テロから1ヶ月

2001年10月11日 | Weblog

アメリカ同時多発テロから、1ヶ月が経ちました。
あのときはまだ、夏の感じでしたが、
今はもう秋です。
昨日なんかは、初冬の雰囲気でした。
真面目な話、女房が「そろそろ炬燵をだそうか」
なんていっていた。
女房は寒がりです。
うちは蒲団を敷くのは、私の役目なんですが、
3日前「掛け布団は2枚にして」とあいつがいうので、
昨日から2枚にしている。
私は「ちょっとまだ早いんじゃないの」
といっても、
「私は寒いの」という。
1枚と2枚では、蒲団を敷く負担が大きい。
これを来年の5月頃までしなくてはならない。
ああ…、めんどくさい。
話がそれましたが、
世界貿易センターでは、
まだ沢山の人が見つかってないのですね。
たいへんなテロだった。

先週の飲み会でこんなことが話題になった。
「Q33NY C USA」とパソコンに打ち込んで、
(これは世界貿易センターの住所だそうです)
それを「Wingdings」というフォントにして、
最大の文字の大きさにしてみると、吃驚するよ。
私は家に帰り、さっそくやってみた。
Wordを立ち上げ「Q33NY C USA」と入力し、
フォントの一番下にあった「Wingdings」にし、
大きさを「72」にしてみた。
ビックリしました。

(12日の九想話に書きましたが、これは、悪い冗談だそうです。
 つまらないこと書きまして、申し訳ありません)

 

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前を向いて歩こう

2001年10月10日 | スポーツ

昨日いつも会社帰りの車の中で聴くNHKのラジオで、
こころ動かされる歌を聴いた。
今週、その番組のテーマは「スポーツ」で、
火曜日は、「ウォーキング」のことを話していた。
ちなみに今日は、「ジョギング」だった。
歩くことに関係する歌を、話の合間にかけたんだと思う。
それは「前を向いて歩こう」という歌だった。
初めて聞く曲名だ。
レイゲ風のイントロがはじまると、
私は「な~んだ」と思った。
外人のような歌い方のメロディーは、
「上を向いて歩こう」だった。
おそらく外国の歌手がうたっていると思う。

♪ま、え、を、むーいてー
 あーる、こォーおォー
 なーみーだーがー
 こーぼれーたって、いいじゃーないか~

こんな風な歌詞だった。
とうぜん、この歌詞のこと永六輔は知ってるのだろうな。
それとも、これも永六輔が書いてたりして。
あ…、もう一度聴きたい。
ここが気に入った。
 なーみーだーがー
 こーぼれーたって、いいじゃーないか~

 

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将棋のこと

2001年10月09日 | 将棋・囲碁など

日曜日(10/7)、久しぶりに、
NHK杯将棋トーナメントを観た。
「羽生善治×高橋道雄」で
なかなかの名勝負だった。
解説が、島朗でこれもよかった。
めずらしく羽生が「飛車」を振り、穴熊に囲った。
高橋は、いつものようにがっちり金銀4枚で玉を囲い、
私のようなド素人には、
いったいどこから戦いがはじまるのか、
けんとうもつかなかった。
高橋の端ぜめを羽生は「香車」で守り、
4筋の攻防となった。
中盤の羽生の「継ぎ桂」がきれいだった。
終盤、羽生はあっさり「龍」を切った。
別な寄せを予想していた九想は驚いた。
羽生は、鮮やかに高橋の「玉」を寄せ切ってしまった。
ふたりの、せめたり、引いたり、手を渡したり、
の駆け引きが面白かった。

私は、子どもの頃将棋をしていたが、
本格的にやりだしたのは、22、3歳の頃でした。
そのときの職場(大学生協)に、
将棋の好きな者がいたからです。
最初は負け続けました。
くやしいので、定跡の本を買って勉強した。
そのうちなんとか対等に打てるようになった。
その頃になると、
私も三寸の将棋盤と一万円もする駒を買った。
よく駒込のアパートで友人と酒を飲みながら、
“迷勝負”をしました。

息子たちに、幼稚園の頃から将棋を教えた。
小学生の3年だったかな、
息子が地域の将棋大会で優勝したことがあった。
私は、所沢出身の羽生に続け、と期待したが、
ふたりとも将棋から離れて行ってしまった。
よくUとKで将棋をしていて、
負けそうなほうが、涙を流しながらやっていた。
あの「きつさ」に耐えられなかったのでしょう。
将棋より、テレビゲームに行ってしまった。

私は、将棋を知ってよかったと思っている。
将棋の攻防を、人間関係に応用しています。
ときには「せめ」、ときには「引き」、
あるときは「手を待つ」、そして「手を遊ぶ」。
まったく人と人との付き合いと同じです。
会社で人を管理するときにも役に立った。
「香車」のような一途な人、
「桂馬」のような動きをする人、
シャープな「銀」、安定感のある「金」、
いつか「と金」になる人、などなど。
その駒の能力をまうく使えばいい。
「香車」に「銀」の働きは出来ない。
しかし、現在私は平社員だから、
人を管理することもなくなってしまった。

