唐史話三眛

唐初功臣傳を掲載中、約80人の予定。全掲載後PDFで一覧を作る。
その後隋末・唐初群雄傳に移行するつもりです。

李載義/李再義伝

2019-03-16 10:00:25 | Weblog
安禄山の本拠幽州節度は意外に親唐朝派節度使が多い、その一例として李載義。

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李載義/李再義伝
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載義[字は方穀].恒山王承乾[太宗時の廃太子]の子孫と自稱している。

豪傑であり交遊を好む。

幽州節度劉濟・總父子に仕え功績があり牙中/都知兵馬使.檢校光禄大夫兼監察御史。

軍内では親唐朝派であり、朱克融の自立には不満であった。

宝暦二年五月.軍乱により克融が殺され、子の延嗣が一応継承した。

八月.延嗣もまた軍を統制できず、都知兵馬使載義と弟牙内兵馬使載寧は乱して族滅した。

そして唐朝に報告、喜んだ敬宗皇帝はすぐ承認して檢校戶部尚書御史大夫幽州盧龍軍節度副大使知節度事.封武威郡王とした。
載義は親唐朝政策を取り、長慶元年の乱で拘束された張弘靖の幕僚の妻子親族を返還した。

太和元年.横海李同捷が自立すると唐朝軍とともにこれを伐ち、檢校尚書右僕射。
検校司空.金紫光禄大夫に進む。

三年.滄州長蘆を抜く、四月.滄州を攻撃、李祐は德州を陥し同捷は平定された。
功績により同中書門下平章事.實封三百戸。

四年四月.侵攻してきた奚を破り、その王を捕らえた。守太保となる。

五年正月/四年.副兵馬使楊志誠が乱し,載義は易州に逃げた。
文宗皇帝は乱を望まず、二月.載義を入朝させ太保平章事として優遇し、志誠を幽州留後にした。

四月.守太保平章事山南西道節度使に赴任。志誠は節度使に昇格、しかし反唐朝の立場であった。

七年六月.守太保平章事河東節度使に移った。ついで開府儀同三司、母喪後、驃騎大将軍。
太原を通過する回鶻使者を威嚇して暴慢を抑えた。

八年十月.幽州を乱で逐われた楊志誠を襲撃してその妻子及從行將卒を殺した。
これは志誠が幽州の載義の母兄の墓を暴いた報復であった。唐朝はこれを咎めなかった。

九年十一月.李訓は戸部尚書判度支王璠を河東節度使とし、載義を兼侍中にして解任したが、
璠は赴任しないまま甘露の変で殺されたため載義が復任した。

開成二年卒,年五十,贈太尉。

陳楚伝

2019-03-15 09:12:09 | Weblog
主君の唐朝歸附に従い出世した將軍。

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陳楚伝
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楚[字は材卿]は定州の人。

易定[義武軍節度]を唐朝に返還した張茂昭の甥。

若くして武勇があり義武軍牙將として茂昭に仕え活躍した。

茂昭に従い入朝して諸衛大將軍.封普寧郡王。

易州刺史となった。

元和十二年/十一年十二月.義武軍節度使渾鎬[瑊の子]が小勝に浮かれて鎭州を攻め、成徳軍に大敗し、定州に兵乱が置き、鎬一家は掠奪され路頭に迷う状況になった。
楚は大雪の中、急行赴任してこれを救った。楚家は久しく定州に住み、軍中はみな友人や旧部下であったので、すぐ常態に復帰することができた。

長慶元年十二月.侵攻してきた幽州朱克融兵を望都及北平で破った。

二年七月.宣武軍乱に際して、東都留守判尚書省事東畿汝防御使となるが、武官が東都留守になる前例はないとの指摘があり、八月.河陽三城懷節度使に転じた。

三年二月.治所の河陽三城に懷州の門戟を移した。

その後、検校司空.左羽林/龍武統軍に移った。

長慶三年.卒。六十一歳,贈司空

王廷湊/王庭湊伝

2019-03-14 11:54:14 | Weblog
徹頭徹尾反唐朝を貫いた、蕃族出身の將軍。成德節度は五代まで王氏が継承した。

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王廷湊/王庭湊伝
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廷湊は回鶻阿布思之種族。
代々安東都護府に隷属していた。

