選手には見えない。これがカープの外野手だった三原卓三君の近況である。かつては何万という大観衆から、拍手と歓声を浴びた。そんな過去とは、あまりにもかけ離れた現在である。三原君が将来を嘱望され、広島カープのユニホームを着たのは四年前、三十一年の春だった。広島県の庄原高校では、投・攻・守三拍子そろった好選手だった。とりわけしゃくるようなゴルフスイングのバッティングは光っていた。「こいつは大ものだ」三原君をみた評論家たちは異口同音に彼の豪快なバッティングをほめた。やがては、広島カープの中心選手にーだれもがそう信じていたに違いない。だが、大勢の人から注目されだすと、三原君の生活は荒れた。夜ふかしが続き、酒も飲んだ。プロ野球選手として欠くことのできない節制と努力が、忘れ去られたものになった。こうして三十四年のシーズンオフに、予期もしない整理選手の宣告を受けた。悪かった、と気づいたときには、すべて手遅れだった。「もう、過去の生活は思い出さないことにしているんですヨ」クラブをふる手を休めて語る三原君は、暗い過去を忘れようとしている。カープを退団した後、知人の紹介で協和醗酵に入社した。再び野球で身を立てるつもりだった。しかし、サラリーマン生活は、わずか三ヶ月という短いものだった。「高校を出たくらいでは、あのような大会社では出世できない」と考えたからである。また、大学出身者に対するコンプレックスがあったからである。そこで、もう一人の知人に紹介されたのが、プロ・ゴルファーへの道。生まれ変わったつもりで、と第二の人生へスタートを切ったのが、この十月初めのことだった。ゴルフをおぼえるのは、目と筋肉からといわれる。江ノ島ゴルフ場の支配人浅見緑蔵氏(プロ・ゴルファーで元日本オープン選手権者)は、まず、三原君へキャデーになることをすすめた。周囲の人たちは、元プロ野球選手にそんなバカなまねはできるか、と半ばからかいの目で見ていたが、三原君の決心は意外に堅かった。カープの合宿で、最も朝寝坊で有名だった彼が、このごろでは午前五時起床、百八十度の転身ぶりだ。もうすっかりキャデーとしても腕も板についた。まだ、コースを回るという段階にはいっていないがキャデーがやる合い間には先輩のボール拾いをやり、つとめてゴルフを身につけようとしている。同ゴルフ場での先輩格染谷アシスタント・プロは「最初は、こちらから話しかけるのも気がひけたくらいです。でも、打ちとけてくると、彼の堅い決心のほどがわかりました。野球の選手をやっていただけあって、カンは鋭い。それに恵まれた体格が何よりのものです。ボヤボヤしていると、こちらが追い抜かれそうです」という。ことしのプロ野球日本選手権は大洋と大毎の間で争われた。万年最下位の大洋が優勝したことによって、一層球趣が盛り上がった。町の話題は大洋に集中した。それなのに、三原君は野球のヤの字も口にしなかったという。「もう、プロ野球はご免ですね」いくら野球の話を持ちかけてもこうだ。いま、ゴルフ場近くの寄宿舎で生活をしている。コースには近いしそのうえ浅見緑蔵氏という申し分ない師匠を持っている。「プロ野球では、とんな横道を走ってしまったので、ゴルフでは絶対に成功してみせます」と堅い決意に燃えている。浅見プロは「三原君は体格がいいので、きっと成功する。中途でさえ止めなければ、大ものにしてみせます」と折り紙をつけている。
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