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あるコンサート

2001年10月08日 | 家族

女房がいきつけの東京の美容院の美容師が出演する
コンサートのチケットをもらったというので、
夫婦そろって東京の板橋まで出かけた。
なぜそのコンサートに私までもが行ったかというと、
息子が所属するグリークラブが出るからです。
「H*K*音楽芸能学院創立二十周年記念発表会」
というコンサートだった。
息子のステージでうたう姿を見たかった。
それが、間違いだった。

コンサートを進行する品のない司会者の話で知ったのだが、
H*K*というひとは、
今年亡くなった演歌歌手の初期のヒット曲を、
1曲だけ作曲したひとらしい。
その曲は、昭和32年に発売されたというから、
今の若い人はほとんど知らない作曲家だ。
私は、かすかに知っていた。

最初に、H*K*の挨拶があった。
それが、司会者に負けず教養を感じられない
品性のないものだった。
挨拶が終わって学院歌が、
ステージにいる教え子たちによってうたわれた。
なぜかそこにグリークラブがいた。
息子もいた。
女房は「いる、いる」とよろこんだ。

「昨日は浅草で漫才をやってきた」という司会者が、
次々にうたうひとを紹介し、
紹介された高齢の女性たちが、着飾って現れ、
それぞれにうたった。
伴奏はカラオケ。
何を“音楽芸能学院”で習っているのか、
発声のまずい声で、音をはずし、リズムをずらした
生徒たちの歌が続く。
女房のとなりのおばさんたちが、
あたりを気にとめない声で話している。
ひとりのひとは通路にしゃがみ込み、
何かを探しはじめた。
しばらくすると、みかんのいい匂いがした。
おばさんたちが楽しそうに、みかんを食べていた。
確か、会場に入る扉に「会場内飲食禁止」
という張り紙があったはずだ。
通路は、ひとが常に歩いていた。
煙草を吸いに会場を出ると、そこにもひとが沢山いた。
これはいったいなんなんだ。コンサートじゃないのか。

午後1時に開演だった“発表会”。
グリークラブのうたう時間はいつなのか。
すでに4時を過ぎている。
煙草を吸って会場に戻ると、
グリークラブがステージに上がっていた。
4時半だった。
清楚な歌がはじまっても、
相変わらず通路を人が歩いているし、
話声はおさまらない。
グリークラブが一所懸命、
聴いたこともないH*K*の作曲した歌をうたう。
なんでR大のグリークラブが、
こんなコンサートに出演したんだ。
グリークラブの歌が終わって、
私と女房は逃げるようにして、会場を出た。

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永平寺の修行僧

2001年10月07日 | テレビ

昨夜(10/6)、
いつものように所沢のパソコン通信仲間と飲んだ。
何年か前にオフに来たことのあるHさんが
久しぶりに参加してくれた。
2軒目の飲み屋で、宗教の話になった。
Hさんは、禅宗のお寺の住職をしていまして、
そういう話になった。
今話題のイスラム教、キリスト教、そして仏教についてと、
無学の私には勉強になりました。
Hさんの仏教以外の宗教についての知識の広さに、
感心しながら話に参加していた。

若いときに永平寺で修行をしたというHさんに、
私はバカな質問をした。
4/30の九想話「仏としての日々」の最後に、
私は次のような文章を書いた。
> 静かな夜、あの歴史的な永平寺で、
> 何人の若者が自慰をするのだろう。
「どうなんですかね?」
と恥知らずな無教養の九想は訊いてしまった。
Hさんは笑顔で答えてくれました。
「修行がきびしくて、それどころではありませんよ。
 眠たい、眠りたいということだけで頭が一杯でした」
やっぱりその場にいたひとの言葉は重いなと思った。
私のような低俗な男のかんぐりは愚かだと、
またまた「反省」です。

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志ん朝を偲ぶ

2001年10月06日 | テレビ

午後1時35分からBS2の
「落語特選・志ん朝落語二題」と、
3時5分からNHK総合でやった
「古今亭志ん朝 江戸の粋をありがとう 生前の名演」
という2つの番組を観た。

BS2でやったのは、
「火焔太鼓」  1978年1月2日
「坊主の遊び」 1992年12月6日
NHK総合では、
「愛宕山」   1993年4月
だった。
「火焔太鼓」をやる志ん朝は、若かった。
女房の道具屋の亭主をさとすセリフが流れるように語られ、
スピード感がある面白い噺だった。
志ん生の破天荒さはないが、いい噺だった。
「坊主の遊び」は、楽隠居した老人の郭話だった。
初めて訊く噺で、
志ん朝の剃刀をつかう仕草がいい。
郭での男の気持ちがよく分かり、
間のいい噺でした。
「愛宕山」は、何度か他の人で聴いたことがある。
たいこもちの気持ちがよく伝わり、
かわらけを投げるようすが、気持ちのいい、
楽しい落語だった。

