ブログに9月に稲100円銀貨を掲載したが、反応もなかったし、旅行前に90数枚を銀行(100枚まで手数料のいらないJAバンク)で交換してしまった。(先日コメントを頂いたけれど申し訳なかった)
銀の価格アップで割に合わなくなったため現行白銅貨に代ったわけだが、こういうことは江戸の昔から行われている。
自分は小学6年の夏休み自由研究は貨幣の移り変わりとして江戸から戦中までの貨幣を標本にした。貨幣の多くは親父から譲渡されたもの。それがきっかけで、古銭収集趣味は小5の時からだ。
写真上段は右から安政一分銀、明治18年と明治40年の50銭銀貨。下段は大正から昭和にかけて発行された鳳凰50銭銀貨、戦後昭和21,22年と22,23年発行の50銭黄銅貨。左端は1円玉とほぼ同じ大きさ。
安政1分銀は銀90%で天保1分銀より金、銀の割合を落としている。1分は4枚で1両となるが、銀の量9,2匁(天保)で、15,6匁相当が1両なのでとても足りない。(1両は銀60匁だが、これは丁銀など合金での重さ、その品位が発行時点で大きく異なり、ややこしい)その分幕府が儲けるわけである。それでも庶民は小判など関係ないから、一分銀などの銀貨が大量流通することになる(一分銀は天保年間から流通始めた。それまでは無かった)。
明治40年の50銭銀貨は、テレビドラマ「おしん」で、ばあちゃんから貰って最初の奉公に出た頃の銀貨である。大正~昭和には鳳凰の銀貨、戦後の一時期、50銭は黄銅貨として使われた。なお、明治初期の龍紋が後年日章に変わったが、龍紋は天皇をあらわしていたが、龍を尊ぶのは中国の思想であるということで使われなくなった。また、当初龍紋のある方が表であったが(初期の銀貨は表裏は日章と龍紋の意匠であった)、明治30年から菊の紋があるほうが表と定められた。(今は年号のある方が裏である)
インフレ気味の経済活動もあるが、「悪貨は良貨を駆逐する」の歴史は繰り返す。