撹拌子を、ライト染色液の入っているフラスコの中に入れて、それが載っている攪拌機
のスイッチを入れた。フラスコの底で、撹拌子がグルグルまわり始めた。
作業所の壁にかかっている時計は十二時を五分過ぎていた。おれは昼メシに食べるパン
を買いに作業所を出ようとしたら、配達から帰ってきた龍彦に会った。
「井坂君、どこへ行く?」
「………」
「昼に何食べるの?」
「…パン買ってくる」
「それじゃ、おれのも買ってきて」
「自分のは、自分で買ったほうが……」
「いいじゃねェか。おれのも買ってきてよ」
おれは、龍彦のいうのを無視して行こうとした。
「なんだおまえ、おれのパンが買ってこられないのか」
龍彦は美男子ではない。醜男でもない。どっちかというと愛嬌のある顔をしている。そ
の顔が恐ろしい表情になっていた。
「井坂くん、ちょっと来て、外に出よう」
龍彦は、隣の薬品調合室を通りドアを開けて外に出た。おれは行きたくなかったが龍彦
についていった。そこで仕事をしている先輩の社員たちがおれたちを見ているのが分かっ
た。
おれが外に出ると龍彦はいきなりおれの胸ぐらをつかんだ。
「なんでおれのパンを買ってこれないんだ」
外には四月の暖かい風が吹いていた。その四月の風を頬に感じながら、おれは涙を流し
てしまった。龍彦に殴られるのかと思うと、恐怖心が身体全体に広がり、恐くて恐くてし
かたがなかった。
龍彦はボクサーだった。
このことがおれが記憶する、龍彦とおれが初めて接触した出来事だった。一九七二年の
三月のことだ。
あれから四十年、私は生きている。世の中がずいぶん変わった。携帯電話なんていう
あの頃になかったものが、人間社会においてどうしようもない存在感を持ってしまった。
パソコンもそうだ。あの頃、インターネットなどというものは世の中になかった。
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これは、私が春の頃から書いてきた小説の出だしです。
書き始めたのですが、夏から止まっています。
先に進めない。
私と龍彦は、1972年こんなふうなことがあってつきあい始めた。
あいつは毎日ボクシングジムに通い、秋の終わりにプロテストに合格した。
私といえば、夜の予備校に行って大学に入り、教師になるんだという夢を持っていた。
会社から歩いて20分ほどのお茶の水の予備校に、私は通っていた。
しかし、昼間仕事をして夜の予備校に行くと私はダメな男でした。
授業の内容がわからないのです。
茨城県立の三流高校を出た私には、東京の予備校にはついていけなかった。
それよりなにより、私は予備校に着くと眠たくなり、授業どころではなかった。
毎日、授業の3分の1は寝ていたと思う。
龍彦はプロテストに合格した。
12月だったかな? 4回戦ボーイのデビュ-戦の1週間まえに龍彦から「飲もう」といわれた。
居酒屋に行くと龍彦が口を開いた。
「おれ、もう人間を殴るのが怖くなった」
「………」
「おれもう、ひとを殴ることが怖いのでボクシングはしたくない。人を殴ることがイヤなんだ」
それからボクシングジムと夜の予備校を辞めた龍彦と私は、毎晩飲み続けた。
あいつは23歳のとき、備前焼の窯元で陶芸の修行をしているときに死んだ。
龍彦が亡くなって40年が過ぎた。
おれはなにやってんだか…。