そもそも論者の放言

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ベッキーの没落は性差別なのだろうか?

2016-02-11 10:49:39 | Entertainment
イギリスのガーディアン紙が、ベッキー騒動について日本の芸能界に蔓延る性差別を反映しているのではないかとの記事を掲載したとのこと。
日本のメディアでは、ベッキーがテレビ出演やCMを打ち切られ休業に追い込まれる一方、ゲス川谷が平然と音楽活動を継続できているのは均衡を逸しており、その背景には若い女性芸能人にモラルの完璧さを求める日本芸能界の性差別意識を反映しているのではないか、との趣旨と報じられている。

拙い英語力による読解になるが、原文を一読してみた。
確かに上述の趣旨の通りのことが書いてあるが、どっちかというと「何の芸がなくても、可愛らしさや純潔さだけが芸能人のブランド価値になってしまう日本社会って変じゃね?」というニュアンスに重きが置かれていて、ベッキーがほとんどタレント生命を奪われそうなほどの社会的制裁を受けている一方でゲス川谷がのうのうと音楽活動を続けていることの不均衡をもって「性差別」と言っているわけではないようである。

今回の騒動、客観的に見てベッキーはどちらかというと騙された被害者であり、騙したゲス川谷の方がまさに下衆、サイテーの酷い奴だというのが正しい見方ではないかと個人的には思っている。
が、そんなサイテーのゲス川谷が音楽活動を続けられているのは、音楽的才能という「芸」を彼が持っており、それが一定層に支持されている(自分にはゲスの音楽の良さはよく分からないが)からであり、他方ベッキーは「好感度」という価値以外に武器らしきものは何も持ち合わせておらず、その価値を毀損してしまえば芸能人としての存在価値がほぼゼロになってしまうというのは悲しくも厳しい現実なのである。
確かに、彼女の愛らしい容姿、聡明さ、話術の巧みさは類い稀なる才能だと思うが、残念ながらその程度の才能を持っている人材は芸能界にも、一般社会にもゴマンと存在しており、いくらでも代替が効いてしまうのだ。

ガーディアンのいう通り、「何の芸がなくても、可愛らしさや純潔さだけが芸能人のブランド価値になってしまう日本社会」は自分も変だと思うし、その背景に女性の社会的役割に対する差別意識が潜んでいるというのもその通りだと思うが、まあそれが日本社会の現実であり(だからそれでよいと言っているわけではない)、マーケットが成立してしまっているのも事実なのだ。
マーケットのニーズがある限り、「商品」としての女性アイドル・タレントは次から次へと登場するだろうが、どんなに人気が出て「一流」と呼ばれるようになったとしても、絶対的な武器になる「芸」が無い限りは、所詮いつ代替されてもおかしくないないコモディティにしか過ぎないという冷徹な現実がそこにはある。

ベッキーには、これを機会に、何か武器になる「芸」(女優としての演技でも、その他の技能でも何でもよい)を身につけてもらって、いつか復活してもらいたいものである。

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