曾祖五哥之は,李寶臣父子に仕え、王武俊の假子となり王姓を名乗る。
祖は末怛活,父は昇朝であり成徳軍の騎將であった。

廷湊は寡言で有斷、衙內兵馬使/都知兵馬使となる。

魏博田弘正が成德軍節度使になるが、廷湊は不満であり事ごとに衆を煽った。
しかし弘正が魏博兵二千を親衛として警戒している間はどうしようもなかった。

ところが唐朝の宰相崔植・杜元潁は河北の情勢を知らず、ただ財政面だけを考え、親衛兵の経費をけちったため、長慶元年六月.親衛兵は帰還した。

七月.廷湊は反乱し、弘正と將吏家族三百余人を殺し自立した。また幽州でも朱克融が反乱し唐朝が派遣した節度使張弘靖を監禁した。

冀州を取り刺史王進岌を殺した。

唐朝は河東節度裴度を幽鎮兩道招撫使とし、弘正の子涇原節度使布を魏博節度使とし、成德將深州刺史牛元翼為成德軍節度使として、橫海昭義河東義武軍を派遣して廷湊を伐たせた。
鎭州でも親唐朝派が廷湊を除こうとしたが発覚し坐死者二千餘人。

ところが討伐軍は動かず、八月.牛元翼は深州に籠城したる

実際の征討総帥である横海節度使烏重胤は戦況の不利を説いたが、穆宗皇帝はこれを左遷[山西節度へ]
して神策軍将杜叔良を深冀行營節度使として伐たせた。

十月.廷湊は貝州を陥した。

十一月.宦官とつながるだけの凡將杜叔良は博野で大敗した。義武軍節度陳楚だけが功績があった。

そこで鳳翔節度使李光顏を忠武節度使兼深冀節度として深州を救わせることになったが、
穆宗皇帝の浪費のために軍費が枯渇しており、光顔軍も補給不足で崩壊するありさまであった。

宰相達は財政悪化を懼れて、成德・幽州を手放す決定をし、
十二月.まず朱克融を赦した。

二年正月.成德攻撃中の魏博軍は自壊し、布は責任を感じて自殺した。魏博は史憲誠が自立した。

二月.廷湊は檢校右散騎常侍鎮州大都督府長史成德軍節度鎮冀深趙等州觀察等使になり、元冀は山南東道節度使に移された。

しかし克融と廷湊は深州を包囲を解かなかった。

招撫使裴度が説得したため克融は鎭に戻り、廷湊もまた包囲を緩めた。三月.檢校工部尚書

四月.元翼は深州を脱走し、廷湊は残留した部下を殺した。

五月.唐朝は元翼の家族と田弘正の遺骸を求めたが、廷湊は応じなかった。

元翼が山東節度で卒すると、廷湊はその家属を族滅した。

そして朱克融、史憲誠と連衡して唐朝に対抗し続けた。

宝暦二年.克融・廷湊は東都修築に出兵して支援をしたいと唐朝を脅かした。

太和元年.滄州で李同捷が自立すると、それを支援し唐朝軍と戦った。
幽州李載義は唐朝に付き、魏博史憲誠は両端を保った。

二年八月/九月.唐朝は廷湊を伐つこととした。

廷湊の指嗾により魏博將丌志沼は行營兵を以って叛し史憲誠を攻めたが、義成軍節度使李聽に撃破された。

三年六月.李同捷は誅されたが、魏博史憲誠もまた何進滔に乱殺され情勢は好転しなかった。

八月,廷湊は檢校司徒成德軍節度使に復したが反唐朝姿勢は変わらなかった。

加太子太傅.太原郡開國公食邑二千戶。

八年十一月.卒 冊贈太尉,累贈至太師。
子元逵が嗣ぎ、唐朝へは融和的になった。

韓游瓌/韓遊瓌伝

2019-03-13 11:56:17 | Weblog
実直に功績を積んできたが、子の謀叛により引退させられた将軍。
德宗皇帝は贔屓が強かったから、通常は連座し配流になるだろう。

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韓游瓌/遊瓌伝
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遊瓌は河西/靈州靈武の人。

