プロ野球 OB投手資料ブログ

昔の投手の情報を書きたいと思ってます

扇原修

2019-09-11 22:59:18 | 日記
1964年

0-0で迎えた七回、氷見は疲れをみせた前田の棒球をとらえ四安打を集中して試合を決めた。この回氷見は一塁線を抜いた大門が熊開のバントで二進、日野が内角球を三遊間に痛打して待望の先制点をとった。気落ちした前田からさらに萩原、小坪が左右に好打、滑川守備陣の中継プレーの破たんも手伝って決定的な三点をあげた。一方、滑川は連投でヒジの痛みを訴える扇原の初回の乱れから、2四球と1死球で二死満塁と迫ったが、期待の堺谷の痛打が右直で倒れたのは惜しかった。滑川の好機は五、六回にもあったが後続が三振と内野ゴロに打ち取られては処置なし。扇原の外角へ逃げるカーブと食い込むシュートに四安打で完封された。
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今津光男

2019-09-11 22:53:28 | 日記
1956年

兵庫県立尼崎高校のエース今津光男投手(18)は巨人、中日、近鉄、阪神の各球団から勧誘を受けていたが、このほど中日ドラゴンズ入りに内定した。

同投手は五尺五寸、十六貫三百、右投右打で外角低目の速球とインシュートをおりまぜての快速球は超高校級として早くから注目されていた好投手である。三十年春の選抜大会には優秀投手の一人に選ばれ三十一年には春夏の甲子園大会に連続出場し、打撃面でも高く買われて入団後は内野手にコンバートされることも予想される。
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富山佐久雄

2019-09-11 22:52:37 | 日記
1956年

読売巨人軍では青森県東奥義塾の富山佐久雄投手(17)の入団を決定した。同投手は五尺七寸五分、十八貫五百、右投右打、本格派の速球投手で期待がかけられている。
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下島勇

2019-09-11 20:47:52 | 日記
1958年

背番号 49
下島勇投手 左投左打
6尺、18貫 20才
広島県 音楽

海田市電機工ー大洋(33年)
合宿

6尺の長身に加えての左腕は、阪神の井崎に匹敵する。大いに期待してもよかろう。しかし、若いのであるから、楽しみだ。
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原田孝一

2019-09-11 20:46:48 | 日記
1956年

阪急の勝因は原田の右腕によるものだった。八回一死後森下に死球を呈してそのペースが崩れ杉山、飯田の南海主砲陣に連安打されて阿部の救援を仰ぐところとなったが、それまでの彼はシュート、カーブのコンビネーションのよさで南海打線をわずか散発の5安打に押えきったのである。このところ南海打線は低調さ著しいものがあるが、それでも彼の持ち前のシュートは南海打者が何れも詰り気味の当りしか放ち得なかったあたり十二分にその球威のほどをもの語るものであろう。とはいってもこの日の原田のピッチングの調子は決してよいものではなかった。それだけに彼が慎重な投球に終始したことがこの好結果を生むところになったといえるだろう。それとまた彼の好投を助けたのが打における戸倉の活躍であった。初回先制点の足がかりをつける左前打、三回にも三塁への軟ゴロでバルボンを還し六回には代わったばかりの戸川から文句のない左翼2点ホーマーを放って勝利を決定づけたものであり原田の好投を助けた一因として忘れ得ない存在であった。投打において原田・戸倉の老巧選手が主体となり王者南海を堂々寄り切ったところはさすが曲者阪急の面目躍如たるものがあったといえるのではなかろうか。
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