何年か前九想話に、私が生まれた岩瀬町の即身仏のことを書くときに、
ネットで検索していたら「妙法寺の即身仏(ミイラ)」という文章が出てきた。
私が書こうとしていた即身仏は、私の実家が檀家になっている妙法寺のそれだったので驚いた。
それが書いてあったのは、「いっつ・あ・さくらがわーるど」というホームページの、
「いわせものがたり」というものだった。
これは、岩瀬町の歴史研究家古山孝という人が書いた「ふるさと歴史散歩 いわせものがたり」を、
ホームページに転載したものです。
「いわせものがたり」は、岩瀬町(現在は、桜川市)に生まれた私にとって宝物のようなものです。
私が知らない岩瀬のことが書いてある。
このホームページが消えないことを祈ってます。
「恋歌」(朝井まかて著 講談社文庫)を8日の深夜読了した。
仕事のあるときは読めず、休みのときも尺八を削ったり、庭作業をしていてなかなか進まなかった。
半分ほど読んでいたのを、一気に読んでしまった。
正直半分ぐらいまではどちらかというと退屈な展開で中々物語に入れなかった。
ところが、天狗党が筑波山で蜂起したあたりからグングン文章に引き込まれていった。
私は、茨城県に生まれながら天狗党のことをまったく知らなかった。
この小説を機会に勉強してみたいと思った。
それにしても読んでいて、文章を追うことがつらいほどの凄惨なことが続いた。
天狗党の家族を保守党の諸生党が牢に入れ、ひどい仕打ちをする。
こんなことが茨城であったのか、と私は驚くばかりです。
小説の主人公は、登世という女性でのちの中島歌子。
武蔵国入間郡森戸村(現・埼玉県坂戸市)に生まれ、ほどなく江戸に移った。
水戸藩士の武士と結婚して水戸に行く。
しかし、登世の愛した林忠左衛門以徳は、尊皇攘夷の急先鋒たる天狗党の志士だった。
諸生党は、天狗党の家族を捕まえて牢に入れる。
牢に入った登世は、そこで大変な暮らしを体験する。
天狗党の乱が終わって解放された登世は江戸に行き、明治期に一世を風靡した歌人になる。
あまりの残酷な場面があり、読んでいてつらかったです。
同じ茨城の人間が、立場の違いで天狗党の家族に残酷ことをしてしまう。
でもこんなことも人間のしたことなのだと思いながら読みました。
中島歌子としてのことがあまり書いてない。
私としては、歌人になってからのことを読みたかった。
昨日の夜の11時半から「サクラサク」という映画をやっていた。
私は本を読んでいたので録画した。
それを今日観た。
大手家電メーカーに勤める大崎俊介は、部下からも慕われ上司にもよく思われていた。
しかし、家庭の中は悲惨な状態だった。
妻とはまともな会話はなく、大学を落ちたフリーターの息子の大介は、家に帰ると自室に閉じこもってしまう。
高校生の咲子は毎晩帰りが遅く、俊介の忠告も聞かず何を考えているかわからない。
俊介が会社の仕事に夢中になっていてふと気づくと、家族はバラバラになっていた。
そんなとき、父・俊太郎が老人性痴呆症の症状になってきた。
大雨の夜、俊太郎が徘徊しているところを警察に保護され、その日を境におかしな行動が増えていった。
俊介は、自分を育ててくれた父親を守ろうとがんばる。
だが、妻や子どもたちは知らんぷりのように見えた。
ところが父親よりも早く祖父の老人性痴呆症に気づいていた大介は、おじいちゃんの介護をしていた。
粗相をした祖父の身体を拭いたり、紙おむつを買ってきて祖父に着けてやり、それを処理したりしていた。
家族のことを何も考えないと思っていた息子のやさしさあふれる行動を見て、
家族のことをきちんと見てこなかったのは自分だったと反省する。
ある晩、俊介は父親から遠い過去の思い出を聞く。
「家族と暮らした思い出は、敦賀のあのお寺だけだ。春、桜の花が満開で美しかった」
あいまいな様子で思い出を語る父を見ていて俊介は決意する。
一家は一台のワゴン車に乗り込み、初めての旅に出る。
おじいちゃん役の藤竜也の演技がよかった。
老人性痴呆症になっていく俊太郎を見ていて、私も悲しくなってきた。
私もいつの日かああなってしまうのだろうか?