朔方軍に加わり節度使郭子儀の都游弈使。安祿山將阿史那從禮を破り將、同羅、突厥を歸附させる。

累進して邠寧節度留後[節度使は李懷光]となる。

建中四年.朱泚が反して德宗皇帝が奉天に逃亡籠城したとき、游瓌は来援し奉天城を死守した。
功績が大きく德宗は親軍に統軍を置き遊瓌を任じた。

興元元年.李懷光が反したため,遊瓌は邠州に入り、その留後張昕を誅して四月.邠寧節度使となった。

副元帥李晟に従い京師奪還へと向かい、檢校刑部尚書兼御史大夫奉天定難功臣。

李晟が京城に勝ち,遊瓌も咸陽に朱泚兵を破った。
德宗の還京に従い、六月.檢校尚書左僕射,實封戶四百。

貞元元年.馬燧、渾瑊に従い邠寧兵を率いて河中に李懷光を攻めた。
邠寧兵は李懷光軍と遊瓌軍の両方にいたため懷光軍は本気で戦おうとしなかった。
七月加實封戶二百。

二年.吐蕃が涇隴邠寧に侵攻してきたが破った。

また吐蕃が鹽・夏・銀・麟州を取った。遊瓌は鹽州を奪回した。

淸水の盟約に反対し、渾瑊を救い、十月.豐義に吐蕃を撃退した。

ところが貞元三年.子の欽緒が李廣弘と共に京師で謀叛を企て失敗した。
当時遊瓌は長武城にいた。邠州將吏は逃亡してきた欽緒を捕らえた。

遊瓌はその責任を取り辞職を申し出たが德宗皇帝は慰撫した。
十二月入朝謝罪し、吐蕃防衛策を説いて赦され邠寧に戻った。

ところが邠州の將吏は遊瓌を見限っていたため驚き、將范希朝を擁立しようとした。
遊瓌は希朝を逐い、豐義城を築こうとしたが配下はまともに動かず,寧州戍卒は乱した。
遊瓌は策なく、士心を失っていたのでまともな対処ができたなった。

四年七月.耐えられなくなって金吾将軍張獻甫に交代を求め、邠州から京師に遁走した。
將卒は獻甫を嫌い、希朝を帥に求めて乱した。
都虞侯楊朝晟が乱兵を誅して、希朝を副として寧州刺史とすることで収めた。

游瓌は旧功により右龍武統軍となった。

十四年/十三年十二月.卒。諡曰襄。

樊澤伝

2019-03-12 11:36:28 | Weblog
幕僚型で武藝もある官僚である。そつなく方鎭を率い功績をあげた。

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樊澤伝
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澤、字は安時、河中の人。

父詠は開元中に草澤に合格したが試大理評事に終わる。

澤は父を失い各地を放浪、安史の乱の残党相衛節度薛嵩に使えて磁州司倉、堯山縣令。

建中元年.賢良對策に合格し、禮部侍郎于邵や楊炎に推薦されて補闕となる。

都官員外郎を歴任したが、兵書を好んで読んだ。

建中三年.兼御史中丞充通和蕃使として吐蕃に使いして、その宰相尚結贊に遇される。

四年.鳳翔節度張鎰と吐蕃の清水會盟に参加。

金部郎中御史中丞山南節度行軍司馬となる。

淮西李希烈が反し,普王が行軍元帥となり、澤は諫議大夫元帥行軍右司馬となる。

奉天の乱により実行されず、右庶子兼中丞山南東道行軍司馬に戻る。

興元元年.賈耽に代わり襄州刺史兼御史大夫山南東道節度觀察等使。
武藝があり、山東諸將を心服させ、淮西を牽制していた。

貞元二年二月.淮西将杜文朝が来寇したが、破り捕らえる。
ほか李希烈をしばしば破り、將張嘉瑜、梁俊之、李克誠、薛翼を降し、唐、隨二州を取った。

希烈が平定して丁母憂,起復右衛大將軍同正,余如故。

貞元三年.張伯儀に代わり荊南節度觀察等使江陵尹兼御史大夫。

三歲,加檢校禮部尚書

八年.曹王皋が卒し軍乱が起こった山東節度使に復し鎮定した。

十二年.加檢校右僕射。

十四年.卒年五十七,贈司空。諡曰成。

曹華伝

2019-03-11 20:19:49 | Weblog
兵卒出身でありながら、礼節を知り士大夫を尊重し、唐朝に忠節を尽くす勇将という
都合の良い將軍でした。

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曹華伝
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華は宋州楚丘人、祖系は不明。

宣武軍に仕え幹部となり李萬榮の子乃の自立を阻止し、節度使董晉は牙將とした。

その後仇敵を避けて東都へ、貞元末.吳少誠が叛したため留守王翃は襄城戍將として守備させ、功績があった。檢校右散騎常侍。

元和九年.寧州刺史に任ぜられるが、吳元濟が叛したため、河陽節度烏重胤に従い河陽都知兵馬使.懷汝節度行營副使として戦った。

十二年.宰相裴度に従い郾城に淮西呉元濟兵と戦い功績があった。

十三年.功績により棣州刺史となり封陳留郡王。
淄青李師道の侵攻に対抗して守備を固めた。橫海節度副使。

十四年.李師道が誅されたあと、王遂が沂兗海觀察使となったが、將士を強圧的に遇したため、牙將王弁に殺された。唐朝は華を檢校左散騎常侍沂州刺史沂海兗觀察使に補してこれを乱兵を誅殺させた。

