
昨日のブログ、竜が池などについて、我が家にある「鈴鹿市史第2巻(昭和58年刊)」をよく読んだ。
それによると、そもそも、竜が池(龍が池とも)は、寛文5年(1665年)大庄屋真弓長左衛門は亀山藩に願い出て、村の東の谷間をせきとめ、私費を投じ、1万人余を使って築堤工事をしたが、決壊したり難工事であった。人柱を立てることにして、お龍という女性がその犠牲になって完成したという「伝承」から、池の名を「龍が池」という。と記載されている。また、2年後、水源を御幣川に求め工事を行っている。これにより、伊船新田83石余りが成立したとある。
なお、伊船新田と伊船の間にある伊船野田は16世紀にすでに開墾された集落である。
この用水により、広瀬、津賀、汲河原、庄野、高宮(加佐登)にも恩恵をあたえているという。
明治の当初、士族の生活の為、広瀬野の開墾がされたがその際は竜が池の築堤のかさ上げも提案されたという。
長左衛門は寛文8年(1668年)に没したが、幕末の慶応元年、亀山藩主は長左衛門に「神号」を贈り、伊船新田に村民が彼の徳を敬い建てた祠は「真弓神社」と称することとなった。
鈴鹿市史によれば、お龍之霊碑は昭和35年の建立とあるので、自転車に乗っている間に記憶間違いをおこしたのかもしれない。思い起こせば、確かにこの話を聞いたのは4,5年生の時だったので、建立時期の1,2年あとで一致する。そういう事かと。
それによると、そもそも、竜が池(龍が池とも)は、寛文5年(1665年)大庄屋真弓長左衛門は亀山藩に願い出て、村の東の谷間をせきとめ、私費を投じ、1万人余を使って築堤工事をしたが、決壊したり難工事であった。人柱を立てることにして、お龍という女性がその犠牲になって完成したという「伝承」から、池の名を「龍が池」という。と記載されている。また、2年後、水源を御幣川に求め工事を行っている。これにより、伊船新田83石余りが成立したとある。
なお、伊船新田と伊船の間にある伊船野田は16世紀にすでに開墾された集落である。
この用水により、広瀬、津賀、汲河原、庄野、高宮(加佐登)にも恩恵をあたえているという。
明治の当初、士族の生活の為、広瀬野の開墾がされたがその際は竜が池の築堤のかさ上げも提案されたという。
長左衛門は寛文8年(1668年)に没したが、幕末の慶応元年、亀山藩主は長左衛門に「神号」を贈り、伊船新田に村民が彼の徳を敬い建てた祠は「真弓神社」と称することとなった。
鈴鹿市史によれば、お龍之霊碑は昭和35年の建立とあるので、自転車に乗っている間に記憶間違いをおこしたのかもしれない。思い起こせば、確かにこの話を聞いたのは4,5年生の時だったので、建立時期の1,2年あとで一致する。そういう事かと。
※コメント投稿者のブログIDはブログ作成者のみに通知されます