ここで「生きる」とは「誠実に生きる」ことである。何故誠実に生きなければならないか?人間の人生は有限だからだ。人生の有限性を否応にも実感させられる年齢にならなければこれは伝わらないだろう。その意味でR-40指定。
「あなたは生きて!」菜穂子は呼びかける。
「創造的人生の持ち時間は10年だ」カプローニは諭す。
直截的に人が死ぬ場面は描かれない。が、大震災では多くの生命が喪われただろうし、二郎の設計した戦闘機に乗った飛行機乗りはおそらく帰ってくることはない。そして、菜穂子の母も、菜穂子も。
「風が立つ、生きようと試みなければならない」「少年よ、風はまだ吹いているか?」
どうして風が吹いたから生きなければならないのか?風は無限、人生は有限。有限性の宿命から逃れることのできない人間も、風が吹いている間はその無限性に身を委ねることができる、ような気がするということ。
「珍しくも、宮崎が切ない大人の純愛を描いた作品とも云えるだろう。が、その純愛は多分に一方向である。二郎は菜穂子の愛に対してあくまでも受動的だ。」初回観賞時のreviewにはそう書いた。だが違った。二郎は「誠実に生きる」姿を見せることで菜穂子の愛に確かに応えていた。誠実に生きることは、時に残酷であり罪つくりだ。身勝手であり、けっして無害ではない。しかしそこから想いが伝われば、それは誠実だ。だから菜穂子は安心して手を握り、微笑みかけるのだ。確かにそれは男性目線の都合のいい解釈に違いない。が、それもまた矛盾ではあるが真理なのだ。
大正から昭和初期にかけての、人々の暮らしや街並が美しく生き生きと描かれる。宮崎はもちろんこの時代をリアルタイムで知る世代ではないが、綿密にリサーチされたに違いない、これら「かつて在った日本の姿」。やがて破滅し、そして姿を消していく。これもまた有限。そして、牛が戦闘機を曳いてゆく。なんとまあ矛盾ではないか。
風、有限の人生、矛盾こそ真理…二度(一度目はひとりで、二度目はヨメさんとふたりで)観賞し、宮さんの「引退」会見を聴いて、すべてが繋がった。
そして、エンドロール、ユーミンの「ひこうき雲」をバックに流れていく絵コンテに涙する。