安禄山の本拠幽州節度は意外に親唐朝派節度使が多い、その一例として李載義。
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李載義/李再義伝
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載義[字は方穀].恒山王承乾[太宗時の廃太子]の子孫と自稱している。
豪傑であり交遊を好む。
幽州節度劉濟・總父子に仕え功績があり牙中/都知兵馬使.檢校光禄大夫兼監察御史。
軍内では親唐朝派であり、朱克融の自立には不満であった。
宝暦二年五月.軍乱により克融が殺され、子の延嗣が一応継承した。
八月.延嗣もまた軍を統制できず、都知兵馬使載義と弟牙内兵馬使載寧は乱して族滅した。
そして唐朝に報告、喜んだ敬宗皇帝はすぐ承認して檢校戶部尚書御史大夫幽州盧龍軍節度副大使知節度事.封武威郡王とした。
載義は親唐朝政策を取り、長慶元年の乱で拘束された張弘靖の幕僚の妻子親族を返還した。
太和元年.横海李同捷が自立すると唐朝軍とともにこれを伐ち、檢校尚書右僕射。
検校司空.金紫光禄大夫に進む。
三年.滄州長蘆を抜く、四月.滄州を攻撃、李祐は德州を陥し同捷は平定された。
功績により同中書門下平章事.實封三百戸。
四年四月.侵攻してきた奚を破り、その王を捕らえた。守太保となる。
五年正月/四年.副兵馬使楊志誠が乱し,載義は易州に逃げた。
文宗皇帝は乱を望まず、二月.載義を入朝させ太保平章事として優遇し、志誠を幽州留後にした。
四月.守太保平章事山南西道節度使に赴任。志誠は節度使に昇格、しかし反唐朝の立場であった。
七年六月.守太保平章事河東節度使に移った。ついで開府儀同三司、母喪後、驃騎大将軍。
太原を通過する回鶻使者を威嚇して暴慢を抑えた。
八年十月.幽州を乱で逐われた楊志誠を襲撃してその妻子及從行將卒を殺した。
これは志誠が幽州の載義の母兄の墓を暴いた報復であった。唐朝はこれを咎めなかった。
九年十一月.李訓は戸部尚書判度支王璠を河東節度使とし、載義を兼侍中にして解任したが、
璠は赴任しないまま甘露の変で殺されたため載義が復任した。
開成二年卒,年五十,贈太尉。
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李載義/李再義伝
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載義[字は方穀].恒山王承乾[太宗時の廃太子]の子孫と自稱している。
豪傑であり交遊を好む。
幽州節度劉濟・總父子に仕え功績があり牙中/都知兵馬使.檢校光禄大夫兼監察御史。
軍内では親唐朝派であり、朱克融の自立には不満であった。
宝暦二年五月.軍乱により克融が殺され、子の延嗣が一応継承した。
八月.延嗣もまた軍を統制できず、都知兵馬使載義と弟牙内兵馬使載寧は乱して族滅した。
そして唐朝に報告、喜んだ敬宗皇帝はすぐ承認して檢校戶部尚書御史大夫幽州盧龍軍節度副大使知節度事.封武威郡王とした。
載義は親唐朝政策を取り、長慶元年の乱で拘束された張弘靖の幕僚の妻子親族を返還した。
太和元年.横海李同捷が自立すると唐朝軍とともにこれを伐ち、檢校尚書右僕射。
検校司空.金紫光禄大夫に進む。
三年.滄州長蘆を抜く、四月.滄州を攻撃、李祐は德州を陥し同捷は平定された。
功績により同中書門下平章事.實封三百戸。
四年四月.侵攻してきた奚を破り、その王を捕らえた。守太保となる。
五年正月/四年.副兵馬使楊志誠が乱し,載義は易州に逃げた。
文宗皇帝は乱を望まず、二月.載義を入朝させ太保平章事として優遇し、志誠を幽州留後にした。
四月.守太保平章事山南西道節度使に赴任。志誠は節度使に昇格、しかし反唐朝の立場であった。
七年六月.守太保平章事河東節度使に移った。ついで開府儀同三司、母喪後、驃騎大将軍。
太原を通過する回鶻使者を威嚇して暴慢を抑えた。
八年十月.幽州を乱で逐われた楊志誠を襲撃してその妻子及從行將卒を殺した。
これは志誠が幽州の載義の母兄の墓を暴いた報復であった。唐朝はこれを咎めなかった。
九年十一月.李訓は戸部尚書判度支王璠を河東節度使とし、載義を兼侍中にして解任したが、
璠は赴任しないまま甘露の変で殺されたため載義が復任した。
開成二年卒,年五十,贈太尉。