今夜、九想話に書くことが何もなく途方に暮れていた。
書くことが何もなかったら書かなくてもいい、とは思っている。
いや、昨日今日それなりのエピソードはあるが、なぜかそれを書く気もしない。
つまらない私事を書いてもしょうがない、と思ってしまう。
むかしの九想話を読んでいて、このことを紹介したいということがあった。
余命2ヶ月と医師にいわれて、糸井重里にメール(2000-08-22-TUE)を書いたひとがいた。
私は、2001年に「ほぼ日」を読むようになり、ガンジーさんを知った。
このときガンジーさんは65歳だった。
2001年の12月20日にガンジーさんは永眠した。
私が、個人的にガンジーさんにメールを書いたら、何通か返事がきた。
そのことはその頃の九想話に書いたような気がする。
私もそろそろガンジーさんの年齢に近づく。
Learn as if you will Live Forever,Live as if you will Die Tomorrow.
(永遠に生きるかのように学べ。明日死ぬかのように生きろ。)
【野坂昭如さん死去】文芸、歌手活動に選挙 焼け跡闇市派、マルチに駆け抜けた生涯
野坂昭如が死んだ。
夕方、女房に電話して知った。
………。
9月まで放送していた永六輔の土曜ワイドの「野坂昭如さんからの手紙」が楽しみだった。
楽しみにしていたくせに、その1分前まで起きていたのにそのコーナーが終わって目が覚める、
ということがよくあった。
永六輔のラジオ番組が月曜日の夜に移ってから1度も聴いていない。
仕事の時間なので聴けなかった。
「野坂昭如さんからの手紙」はその番組でも続いていたはずだ。
九想話に野坂昭如のことを書いたのがいくつかある。
2001.10.27 土曜ワイドからのプレゼント
2003.6.7 帰ってきた中年御三家
2007.1.27 野坂昭如さんからの手紙
2015.3.7 今日の永六輔
探してみたらこの九想話たちが出てきた。
ほかにあるかもしれませんが、もう眠いのでやめます。
私が日本女子大生協で働いていた22歳のとき(だったか?)、
日本女子大の講堂で野坂昭如の講演(ライブ?)があった。
私は仕事が終わってから行ってみた。
すごい女性ばかりの会場だった(あたりまえだ)。
野坂は何曲か歌った。
たしか「マリリン・モンロー・ノー・リターン」か「バージンブルース」を歌ったときに、
女子大生めがけてタンポンをばらまいた。
野坂先生カッコよかったです。
おれは、この世の中で一番好きだったひとが野坂昭如です。
もう、ずーっと冷や酒飲んで“一人お通夜”しています。
マリリン・モンロー・ノー・リターン/CKB・野坂昭如
撹拌子を、ライト染色液の入っているフラスコの中に入れて、それが載っている攪拌機
のスイッチを入れた。フラスコの底で、撹拌子がグルグルまわり始めた。
作業所の壁にかかっている時計は十二時を五分過ぎていた。おれは昼メシに食べるパン
を買いに作業所を出ようとしたら、配達から帰ってきた龍彦に会った。
「井坂君、どこへ行く?」
「………」
「昼に何食べるの?」
「…パン買ってくる」
「それじゃ、おれのも買ってきて」
「自分のは、自分で買ったほうが……」
「いいじゃねェか。おれのも買ってきてよ」
おれは、龍彦のいうのを無視して行こうとした。
「なんだおまえ、おれのパンが買ってこられないのか」
龍彦は美男子ではない。醜男でもない。どっちかというと愛嬌のある顔をしている。そ
の顔が恐ろしい表情になっていた。
「井坂くん、ちょっと来て、外に出よう」
龍彦は、隣の薬品調合室を通りドアを開けて外に出た。おれは行きたくなかったが龍彦
についていった。そこで仕事をしている先輩の社員たちがおれたちを見ているのが分かっ
た。
おれが外に出ると龍彦はいきなりおれの胸ぐらをつかんだ。
「なんでおれのパンを買ってこれないんだ」
外には四月の暖かい風が吹いていた。その四月の風を頬に感じながら、おれは涙を流し
てしまった。龍彦に殴られるのかと思うと、恐怖心が身体全体に広がり、恐くて恐くてし