十五年.沂州が治所としては偏在しているので兗州へ移治を求め認められた。
儒学・仏教を振興し人情を安定させた。

成德王廷湊の乱には出兵を請い、加檢校工部尚書、兗海観察使は節度使に昇格した。

長慶二年七月.宣武軍節度李介の乱に際しては果断に出兵し、その属州である宋・亳州を抑えた。
加檢校尚書右僕射。

八月.成德・魏博が抗命したので、滑州刺史義成軍節度使に移った。
たとえ気に入りの家臣であっても不法をなせば容赦なく処刑し治安を保った。

長慶三年七月.卒于鎮,六十九歳。贈司空。

兵卒出身だが禮を持ち、士大夫を尊重し、誠信を貫いた。

李元諒/駱元光伝

2019-03-10 09:45:29 | Weblog
漢人と違い蕃族出身の將軍は誠実なものが多い。僕固懷恩や李懷光なども叛臣とされて
いるが宦官や漢人に陥れられたわけである。

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李元諒/駱元光伝
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本姓は安、西域安息人。

宦官駱奉先の養子となり駱元光と称した。

長身で美髯であり、勇敢であったので、宿衛となり試太子詹事となった。

出て鎮國軍節度使李懷讓の元に鎮國軍副使領華州事。

潼關を守ること十數年、軍士は畏服した。

建中四年.德宗皇帝が、朱泚の反乱により逃亡し奉天に籠城したとき、
泚は何望之を派遣して華州を襲わせ、文官の華州刺史董晉は逃亡した。
望之は華州城を取り、東都との連絡を絶とうとした。
元諒は潼關よりこれを襲撃して華州を復し軍備を整えた。
功により御史中丞を加。
藍田の尚可孤と連携し、泚軍を封じ込めることに成功した。
華州刺史兼御史大夫潼關防御鎮國軍節度使となり、
檢校工部尚書を加えられた。

興元元年五月.副元帥李晟に従い京師を回復した。
加檢校尚書右/左僕射,實封九/七/五百戶。武康郡王。

また副元帥馬燧、渾瑊と共に李懷光を河中に伐った。
降將徐庭光は元諒の祖先を西戎出身と侮蔑したので殺害したが、
德宗皇帝は功績を考えてこれを赦した。

貞元三年.渾瑊に従い吐蕃と平涼に會盟、吐蕃の策略から瑊を守った。

丁母憂,加右金吾衛上將軍,起復本官。
賜姓李氏,改名元諒。

四年.加隴右節度支度營田觀察臨洮軍使を加えられ、良原縣に移治して吐蕃防衛にあたった。
良原は荒廃し危険な土地であったが、元諒は率先して屯田築城し安定させた。
これにより涇、隴は安全な地域となっていった、

貞元九年十一月良原に卒した。年六十二/七。贈司空。諡曰莊威。

蛮夷出身の將軍に多い誠実で向背のない良將であった。

梁崇義伝

2019-03-09 11:18:54 | Weblog
恩人來瑱を殺され、唐朝を信用できなかった將軍。まああの皇帝達では信用しないほうが
正しいが。

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梁崇義伝
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崇義は長安の人。

市場で働き大力で有名であった。

羽林軍に入り、來?に従って山東右兵馬使となり、寡黙勇断で重んぜられていた。

瑱は入朝し南陽を守備していたが、
寶應二年正月.?が宦官の讒言により殺されると憤激し、兵を率いて襄州に入った。

同列の將李昭、薛南陽と争ったが結局崇義が帥となり、寶應二年三月.他將を殺して自立した。

三月.唐朝はこれを伐つ力なく、襄州刺史山南東道節度留後に任じた。
瑱の恩を感じて、常にその像を政堂に置いて拝していた。

節度使、御史中丞、御史大夫、檢校尚書を歴任。

魏博田承嗣、淄青李正己、昭義薛嵩、成德李寶臣と結び、山東六州に兵二萬を備えて唐朝に対抗した。

しかし兵力が小さいを怖れ法令には従い、一応の礼節は取っていた。
ただ入朝の勧めには來瑱が陥れられたことにより不信を示し応じなかった。

大暦九年.澧朗鎮遏使楊猷が復・郢州に侵攻し、それに備えた。

建中元年/二年.淮西節度使李希烈は崇義を伐つことを請い、怖れた崇義謝罪入朝を求めた。
しかし使者李舟に不信を感じて態度を翻した。

四月.德宗皇帝はさらに慰撫して使相に任じ鐵券を与えたが、これは瑱が殺される前も同様であり、崇義を怖れさせるばかりであった。
また麾下の將藺杲が鄧州刺史に任ぜられ、唐朝が分割統治を図ると信じて反した。