立川談志が、いった。
「金を払って落語を聴くとしたら、志ん朝だけだ」
去年2人で飲んだとき、
「志ん生になれよ」
「なったほうがいいかしら」
「おれはなるべきだと思うな。志ん生を継げよ。
 そのときにはおれに口上をいわせてくれよ」
「兄さんいってくれる」
「当たり前じゃねェいか。いうよ。だけど、そのかわり、
 おれを震え上がらせるほどの芸人になれよ。
 もっとうまくなれよ」
ということを話したらしい。
志ん朝と談志はいい付き合いをしていたんだなと思った。

今から25、6年前に、
私は志ん朝の独演会に行ったことがある。
たいへんなものを落としてしまった想いです。

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自分で生きる老い

2001年10月06日 | 家族

今週の午後5時5分からの
「いきいきほっとタイム」(NHKラジオ)は、
「自分で生きる老い」というテーマだった。
私は仕事が終わって、会社を出て車に乗り、
聴きはじめるのが5時半ぐらいなんですが、
毎日楽しみにしていた。
徘徊のことや、介護、老後の生き方などを、
ゲストを招いて話していた。
木曜日までの話は、ちょっと辛かった。
歳はとりたくないなァ、という想いだった。

しかし、今日のゲストの塩田丸男夫婦の話を訊いて、
まんざら歳をとるのも悪くないな、と思った。
歳をとれば老人はわがままになるんだ、ということで、
70歳になったとき、いっさいの年賀状をやめたという。
…………………………………………………………………
ここまで書いて、昨夜は寝てしまった。
11時過ぎだった。
さっき(10/6の5時半)目が覚めて、
あれ、昨日の九想話は書いたかな、と思った。
隣の部屋のパソコンを見ると消えている。
パソコンがついていないということは書いたんだ、
とほっとしたが、何を書いたか覚えていない。
確認しようと思い、
蒲団から抜け出しパソコンのスイッチを入れた。
パソコンが立ち上がる間にトイレに行った。
すると女房が「早く出て」と追っかけてきた。
何も、夜は長いのに夫婦そろって
同じ時間にトイレに入らなくてもいいじゃないか。
と、ムッとした。
パソコンを見ると、秀タームのUploadに、
「久寝ている.TXT」というファイルがあった。
女房らしいなと私は笑いながらそのファイルを開いた。
女房がトイレから出てきて話す。
「『5分間だけ寝る』といって、あなた寝たけど
 起きてこないので、『起きないの、パソコンはどうするの?』
 と訊いたら『今日は寝る。パソコンは消してくれ』
 というから、その名前で書いてた文書保存しといたのよ」
といった。
そんなこと私は覚えていない。
なんで起こしてくれなかったんだ、とまたムッとした。
しかし、起きなかった私がわるいのだと、反省。

昨日は1週間ぶりに楽家に行った。
行ったときは、カウンターに誰もいなかった。
そのうちSさんがいつものひかえめな姿でやってきた。
そして、Kさんが来た。Kさんと会うのは久ぶりだ。
Nさんも来た。
楽しい時間を過ごして10時半頃帰ってきた。
時間も早くそれほど飲んでいないのに、
パソコンに向かい九想話を書きはじめたら、
すごい睡魔が襲ってきた。
1週間の寝不足の影響ですかね。
私は何うだうだ書いているのだろう。
所詮、昨夜九想話をUPできなかったいいわけだ。
九想話を締めくくらなければならない。

女房に塩田丸男のいったことを話した。
「葬式はやらない。墓はいらない。
 散骨なんてこともしなくていい。
 人間死んだらおわりです。
 骨なんか、どうでもいい」
私も女房も、葬式なし、墓なし、散骨あり、
の考えだった。
自分の骨なんてどうでもいい、という考えにはなってない。
散骨には未練がある。
このへん、まだ人間が出来てないかな。
介護の問題もある。
私か女房がどちらか先に痴呆症などになったら、
残っているほうが介護するんだろう。
残ったほうがそうなったらどうなるか。
息子たちに見てもらうのか。施設に入るのか。
正直、そこまで突き詰めて考えていない。
今を呑気に暮らしている。
いや、呑気というわけではない。
今を生きるのに必死です。
でも、あるていど考えなければならない、
と思っています。
(まとまらない九想話ですみません)