かたがなかった。
龍彦はボクサーだった。
このことがおれが記憶する、龍彦とおれが初めて接触した出来事だった。一九七二年の
三月のことだ。
あれから四十年、私は生きている。世の中がずいぶん変わった。携帯電話なんていう
あの頃になかったものが、人間社会においてどうしようもない存在感を持ってしまった。
パソコンもそうだ。あの頃、インターネットなどというものは世の中になかった。
………………………………………………………………………………………………………………
これは、私が春の頃から書いてきた小説の出だしです。
書き始めたのですが、夏から止まっています。
先に進めない。
私と龍彦は、1972年こんなふうなことがあってつきあい始めた。
あいつは毎日ボクシングジムに通い、秋の終わりにプロテストに合格した。
私といえば、夜の予備校に行って大学に入り、教師になるんだという夢を持っていた。
会社から歩いて20分ほどのお茶の水の予備校に、私は通っていた。
しかし、昼間仕事をして夜の予備校に行くと私はダメな男でした。
授業の内容がわからないのです。
茨城県立の三流高校を出た私には、東京の予備校にはついていけなかった。
それよりなにより、私は予備校に着くと眠たくなり、授業どころではなかった。
毎日、授業の3分の1は寝ていたと思う。
龍彦はプロテストに合格した。
12月だったかな? 4回戦ボーイのデビュ-戦の1週間まえに龍彦から「飲もう」といわれた。
居酒屋に行くと龍彦が口を開いた。
「おれ、もう人間を殴るのが怖くなった」
「………」
「おれもう、ひとを殴ることが怖いのでボクシングはしたくない。人を殴ることがイヤなんだ」
それからボクシングジムと夜の予備校を辞めた龍彦と私は、毎晩飲み続けた。
あいつは23歳のとき、備前焼の窯元で陶芸の修行をしているときに死んだ。
龍彦が亡くなって40年が過ぎた。
おれはなにやってんだか…。
枯菊の無様よ人の夕暮れも
友人の句が、金子兜太の二句目で朝日俳壇(12/7)に載った。
腹立つくらいいい句だ。
「枯菊」という季語が、中七・下五で生きている。
この季語のことを「こども歳時記」というサイトにはこう書いてあった。
> 雨や霜、寒気にあたって枯れてしまった菊をいう。
> 雨時には雪に埋もれていたりする。
> 雨火にくべるとほのかな香りが立つ。
私の持っている「合本俳句歳時記 新版 角川書店編」にはこう書いてある。
> 時雨や霜に傷つきやぶれ、やがて枯れてゆく菊は、
> そのさかりが花やかであっただけに一層あわれが深い。
いい季語だな、と思う。
恥ずかしながら、私はこの季語を知らなかった。
私が俳句を作るのは、出された兼題により句をひねる。
なので兼題にない季語のことはあまり考えない。
こんな姿勢は俳句を作る者としてはいけませんね。
常日頃、歳時記を読んでいなければ、いい句なんて生まれないと思う。
友人は今年朝日俳壇に取り上げられたのは、これで四句目だそうです。
今年、一句しか載ってない私は、友人の足下にも及びません。
あれから何句か投句しているが採用されない。
心を入れ替えて、俳句に向かおうと思います。
どのぐらい前のことか、スーパーで安いパスタを買い、それを茹でて焼きそばを作ってみた。
安いパスタで焼きそばが作れたら経済的だと安易に考えた私がバカでした。
あれはまずかった。
パスタにソース味が合わなかった。
パスタには何がいいかと考えたらやはりケチャップですね。
それじゃナポリタンを作るしかない、と思った。
でも、ネットでレシピを見ると、なかなか難しそうだった。
コンソメを入れるなんてのが多かった。
そのときからナポリタンを作りたいとずーっと夢見ていた。
今日、家にない材料は買ってナポリタンを作ろうと考えた。
その前にネットで「ナポリタン」を検索してみた。
このレシピに出会った。
隠し味に醤油を使うと書いてあった。
これを作ってやろうと思った。
うちにないピーマンとガーリックパウダーを買ってくることにした。
