昨日のつづきで、貨幣の話
NHK「麒麟が来る」を見ていると、当時の貨幣単位は、通常、「文」と「貫」であったことが分かる。信長は上洛1年後の永禄12年通達を出す。「金10両は銭15貫、銀10両は銭2貫とする」これは従来の兌換率に比し、銀の価値を上げていた。信長は生野銀山を手に入れることを織り込んでいたと言われる(それには、その後、数年要したが)。また、この場合の「両」は重さ(貫の約1/100)の単位である。
昨日、日曜のドラマでは、叡山へ薬を売りに行き信長軍に殺された少年は、その直前に薬代として8文を届けた、とあったが、この当時の銭は、中国から輸入された宋銭、明銭であった(その中でも永楽通宝が良貨で有名)。流通を賄いきれるほどではなく、私鋳銭が横行していた。悪貨はビタ銭と呼ばれ(ビタ一文の語源)これは兌換率が低かった。
一貫は銭1000文のことであり、重さ3.75kgである。信長は堺に2万貫の矢銭を要求したが、現在価値にすると2~30億円とも言われる。(文=100円で20億)
秀吉(藤吉郎)が親から離れ、家を出る時、母親は一貫を渡したとされるが、12万円程度とする人もいるので大体それぐらいかナ。1000貫で1億2000万円だ。
昨日のドラマでは、松永久秀が、持っている肩衝茶入を1000貫で買い取れば戦を止める、というところ、順慶が「80貫」と返し、「今、信長が所有する「初花(肩衝)」なら値する」とのシーンがあった。戦には金がかかり、しないで済むなら1000貫でも妥当ではある。
国産貨幣が庶民に流通するのは江戸時代、寛永通宝のおかげである。「貫」の語源は大量の貨幣を携行するために、銭を束ねた道具「銭貫」からである。穴を貫いて紐や木を通す。江戸時代、こうして結ばれたものは、商慣習で96枚で100枚とみなされた。(96であれば、3,4,6,8で割り切れる)(中国から来ているが、室町幕府が定めた経緯もある)
写真の貨幣は、ご先祖様が残したものだが、結んだ寛永通宝の枚数を数えると95,6枚となっている。これでも約0.75貫だけれど重い。
また、江戸中期には1両=4000文(4貫)だったものが、幕末には1両=6000文にまでになったという。この重さの寛永通宝でも、昨日の写真にある一分銀一枚にも足りないのである。