1964年
長い間、夢見てきた大型内野手を高島で実現しようとしただけに、家庭の事情で中退、プロ入りしたのは残念な気がする。高校三年のとき、ノンプロの浜田精麦(神奈川)に就職する予定だったそうだが、会社が火事で野球部も解散。本人も進学に方針を変えた。もともと外野手だったが、高校時代(岐阜東高)は出たり出なかったりの準レギュラー。荒っぽかったので、まず右翼打ちで、ポイントをつかませることからはじめた。それが三年になると左翼の金網(95㍍)のうしろのコンクリートのへいを越えて、学生寮(約百三十㍍)にぶつけるまでに成長した。外野手から内野へコンバートしたのは三十八年秋のことだ。授業の関係で平日は午後三時からの練習。人並みのことではひとを抜くことはできない。私と高島の襟くらべがはじまった。守備では「打球はあくまでからだの正面で・・・」たたいて育てあげる主義の私は、ノックの雨を浴びせた。百本、二百本。批判を受けるかも知れないが、夜は雨天ピッチング練習場にあかりをつけて左に右にボールをトス、捕球の練習をした。トスをする私も、アドバイスを忠実に守って正面でとろうとする高島も、動けなくなるまで続けた。よくあの練習に耐えてくれたと思う。「やめろというまで打っていろ」といえば、いつまでも打ち続けていた高島。1㍍81、78㌔の恵まれたからだも、あけっぱなしの性格もプロ向きだ。すべてに未完成な高島は、プロのスピードについていくには骨の折れることだろう。しかし、最後には、鍛えられた精神力がものをいうはずだ。
高島選手「七月に東映入りして約五ヶ月、どうやらプロの水にもなれてきた。イースタン・リーグで二十四試合に出場して三割二分程度打てたが、半沢君(国鉄)の速球にはドギモを抜かれた。一軍入りするためにはまずこのスピードに遅れないようにすることだと思う。技術的にはバック・スイングにはいるときにりきむクセを一日も早くなおしたい。シーズン・オフには郷里(岐阜市)でランニングに精をだしたい。守備の欠点、フットワークをマスターするためだ。それに大いに食べてあと三㌔ほどウエートをつけたい。キャンプ・インからエンジンをフル回転できるように健康管理には十分気をつけたい」
東映コーチ浜田義雄「からだが大きいためか瞬間的な動きがにぶい。たとえばゆるいゴロに対して上半身は動くが、足がともなわない。ダッシュがないのだ。しかしどんな打球にもからだごとぶつかっていくので確実性はある。バッティングでは大学時代に中堅から右翼方面へ流すことをやらされていたせいか、引っぱることができない。手首のかえしがよくできないし、打つポイントもからだに近すぎる。それでポイントを前におくことも練習課題にしている。イースタン・リーグの後半に何試合か使ってみたが、試合度胸はいいし、顔もピリッとしまってスターになる素質は十分だ」