六月.唐朝は淮西李希烈を諸軍都統として討伐することになった。

八月.崇義は先制して江陵を攻めたが敗走。

希烈は崇義將?暉、杜少誠を蠻水に大破して降し襄州に突入した。

八月.軍が潰滅した崇義は自殺し、希烈は数千人を誅殺した。

王承宗伝

2019-03-08 09:43:46 | Weblog
河北三鎭のひとつ成德、自立継続のため奮闘するが、最後は憲宗皇帝の強い意志により
屈服するしかなかったわげです。終末時の賢明な判断で、淄青李氏と違って王氏は存続
しますが。

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王承宗伝
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成德節度使武俊の孫。
武俊を継承した士真の長子。

自立して入朝はしなかったが、武俊・士真とも魏博節度とは違い唐朝に融和的であった。
承宗は継承者として副大使とされ、鎮州大都督府右司馬、知州事、御史大夫,充都知兵馬使、副大使にいたった。

元和四年三月.士真が卒すると、牙軍は承宗を擁立した。
しかし憲宗皇帝は継承をなかなか認めなかったので、承宗は怖れて所領鎭冀深趙徳棣六州のうち徳棣二州を返上することを申し出た。

九月.そこで起復雲麾將軍左金吾衛大將軍同正檢校工部尚書鎮州大都督府長史御史大夫成德軍節度鎮冀深趙等州觀察等使として四州を与えられ、士眞の女婿で故昭義節度使薛嵩の子德州刺史昌朝を檢校右散騎常侍德州刺史御史大夫充保信軍節度德棣觀察等使とする妥協策がとられた。ところが承宗は二州を渡さず、昌朝を捕らえて監禁する行為にでた。士眞之子士則・士平等は唐朝に奔った。当然配慮を無視された憲宗皇帝は怒ったが,承宗は従わず征討されることになった。

十月.憲宗皇帝は昭義節度使盧従史の策に乗り、寵臣で宦官の左神策護軍中尉吐突承璀を左右神策河中河陽浙西宣歙等道赴鎮州行營兵馬招討處置等使として伐たせた。
しかし承璀は軍才なく、唐朝軍の士気は低く、幽州や義武等唐朝方の方鎭も積極的には協力せず敗戦が続いた。結局従史に責任を押しつけて罷任するということで撤退することになった。
五年七月承宗は六州とも継承することに成功した。当然唐朝に従う意志はなかった。

十年.唐朝が自立した淮西吳元濟を伐とうとすると、承宗は淄青節度使李師道とともに反対し、四月.河陰倉の兵糧を焼き。
六月.京師で強硬派宰相の武元衡を暗殺するという事件[首謀者は李師道だったが]を起こし牽制した。
憲宗皇帝はかえって激怒して、同じく強硬派の裴度を宰相に登用し、承宗と元濟を討伐することにした。
承宗、師道等は各地で乱を起こして攪乱したが。憲宗の方針は揺るがなかった。

しかし淮西征討と並行した魏博田弘正等六節度の成德征討は、昭義節度使郗士美以外は成果をあげず、義武渾鎬や滄景程權は敗北し、軍費ばかりがかかる状況で唐朝の財政破綻が心配される状況になり、
十二年五月河北行営を廃して淮西征討に専念することになった。

十月.淮西吳元濟が誅されると、さすがに承宗は懼れて、唐朝方の魏博田弘正に依頼し唐朝への帰服を願い出た。憲宗皇帝は首魁である承宗を赦したくはなかったが、弘正の顔をたてる必要と、淄青李師道征討への必要性から、徳棣二州の献納と、子知感等を人質に送る条件を出した。

十三年三月.承宗は併せて管內租稅を出し、官吏の任免を唐朝に任せる等の恭順案をだして赦された。銀青光祿大夫檢校吏部尚書鎮州大都督府長史御史大夫充成德軍節度鎮冀深趙觀察等使。徳棣二州は華州刺史鄭權が德州刺史充橫海軍節度德棣滄景觀察等使となった。

十四年.金紫光祿大夫檢校尚書左僕射を加えられた。

出遅れた淄青李師道は抗戦して誅され、懼れた承宗は徹底して唐朝の方針に従った。

十五年十一月に卒した。贈侍中。
子の知感、知信は京師で人質であったので継げず、弟承元が擁立されたが従わず、成德節度使は唐朝に回収され、魏博節度使田弘正が転任することになった。

