日経ビジネス「NBonline」に面白い記事があったのでメモ。
タイトルは「シリーズ:日米関係は大丈夫か?(5) 福田訪米が静かに映し出した日米間の相互無理解」。
筆者は冷泉彰彦氏。
氏のコラムは以前にも引用したことがあります。
先日の福田総理の訪米、ブッシュ大統領との首脳会談に対して、現地でほとんど関心を払われなかったことを題材にして、日米両国の世論相互の間に横たわる「どうしようもない無理解」について解説していきます。
無理解が生じてしまう大きな原因の一つとして筆者は「歴史における時間感覚のズレ」を挙げます。米国において日本を第2次大戦の「旧敵国」ととらえる感覚がかなり風化しているのに対し、日本はまだまだそのトラウマから逃れられていない、という点です。
特に面白かったのは、筆者が米国で生活を送る中で接している「普通に生活している米国人」が持っている「平均的な感覚」が紹介されている下りです。
例えば、ある米国人ビジネスマンから「日本が軍事面での国際貢献を進めていくと、右傾化して国際社会に迷惑をかけるという論法があるけれど、それは犠牲を出したくないという甘えなんじゃないだろうか。ナショナリズムというコストを払いながら社会のバランスを取るというのは、今の世の中ではどこの国でもやっているじゃないか」と言われてドキッとしたことがある。この人の頭の中では、「戦後」はとっくに終わって、日本は小沢一郎氏の主張する意味以上に「普通の国」になっているのである。
匿名掲示板におけるナショナリスティックな表現にしてもそうだ。中国系米国人で日本語を勉強している学生に聞いたところ、彼は「2ちゃんねる」などに見られる反中嫌韓などの書き込みにはよく目を通すのだと言う。私は一瞬、読んだ内容について激しい反発があるのだろうと身構えたが、そんなことはなかった。彼の表現では「あの程度の表現はどこの国でも普通じゃないのかなあ」というのである。
日本を普通の国だと見る発想がある一方で、自分を普通の国だと思っていない日本人への苛立ちは深い。日本が国内で左右に分裂し、お互いに敗戦体験のトラウマをベースに軍事外交について考えることしかできないのに対し、米国人はそうした発想法を全く理解できないのだ。
例えば、プリンストン大学でのシンポジウムで保守系の研究者と話した時のことだが、その研究者は「日本に国際貢献を迫ると、賛成するのは戦前回帰の匂いのする連中だけなんだ。ホンネを言うと、そんな連中と組むのはイヤだけど、ほかに賛成してくれるグループがないから、ワシントンなんかはイヤイヤ手を組んでるのさ」と言っていた。
少し専門家に属する人の発言でもこうなのだから、一般の米国人には、靖国神社を巡る賛否の議論などは全く分からないだろう。反対に「非武装中立」を善として、あらゆる軍事的なものを悪とする、それを理念だけでなく、あらゆる具体的な判断に用いるという発想法も全く理解されない。
そんな中で、福田首相としては「給油」の継続が難しいことを米国側に説明するにしても、憲法の制約という言い方しかできなかったのではないだろうか。当局者同士のやりとりはともかく、公式のコメントとしては、それ以上詳しく説明しても、そもそも伝わりようがないのである。左右対立の結果としてそうなったとして、その右と左の中身を説明しても納得は得られず「要はカネを出したくないし、かといって独自の貢献も思いつかないのだろう」と言われるだけだからだ。
コラムはこの後、「サムライ」と「カウボーイ」というステレオタイプなイメージでお互いを見ていることに代表される「相互無理解」の話が続きそっちも興味深かったのですが、上に引用した部分だけでも十分面白い。
先日読んだ「一度も植民地になったことのない日本」にも、日本人の戦争、平和に対する感覚はヨーロッパ人にはまったく理解できないものであることが書かれていました。
欧米人にはまったく理解できない非論理的でドメスティックな戦争感覚・平和感覚があったからこそ、戦後日本はこれだけの繁栄を達成したのは間違いないでしょうが、未来永劫これを続けていくことが果たしてできるんだろうか…