60過ぎて物忘れがひどくなってきた(現在の私は痴呆症とはちがうと思う?)。
痴呆症になって女房に(できれば)介護されたくない。
老人性痴呆症の演技をしている藤竜也を見ていて、涙が止まらなかった。
原作は、さだまさし、小説を読んでみたいと思う。
2日、いつものように湯川ふるさと公園にウォーキングに行ったときに、
湯川のほとりを歩いているとバタバタと鳥が飛び立った。
カモでした。
すぐカメラのスイッチを入れシャッターを押した。
なんとかカメラに写っていてくれました。
かわいくて、いとおしい気持ちになりました。
これから卵を産んで子育てをするんだろうと思います。
カモを拡大してみました。
こんな人間ですが、私は20代の頃、詩を書いていました。
ただノートに書いていただけです。
高校生のときから、詩のようなものを書いていた。
なにが“詩”かも知らないで書いていた。
そのノートは、今は埼玉の家にあります。
20代の後半、結婚してから詩を書かなくなりました。
詩は、孤独じゃないと書けなかった。
いや、結婚して“孤独”じゃなくなったというわけではない。
所帯を持っても、十分孤独でした。
でも、家にいるとつれあいがいて、そのうち子どももいる暮らしになった。
状態としては、孤独ではない。
私は詩を書かなくなった。
その代わりといってはなんですが、小説を書くようになりました。
毎日、2・3時間書いていた。
文学雑誌の一次予選には通る作品を書いたが、30代半ばになり会社の仕事がきつくなった。
家族のために会社で生き残るようにがんばるしかなく、いつしか小説を書かなくなった。
30代で3回、40代で1回、私は転職をした。
双子の息子とつれあいと、メシを喰っていくために必死に会社を移り生きてきた。
どうしてなのか、私が転職した会社が次々に消えて行ってしまうのです。
そのたんびに転職して生きてきた。
それはそれでいいのです。
息子たちも結婚して子どもが生まれた。
一人前の社会人として生きている。
問題は、ここ何年も小説を書きあげてないダメな私です。
この男をなんとかしなくてはいけない。
4月4日は、最近九想話を読み始めた人は知らないと思いますが、九想庵の生まれた日です。
今から15年前(2001年)に、九想庵というホームページを私が立ち上げました。
それまで九想話は、ASAHIネットの「かしの木亭談話室」というところに書いていた。
ASAHIネットは、もともとパソコン通信の会社です。
私は40歳(23年前)のときにパソコンを買ってパソコン通信を始めた。
パスカル短編文学新人賞というものに応募したくてパソコンを買い、ASAHIネットに入会した。
そこでパスカル短編文学新人賞に応募していた川上弘美さん、長嶋有くんと知り合い、
第七句会というネット句会で一緒に俳句を作っていた。
あのふたりは芥川賞をとり、現在作家として活躍している。
私は、ただの“酒好きな人間”として生きてます。
話がそれてしましました。
私は、インターネットというものが世の中に普及して、
私自身も見るようになってから、自分のホームページを持ちたいと考えていた。
しかし、ホームページをどうして作るのかわからなかった。
1998年の頃、ホームページを作るソフトがあることを知った。
しかし、なかなかそのソフトを買ってホームページを作るという気持ちになれなかった。
2001年、私はホームページビルダーというアプリケーションソフトを買った。
その説明書を必死に読み、なんとか「九想庵」というホームページを立ち上げた。
最初は「九想話」と「囲炉裏端」という掲示板だけのホームページだった。
私としては、「九想庵」の表紙を作ることだけでも大変だったんです。
なんとしてもホームページに来てくれた人のカウンターをつけたかった。
さっき私が九想庵に行ったときには“旅人の数”は、181,471人でした。