韓全義伝

2019-03-07 09:54:43 | Weblog
ただ宦官との癒着により出世した無能な將軍。德宗皇帝の無気力・無能さによる人事。

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韓全義伝
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系統は不明。

兵卒として神策軍に入り、宦官である中尉竇文場に仕えて寵遇される。

貞元二年.鹽州に吐蕃と戦う。陳許軍を率いていた。

四年.神策兵を率いて長武城に檢校工部尚書充長武城及諸軍行營節度使として駐屯した。

十三/十四年.韓潭に代わって夏綏銀宥節度となった。
全義は貪欲で上に諂い下に厳しく兵の人望がなかった。
ためにもともと惰弱な神策兵は危険で暑熱な辺境夏州へ赴くことを嫌って反乱し、
一時逃亡したが都虞候高崇文がこれを治め赴任することができた。

十四年十月吐蕃を鹽州西北に破った。

十四年.淮西吳少誠が反し、十七鎮の兵がこれを伐ったが、統帥が無くてんでばらばらに
進軍するだけで、軽く撃破されると退却を重ねるだけであった。

十五年冬.唐朝軍は小殷河で大敗。

十六年.德宗皇帝は竇文場の推薦により韓全義を蔡州四面行營招討使,陳許節度使上官兌を副とし、
諸鎮之兵を統轄させることにした。

全義は宦官と贈賄結託に長けただけの無能な將軍であるため。
監軍の宦官達の意見により右往左往するだけであった。
少誠は全義の無能を知って攻勢にでた。
五月.,南廣利城に大敗した。
七月.五樓でさらに敗北し陳州へ逃げ、唐朝派遣軍は崩壊した。

少誠は全義を舐めきって、既得権の承認を求めた。
宦官に騙されきっていた德宗皇帝は、これを歸順したとして赦した。

十七年.全義は撤退、しかしさすがに入朝する事は恥じて足疾と称して夏州に帰った。
宦官竇文場等のごまかしにより德宗はこれを功があるとした。

当然官僚達は指弾したが、德宗には通じなかった。

二十一年十一月.憲宗皇帝が即位すると全義は懼れて入朝し、贈賄したが通じず、罷免されて太子太保致仕となった。

元和元年七月.卒した。

甥の楊惠琳は德宗時代の姑息な人事が継続すると思って自立したが、討伐を受けて殺された。

張建封伝

2019-03-06 09:47:31 | Weblog
淮西李希烈の淮南道侵攻を防ぎ、徐州節度使の創設をした官僚/將軍です。

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張建封伝
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建封、字は本立。
鄧州南陽人であるが兗州に客す、祖父は洪州南昌縣令仁範,父は玠。

若くして説客として江南を巡り、寶應中,草賊の鎭撫に協力。

大歷初,道州刺史裴虯が湖南觀察使韋之晉の幕僚に推薦し軍職である左清道兵曹を帯びる。
しかし棄官して滑亳節度使令狐彰に招かれるが応ぜず。
そして轉運使劉晏に仕え帯試大理評事勾當軍務、しかしまた辞した。

