1月27日は「国旗制定記念日」です。今日は国旗について調べました。
・国旗制定
「国旗制定記念日」とは、1870年(明治3年)1月27日に郵船商船規則(太政官布告57号)が定められ、日の丸(日章旗)のデザインの原型が決まったことに因んで国旗協会が制定したものです。
郵船商船規則(太政官布告57号)には、日の丸(日章旗)を「御国旗」として規定し、日本船の目印として採用しています。
以後、「日の丸」(日章旗)は国旗として扱われるようになりましたが、国旗として法的な裏付けは太政官布告のままであり、法令として存在していませんでした。
その後、国会において国旗法案が提出されましたが、議会の閉会、解散などで廃案となり成立しなかったようですが、1990年代に入って、学校の式典等において「日章旗」掲揚問題などが頻発するようになり、これに対処するため、1999年(平成11年)8月13日に公布・施行された「国旗・国歌法」により、日の丸・君が代が正式に「国旗・国歌」として定められました。
・日の丸の規格
現在「日の丸」の規格は、縦横の比率は2:3、日の丸の直径は縦の長さの5分の3、日の丸は旗の中心の位置となっています。
・国旗の由来について
日本の国旗は「日の丸」(日章旗)ですが、この「日の丸」は江戸時代以前にも使用されていたという記録が残っているそうです。
江戸時代に入ってからは、1673年(寛文13年)に幕府は御城米廻船に船印として「日の丸」の幟(のぼり)を掲揚するように指示しています。
そして、幕末の1854年3月に日米和親条約に調印し、開国して諸外国との交流が始まったことから、外国の船舶と識別するため同年7月に「日の丸」の幟を日本惣船印(にほんそうふなじるし)に定め、1859年(安政6年)に「日の丸」の旗を「国惣印」と定めました。
1860年に渡米した使節団の一行が「日の丸」と共に紹介されていることから、遅くとも江戸時代末期には、「日の丸」が日本の国旗として内外に認知されていたものと考えられているそうです。
その後、1870年(明治3年)に商船規則(太政官布告第57号)により、日の丸は日本船舶に掲げるべき国旗として定められましたが、その後の経緯は上記のとおりです。
・国歌の由来について
「君が代」は、905年(延喜5年)に編纂された「古今和歌集」(賀の巻)に、
「わが君は ちよにやちよに さざれ石の 巌となりて 苔のむすまで」(詠み人知らず)
として収載されており、これが文献に現れる最初であるといわれています。
その後、平安末期頃からは初句を「君が代」という形で流布するようになり、めでたいときの舞や謡曲などに取り入れられ、長い間民衆の幅広い支持を受けてきたといわれています。
明治になって、薩摩藩の大山巌らは日本にも国歌が必要と考え、その歌詞として古歌の「君が代」を選定し、1893年(明治26年)の文部省告示において、祝日大祭日の儀式で歌うこととされました。
・切り張りされた国旗
平成21年8月8日、鹿児島県霧島市での民主党の集会で掲げられた日の丸の旗2枚を切り張りして作った民主党旗です。(産経ニュースHPより)
産経ニュースによると、平成21年8月8日の民主党総決起集会で、画像のような2枚の国旗を貼りあわせて民主党の党旗にしています。
日の丸裁断は国辱行為ではないでしょうか?
民主党はこのような行為が平気でできるのでしょうか?
加えて、民主党の小沢幹事長は先般、国会議員143名を引きつれて中国への”お辞儀外交”やルール違反の習近平国家副主席の天皇陛下謁見など国辱的な行為を強引に行っています。
”日出(い)づる処の天子、書を日没する処の天子に致す。恙(つつが)無きや”
これは推古天皇の摂政、聖徳太子が遣隋使の小野妹子に託して隋の煬帝に届けた書です。
日本民族の誇りをかけて、中国・隋に対して対等な外交関係と朝鮮半島に対する日本の立場を有利にすることを目的として、自らの信条を世界に問いかけたものです。
小沢一郎幹事長に何も言えない民主党の諸氏には、1400年前のこの聖徳太子の気概を思い起こしてほしいものです。
日教組や朝日新聞などの支援を受けている民主党には、国旗、国歌については勿論、中国に対しても対等な関係を求めるのは無理なのでしょうね。