現在、このブログ「九想話」に来てくれる人は直接に九想話に来ると思います。
昔の九想庵を知っている人は九想庵から入ってくれる。
なので九想庵のアクセスカウンターの数は1日10~20ぐらいしか増えません。
でもありがたい。
今でも、九想庵を忘れないでいてくれています。
その方々のためにも、いつの日か九想庵を復活させたいと考えています。
(こんなこと、毎年書いています。情けない)
俳句のページと小説のページを復活させたい。
少々お待ち下さい。
「九想庵」は、まもなく復活します。
いや、復活させたい。
復活させたい気持ちはある。
やはりむずかしいかな…。
復活させるには、最新のホームページビルダーを買わなければならない。
15年前のそれは、現在の私のパソコンでは動かないのです。
正直な気持ち、ホームページビルダーを買うお金がありません。
イヤ、ないわけはないが、(酒をやめればいいのです)
年金の少ない私と女房の老後のために節約生活をしなければなりません。
使わなくていいお金は使いたくないのです。(なので尺八も買いません)
息子たちの世話にはなりたくない。
女房と私だけのささやかな経済力で老後を生きていたいと考えています。
なんだか九想庵の誕生日だっていうのに、しみったれた話ですみません。
来年は、景気のいい九想庵の誕生日にしたい…デス。
私は春になったら、いつか尺八を作ろうと考えていた。
尺八といっても、水道管尺八です。
最初に作った水道管尺八は、つなぎのない1本ものだった。
これは一尺八寸の長さで、長くて持ち運びに不便です。
私としては、いつもバックに入れていて、好きなときに尺八が吹きたいと思っています。
その作り方が水道管尺八のサイトに書いてあった。
去年、台所のガスバーナーを使ってやってみたがうまくできなかった。
それは、水道管を暖めたときに差し込むものがきちんとしていなかったためだと思う。
そのために今回は、きっちり作りました。
水道管の内径は20mm、外径20mmの木製の丸棒をホームセンターで買ってきたのですが水道管に入らない。
しょうがないのでヤスリでけずって作りました。
④の写真のように、とりあえず形はできた。
この状態から、歌口を作り、指穴を開けなくてはならない。
これが大変でした。
なんとか⑦の写真のように作りました。
⑧の写真のように、つなぎのない1本ものの尺八と同じようにできた。
でもまだ完成していません。
1本目の尺八もまだまだ不完全ですが、2本目の尺八も完成度からいったら30%です。
やはり歌口の形状がむずかしい。
少しづつ修正していこうと思っています。
ホントのことをいえば、竹の尺八が買えればいいんですけどね…。
私には、高くて買えません。
3月25日(金)女房が有給休暇を取って休んでくれた。
その日、念願のジャガイモの種イモを植えることにした。
ホームセンターに行って種イモを買った。
なんの知識も好みもない、なんとなく雰囲気でメイクイーンを選んでしまった。
一番少ない袋のものを買ったのですが、20コありました。
はじめは種イモを半分に切ることを考えていた。
しかし、私たちの畑は小さい。
切らずにそのまま植えることにした。
今思うと、もっと間を開けたほうがよかったかな、と思う。
でも、もうやってしまったのだからしかたないですね。
連作障害ということもある。
同じ土地で同じ作物を作ると、いけないらしい。
これを経験として記憶しておいて、次のときに生かしていきたい。
サニーレタスの苗も買ってきたので植えた。
その隣はパセリです。
さてどうなりますかね?
みんな大きく育って欲しいけど、そうはうまく行きませんよね。
しかし、こんな小さな畑を相手にしてこれだけ疲れている。
農業で暮らしていた両親に頭が上がりません。
父と母は、よく農作業をやってこられたなと思う。
私はダメな息子でした。