大暦十年.友人の馬燧が河陽三城鎮遏使になると判官.監察御史に招かれる。
汴州李靈曜の反に燧を助けて討伐に活躍。

十四年.燧が河東節度使に転じると、判官侍御史となる。

建中初,燧が宰相楊炎に推薦し度支郎中。
盧杞に楊炎派として排斥され岳州刺史。

淮西節度使李希烈と壽州刺史崔昭が親密なことを怖れた淮南節度使陳少游は交代を求め、
盧杞はこの危険な壽州刺史に建封を配した。

李希烈は反して汝州、鄭州、汴州を陥し東都に迫り、その諸将は周辺に侵攻した。
陳少游は怖れて希烈に内応し侵攻を免れようとした。

しかし興元元年.建封は従わず希烈の使者を斬って、少游の内通を報告した。

希烈は杜少誠を淮南節度使として壽州を攻撃させたが敗北し、南下したが伊慎に遮られた。

建封は兼御史中丞壽州團練使となった。

興元元年十二月.加兼御史大夫充濠壽廬三州都團練觀察使に昇進し、防備を固め、再度の希烈軍を撃退した。

当時、淄青李納より歸附した徐州の統治が困難であった。
徐州は貧寒の地であるが江淮からの貢納の経路にあたる要地であるため唐朝は重視していた。

貞元四年.宰相李泌は壽州防衛で功績をあげた建封を節度使として赴任させ、
財源として泗濠二州を附して強化し、徐州刺史兼御史大夫徐泗濠節度支度營田觀察使とした。

建封は寬厚であり、しかも綱紀を保ち人望が高く、淄青李納から貢納路を守った。
七年.檢校禮部尚書。
十二年.加檢校右僕射へ進んだ。

十三年冬.入朝し德宗皇帝より極めて優遇された。
その際に宦官の宮市の害[押し買い]をのぞくことを建言し聞き入れられた。

当時徐州は軍備が整い、兵士は敬愛し、名士食客が集い幕僚にも人が多かった。

十六年.疾となり、交代として韋夏卿が徐泗行軍司馬となったが赴任しない間に卒した。六十六歳,冊贈司徒。

麾下将兵は建封を慕い子の愔を擁立して夏卿を入れなかった。

楊元卿伝

2019-03-05 10:47:10 | Weblog
軍人ではなく、幕僚型の地方官僚であるが、方鎭を歴任し開発に功績をあげた。

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楊元卿伝
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元卿、字は正臣、弘農の人。

祖父は德州安陵縣丞子華。父は申州鍾山縣令寓。

若くして親を亡くし、江南嶺南を巡り説客となった。

反唐朝を標榜する淮西吳少誠に仕えて從事となり、試大理評事を帯びた。
また少誠のあとを襲った呉少陽にも仕えて監察御史裏行を帯びた。
奏事の為に入朝し、宰相李吉甫の知遇を得て、少陽に親唐朝路線を説くようになった。
そのため淮西内の反唐朝派からは憎まれることになった。
少陽が卒し、子の元濟が自立すると、元卿は唐朝への歸順をすすめ、入朝し内情を唐朝に密告した。
しかし元濟は元卿の背信を知り反唐朝派に転じて、元卿の妻子を殺し、その同調者を一掃した。

入朝した元卿は岳王府司馬、ついで太子僕となった。
元和十三年.蔡州刺史兼御史中丞に任じ歸順した淮西民の管理を担当させることにしたが、
行われず光祿少卿に転じた。

李愬が淮西を平定すると、その宝貨を回収すると提案し、憲宗皇帝からたしなめられた。

左金吾衛將軍となり、すぐ汾州刺史、また左金吾衛將軍。

長慶初,貧しくて食糧を自給できなかった涇原節度に檢校左散騎常侍涇州刺史四鎮北庭行軍涇原渭節度觀察等使として赴任し、大いに屯田を開く功績をあげた。銀靑光禄大夫檢校工部尚書を加えられる。
その後検校右僕射に進む。

検校左僕射懷州刺史充河陽三城節度觀察等使に転じて、こちらも大いに屯田を開いた。

太和五年.何進滔の乱時の供軍により光祿大夫檢校司空に進む。

また檢校司空宣武軍節度汴宋亳觀察等使に転じて功績があった。

七年七月.七十/五十七歳で疾辭し、太子太保分司。

八月卒,贈司徒。

性は險巧で、開発に励むと共に私益も計り、宦臣と深く結託した。

王宰/王晏宰伝

2019-03-04 11:23:22 | Weblog
徐州で自立し、その後唐朝に帰属した王智興の系列、他に晏實・晏平などの凡將がいる。

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王宰/晏宰伝
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徐州の軍閥、太傅智興の子。

若くして壯勇果斷で神策軍の将となった。

文宗・李訓が宦官勢力を排除しようとして失敗した甘露の變で、宦官側で功績があり兼御史大夫光州刺史。

政績が高く、淮南節度使段文昌の推薦で辺境防衛の鹽州刺史へ。

隴州防禦使。

嚴正であり、開成五年.檢校工部尚書邠寧慶節度使に進み回鶻征討にあたった。

會昌三年精鋭で鳴る忠武軍節度使となり、昭義劉稹の自立を伐った。
昭義の東部三州に進駐し、魏博・成德を牽制し、河陽節度使王茂元の没後、九月.これを兼統し忠武軍節度、陳許蔡等州觀察處置等使河陽行營諸軍招討使金紫光祿大夫檢校尚書右僕射兼御史大夫太原郡開國公となった。
天井關を破り、四年.澤州を攻め稹を征討した。

その後檢校司空太原尹北都留守充河東節度管内觀察處置等使に移った。

大中元年.吐蕃黨項回鶻等が河西に侵攻してきたため、兼諸道行営招討使として諸軍を統轄して防いだ。

三年.入朝し宦官に頼り宰相となろうとしたが、宰相周墀に弾劾され果たせなかった。

四年.疾により河陽節度使となり七年まで在任。

太子少保分司、太子少傅となり卒した。

石雄とは父智興以来の対立競合関係であり、劉稹の乱では宰相李徳裕にうまく利用された。

王式伝

2019-03-03 13:15:33 | Weblog
儒家の出身であるが、父の代より宦官勢力とつながっていた。
各地の動乱の制圧にあたり功績があった。

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王式伝
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式は財務系宰相の播の子。

