私が高校を卒業して就職したのは、手工ギターを作るところでした。
私が高校3年の夏のときに、「月刊現代ギター」という雑誌に弟子募集の広告があり、
それを見た私は、弟子入り希望の手紙をそのギター製作所に書いた。
私は高校3年のときに、高校を卒業したらどんな仕事をしたらいいか分からなかった。
ホントのことをいえば、私は学校の教師になりたかった。
なんの教師でもよかったが、なれたら吹奏楽部の顧問になりたかった。
私は、中学・高校と吹奏楽部に所属していてトロンボーンを吹いていた。
しかし、私の家は貧しくて、大学へ進学ということは考えられなかった。
父親は大工にでもなればいいと考えていたようだった。
1ヶ月ほどたってギター製作所からハガキが来て、私は秋にそこを訪ねた。
それでそのギター製作所への弟子入りが決まった。
私は高校を卒業して1週間ほどで、そのギター製作所に弟子入りした。
ギター製作所は鉄筋の3階建てのビルだった。
私たち弟子の寝るところが3階にあった。
1階は作業所で、2階が親方家族の住まいだったと思う。
3階には2段ベットが3つあった。
弟子は私が入って3人になった。
多いときには弟子は、6人いたのだろう。
2人の兄弟子(28歳と24歳)が、夕食が終わって3階に行き、くつろいでいたときに、
「おれたちは、もうすぐここを辞める」という。
明日から、日本一のギターをつくる職人になるんだと、希望を持って弟子入りした私に、
ここは最低のところだから辞めると、私に兄弟子たちがいった。
それを聞き、私は途方に暮れた。
いろんなそのギター製作所のダメなことを、兄弟子たちが私に話した。
その中で私が一番ガッカリしたのは、親方がギターが弾けないということだった。
親方の兄弟はギターが弾けて、ギターを製作するようになったらしいが、
親方はギターがまったく弾けなかったようだ。
なのでギターが完成したときに、親方はギターを弾かない、ということだった。
弾いても、ギターの良し悪しがわからない。
弟子に弾かせて完成ということになると兄弟子がいう。
「おれは、こんなところにいる意味がない」と2人がいう。
私は、弟子入りしたその夜にそのことを知り愕然とした。
次の日から28歳の兄弟子が、私を近所でやるある集会に毎日連れ出した。
それはある宗教団体の集まりです。
その人は、フラメンコギターがうまかったが、ある宗教団体に入信していた。
24歳の兄弟子の本名は「池田」だった。
なので28歳の兄弟子は、「池田」さんを呼ぶときは「大ちゃん」と呼んでいた。
〇〇学会会長の名前を愛称にしていた。
「大ちゃん」と呼ばれた「池田」さんは、どんな気持ちだったんだろう。
私は毎日のように兄弟子に、その宗教団体の集会に参加させられた。
大勢の人に会い、毎日「南無妙法蓮華経」のお題目を唱えさせられた。
私は昼間、ギターを作る作業をし、夜は、宗教団体の勉強をさせられた。
弟子入りした親方はギターが弾けないし、兄弟子の1人は宗教に無我夢中で、
私は、なんのために東京に来たのか分からなくなった。
5月末に私は、ギター製作所を辞めることにした。
私の青春の夢はボロボロに砕け、19歳で夢のない男になりました。