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自分で生きる老い

2001年10月05日 | ラジオ

今週の午後5時5分からの
「いきいきほっとタイム」(NHKラジオ)は、
「自分で生きる老い」というテーマだった。
私は仕事が終わって、会社を出て車に乗り、
聴きはじめるのが5時半ぐらいなんですが、
毎日楽しみにしていた。
徘徊のことや、介護、老後の生き方などを、
ゲストを招いて話していた。
木曜日までの話は、ちょっと辛かった。
歳はとりたくないなァ、という想いだった。

しかし、今日のゲストの塩田丸男夫婦の話を訊いて、
まんざら歳をとるのも悪くないな、と思った。
歳をとれば老人はわがままになるんだ、ということで、
70歳になったとき、いっさいの年賀状をやめたという。
…………………………………………………………………
ここまで書いて、昨夜は寝てしまった。
11時過ぎだった。
さっき(10/6の5時半)目が覚めて、
あれ、昨日の九想話は書いたかな、と思った。
隣の部屋のパソコンを見ると消えている。
パソコンがついていないということは書いたんだ、
とほっとしたが、何を書いたか覚えていない。
確認しようと思い、
蒲団から抜け出しパソコンのスイッチを入れた。
パソコンが立ち上がる間にトイレに行った。
すると女房が「早く出て」と追っかけてきた。
何も、夜は長いのに夫婦そろって
同じ時間にトイレに入らなくてもいいじゃないか。
と、ムッとした。
パソコンを見ると、秀タームのUploadに、
「久寝ている.TXT」というファイルがあった。
女房らしいなと私は笑いながらそのファイルを開いた。
女房がトイレから出てきて話す。
「『5分間だけ寝る』といって、あなた寝たけど
 起きてこないので、『起きないの、パソコンはどうするの?』
 と訊いたら『今日は寝る。パソコンは消してくれ』
 というから、その名前で書いてた文書保存しといたのよ」
といった。
そんなこと私は覚えていない。
なんで起こしてくれなかったんだ、とまたムッとした。
しかし、起きなかった私がわるいのだと、反省。

昨日は1週間ぶりに楽家に行った。
行ったときは、カウンターに誰もいなかった。
そのうちSさんがいつものひかえめな姿でやってきた。
そして、Kさんが来た。Kさんと会うのは久ぶりだ。
Nさんも来た。
楽しい時間を過ごして10時半頃帰ってきた。
時間も早くそれほど飲んでいないのに、
パソコンに向かい九想話を書きはじめたら、
すごい睡魔が襲ってきた。
1週間の寝不足の影響ですかね。
私は何うだうだ書いているのだろう。
所詮、昨夜九想話をUPできなかったいいわけだ。
九想話を締めくくらなければならない。

女房に塩田丸男のいったことを話した。
「葬式はやらない。墓はいらない。
 散骨なんてこともしなくていい。
 人間死んだらおわりです。
 骨なんか、どうでもいい」
私も女房も、葬式なし、墓なし、散骨あり、
の考えだった。
自分の骨なんてどうでもいい、という考えにはなってない。
散骨には未練がある。
このへん、まだ人間が出来てないかな。
介護の問題もある。
私か女房がどちらか先に痴呆症などになったら、
残っているほうが介護するんだろう。
残ったほうがそうなったらどうなるか。
息子たちに見てもらうのか。施設に入るのか。
正直、そこまで突き詰めて考えていない。
今を呑気に暮らしている。
いや、呑気というわけではない。
今を生きるのに必死です。
でも、あるていど考えなければならない、
と思っています。
(まとまらない九想話ですみません)


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私の先輩

2001年10月04日 | 会社・仕事関係

彼は、息子たちと同年代の22歳の青年です。
私の仕事の先輩です。
耳にピアスをしているのは今風ですが、
寡黙で仕事が速くて、好青年です。
こういう若者は最近めずらしい。
彼は派遣社員で、
このたび会社の受注量が少なくなって、クビになる。
私をクビにして、彼を残したほうが、
会社にとってはいいのだろう、なんて思う。
火曜日休んで、仕事を探しに行ったらしい。
「仕事ありそう?」と訊くと、
「いっぱいありますよ」という。
「若いからな。おれなんか探してもないよ。
 歳とるとつらいよ。今度も派遣?」
「いや、正社員になるつもりです」
「そのほうがいいよ」

彼は、来週で会社から去っていきます。

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怖い夢を見た

2001年10月03日 | 戦争

今朝、久しぶりに夢を見た。

私がどこかの家にいた。
“空襲警報”みたいなのがあり、
そこにいた人たちと、
電気を消した暗い中で身を縮めている。
これから爆弾とかミサイルが飛んでくる。
これまでの人生で、こんな経験はない。
自分の体が粉々になってしまうのかと思うと、
怖くて、怖くてしかたがなかった。

そして目が覚めた。
アフガニスタンの人々はどんな気持ちなんだろう。

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