蔭位で太子正字となり、太和二年.賢良方正科に合格し、監察御史、殿中侍御史に進む。

宰相の子にしては節儉であるが、王守澄等の宦官勢力につながっていた。,

弾劾されて地方官に出、江陵少尹。

大中中,晉州刺史となり治績を上げ盗賊を防いだ。

大中十二年.朝散大夫守康王傅分司襲魏郡開國公より安南都護兼御史中丞充安南本管經略招討處置等使に移り、築城して南詔蠻の侵攻に備えた。
忠武戍卒の反乱を抑え、欠損した貢納を再開し、
占城、真臘など外蕃と友好関係を結んだ。

十三年.賊仇甫が浙東で蜂起し、文官出身の觀察使鄭祗德は対処できなかった。

十四年.宰相夏侯孜の薦めにより浙東觀察使として鎮圧を命ぜられた式は大軍の出兵を請い、宦官達はその費用を惜しんだ。
式は「浙東が長く乱れていると、税源である浙西・淮南に影響し、唐朝が維持できなくなる。早急な鎮圧が必要だ。そのためには大軍がいる」と説き認められた。

式は淮南に移されていた吐蕃、回鶻の遺民を騎兵に使い、
八月.甫に猛攻を加えて鎮圧し、檢校右散騎常侍を加えられた。

咸通三年七月.王智興以来甘やかされていた徐州武寧軍の驕兵達が恒例のように軍乱を起こして節度使溫璋を逐った。

八月.式は檢校工部尚書徐州刺史御史大夫武寧軍節度徐泗濠觀察等使として、帰任する忠武・義成軍を伴って赴任し、その威力の下に驕兵数千人を誅殺して武寧軍節度を解体した。しかし残兵は各地に散って隠れ、龐勛の乱につながる。

三年河陽節度使に移り五年まで在任した。

その後、左金吾大將軍にいたるが記録はない。

伊愼伝

2019-03-02 11:45:51 | Weblog
江西嗣曹王皋に従い、叛将淮西李希烈等を南方から牽制した將軍

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伊愼伝
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慎、字は寡悔、兗州の人。

騎射に優れ果毅となる。春秋や戰國策等の書も学んでいた、廣州綏南府折衝都尉へ。
母の葬に際して、父の墓の場所がわからず、夢で見つけることができたという逸話がある。

大暦8.江西節度使路嗣恭が嶺南哥舒晃之亂を討つ,先鋒となり功績があり、連州長史知當州團練副使。

撫虔江三州別駕を転任した。

建中二年.淮西李希烈が都統として山東梁崇義を討つ時、江西将として従い功績をあげた。
希烈は愼を高く評価し麾下に加えようとしたが従わなかった。

三年.李希烈が反し、江西節度使嗣曹王皋は愼を將として討たせようとした。
希烈は愼も味方であるとし、唐朝は愼を殺すことを命じてきたが、皋は従わなかった。
その間、愼は淮西軍を大破し疑いを解いた。

四年.蔡山柵を破り,蘄州を取り、反将李良や韓霜露を破った。
試太子詹事,封南充郡王,兼御史中丞蘄州刺史充節度都知兵馬使。
唐朝への貢納の道を断とうとした淮西將杜少誠を大破した。

興元元年.應山に淮西軍を破り、将劉戒虛を捕らえ,安州を陥した。
安州刺史兼御史大夫,南充郡王仍賜實封一百戶。
隋州李惠登も降り隋州刺史となった。

貞元十二年.検校右散騎常侍を加。

十五年.安黃等州節度管內支度營田觀察等使に昇格した。

十二月.淮西吳少誠が反したので、その兵を鐘山に破り。

十六年.さらに荊南湖南江西三道兵を率いて申州城に破った。
功績により檢校刑部尚書を加えられた。

二十一年,安黃節度は奉義軍となり,愼は奉義軍節度使檢校右僕射となった。

永貞元年.憲宗皇帝が即位.愼は軍權を返上し入朝して、正任の尚書右僕射となり安黄節度使は廃された。

元和二年.檢校左僕射兼右金吾衛大將軍に移った。

五年.河中節度使就任を求めて神策中尉第五從直に贈賄したことがばれて検校左僕射右衛將軍に左遷されたが、數月で光禄大夫檢校尚書右僕射兼右衛上將軍に復帰。

元和六年に卒,年六十八,贈太子太保。諡曰壯繆。