今日、歯医者に行く日だった。
歯の治療が終わってからツルヤに行った。
4ヶで99円のピーマンを買う。
ガーリックパウダーを見ると、小さな瓶に入って300円を超えていた。
高い、買いたくない。
私はひらめいた。
うちにチューブのニンニクがある。
あれを代用できるのではないか、と思った。
家に帰って作ってみた。
まず100円ショップで買ったものでパスタを電子レンジで茹でる。
これはプラスティックの容器にパスタを入れ、お湯を線まで入れてチンするものだ。
5分間のセットをしてレンジのスイッチを入れた。
そしてピーマンをカットして、ウィンナーも半分に切った。
それを塩コショウしてフライパンで炒めた。
炒めているうちにパスタが茹で上がった。
そのパスタのお湯を捨て、フライパンに載せた。
それにケチャップとチューブのニンニクを適当に入れ、醤油をかけて強火で炒めた。
どれもいいかげんな量です。
1枚しかない大皿に“なんちゃってナポリタン”を載せてみました。
うまかった。
ケチャップと醤油とニンニクがうまく溶け合っておいしかった。
これはなかなかなものです。
タマネギが家にあると思っていたがなかったので入れられなかった。
こんどはタマネギをまぜてみよう。
今は、もぬけの殻の九想庵です。
その昔、九想話のほかに、「小説」「俳句」のページがあった。
それと「囲炉裏端」という掲示板もありました。
復活させなければと思いつつ、さびれたままです。
埼玉の家の私の部屋のドアにこんなものを貼りました。
いや、たんなるドアのキズ隠しです。
なにしろ中古住宅なのであちこちにキズがある。
まだ下のほうにもキズがあります。
もっと大きな「九想庵」の看板にしようかな?
ホームページの「九想庵」はヴァーチャルなものですが、
埼玉の私の部屋は本物の「九想庵」です。
いや今のところ軽井沢のこの家が「九想庵」ですね。
でも、この中軽井沢の「九想庵」には愛着が持てません。
といいながら、なんだかんだいっても現在の「九想庵」はここです。
2017年の3月までここにいる予定です。
女房は、埼玉の家を買ってからあまり軽井沢に来なくなったので、ここは汚いです。
女房が軽井沢に来るとよく掃除をしてくれた。
私はほとんど家の掃除はしません。
こんどの休みに、少しは“九想庵”の掃除でもやろうかな。
古今亭志ん朝 (三代目) Shincho Kokintei 居残り佐平次 落語 Rakugo
「人間なんて生きてて何にもいいことなんてないな」
なんてことを思ってしまう夜なんぞに、今は便利ですね、YouTubeなんてものがある。
音楽もいいが、こんなのもUPされている。
古今亭志ん朝、いいですよ、私は大好きです。
声が通って聴きやすい。
へんな様子がまったくない。
第一に、落語に品があります。
この人の落語に“はずれ”はありません。
この「居残り佐平次」は明るい噺で悩みごとは何にもなくていい。
私のような、いつも暗い未来を考えて、落ち込んでる男にはありがたいです。
私も佐平次のように生きたいものです。
Georgia on my mind / 我が心のジョージア Shakuhachi&Guitar 尺八&ギター
今、私はどういう音楽をやりたいんだろう?
私は、中学高校と吹いていたトロンボーンが大好きです。
30代のときにも埼玉の市民吹奏楽団で吹いていた。
でも、もうずいぶん吹いていません。
ギターは中学3年から弾いている。
まったくうまくなりません。
歌の伴奏ぐらいはできるけど、やはり弾いてないからダメですね。
20歳の頃に出会ったケーナは今も吹いている。
難しいです。
これからも吹いていこうと思っています。
ブルースハーモニカも吹いているが、どうしょうもなく下手くそです。
今年から尺八を真剣に練習している。
なんとか旋律も吹けるようになった。
しかし、まだまだダメです。
今、一番がんばりたいのが尺八です。
この動画のように吹けたらサイコーですね。
この曲、大好きです。
尺八もいいですが、このギターが素晴らしいです。