来年度の大河ドラマの主人公は新島八重。私は同志社大学を創立した新島襄の夫人がどのような人なのか全く知らなかった。来年度の大河ドラマの配役が発表になって、吉田松陰(小栗旬)、佐久間象山(奥田瑛二)などが重要な登場人物として出てくるというので、「何で新島八重と吉田松陰が関係あるのだろう???」と気になって調べてみたら、新島八重は会津藩士・山本覚馬の妹なのだという。なるほど、山本覚馬なら佐久間象山門下だから、同じ象山門下の吉田松陰と親交があってもおかしくないわけだ。しかし、覚馬とそれほど深い交わりであったようには思われない松陰を重要人物として登場させるというのは、ドラマに花を添える必要からなのだろうが、少々強引なような気もする。
このブログでは、ほとんど知られていない幕末の志士・赤松小三郎を復権させようと、過去にいろいろと書いてきた。じつは山本覚馬は赤松小三郎と深い親交があった。覚馬と小三郎は、日本が内戦に突入するか否かのギリギリの段階にあって、文字通り命を懸けて薩摩藩と交渉していた同志であった。本来、赤松小三郎は「八重の桜」にも、重要人物として登場すべきであろうが、小三郎の存在そのものが「なかったこと」にされている幕末史理解の現状では、劇中に小三郎が登場することはないだろう・・・・。またいつもの如く、存在そのものが無視されるのだろう。しかし、本来小三郎は当然に劇中に登場すべきと思われるほど、覚馬との交わりは深い。というわけで、とりあえず覚馬と小三郎の関係について書き留めておく。
山本覚馬は慶応年間の京都にあって会津藩の蘭学および英学教授として西周や赤松小三郎を招こうと奔走した。しかし赤松は会津藩より先に京都薩摩藩邸のお抱え教授となってしまっていた。
以下のサイト参照。
http://homepage3.nifty.com/naitouhougyoku/sisiden-yamamoto.htm
山本覚馬は、薩摩が武力討幕に傾いていた段階にあって、赤松小三郎に対し、幕府・会津藩と薩摩藩の融和を図って欲しいと依頼していた。もとより小三郎の考えも覚馬と同じく「幕薩一和(幕府と薩摩の和解による内戦の回避と挙国一致体制の確立)」であったから、会津藩と薩摩藩のあいだを取り持とうと、西郷隆盛や小松帯刀を相手に、文字通り「必死」の交渉をしていたのだ。その後に発生した悲劇は、このブログでも詳述してきた通りである。
下記のブログには、鳥羽伏見の戦いの後、薩摩藩に捕縛されていた山本覚馬が薩摩藩に上申した「拙見申上候」が紹介されている。原文から書き下し文から注釈や現代語訳まで添えられていて、すばらしいサイトでした。
http://office34.exblog.jp/15367722/
以下、上記サイトの中から一節を紹介させていただきたい。
***山本覚馬「拙見申上候」より引用開始***
・・・万事一洗、彼此かれこれ嫌疑氷解したく存じ奉り候に付き、昨卯六月、私儀、赤松小三郎を以て御藩小松氏西郷氏へその段、申し述べ候処、御同意に付き、幕府監察へも申し談じ候へども、さらに取り合ひ申さず。・・・
***引用終わり****
山本覚馬は、薩摩の誤解に基づく会津への「嫌疑」を氷解させようと、薩摩藩お抱えの英国兵学教授であった赤松小三郎に依頼して、西郷や小松の説得に当たらせていたという。薩摩もいちどは小三郎の説得に同意したはずではないか、と薩摩に問うているのだ。
覚馬と小三郎のあいだに深い同志的信頼関係がなければ、このような活動は不可能であったろう。
小三郎は薩摩をどのように説得していたのだろう? 暗殺されてから、薩摩にとっては都合の悪い小三郎の遺品はほぼ消されてしまったことから、あまり詳しいことはわからない。
しかし小三郎が暗殺される半月前に上田にいる兄・柔太郎に宛てた手紙には次のように書かれている。
***赤松小三郎「兄・芦田柔太郎宛 慶応3年8月17日付書簡」***
・・・・小生は幕薩一和の端を開き候に懸り、西郷吉之助え談合し、幕の方は会津藩公用人(注・山本覚馬を指すと思われる)にて談じ始め居り申し候。小生は梅沢孫太郎(幕府目付)、永井玄蕃公(尚志)え説く。少しは成り申すべき見込みに候。・・・・
****上田市立博物館『赤松小三郎・松平忠厚』41頁より****
覚馬の上申書に書かれた内容が事実であろうことは、小三郎の兄宛書簡の記述との一致からも裏付けられる。ただ、覚馬と小三郎の記述はだいたい一致するが、微妙にニュアンスの異なる部分もある。会津と和解して欲しいという要請に薩摩は前向きであったという趣旨の記述は一致する。ただ、覚馬は「御同意」と書き、小三郎は「少しは成り申すべき」と書き、ニュアンスに少々違いもある。また、「御同意」したのが小松なのか西郷なのか、それともその両者なのかも不明である。
また、覚馬は「幕府は取り合わなかった」かのように書いているのに対し、小三郎は幕府の梅沢や永井も「少しは」前向きであったかのように書いている。これは覚馬と小三郎の幕府への働きかけの交渉窓口が別だっただけのことかも知れないが・・・・。この辺も謎である。
それにしても気になるのは、小三郎の説得を受けた西郷の腹の内は、この時実際にはどのようなものだったのだろうか、という点だ。この時点で、西郷も揺れていたのだろうか? それとも小三郎に期待を持たせるような発言をしても、どのみち亡き者にしてしまえば何を言っても構わないとでも考えていたのだろうか。
赤松小三郎は、当時の薩摩藩邸、つまり現在の同志社大学で東郷平八郎らの薩摩藩の俊才に英国式兵学や、おそらくは英国式の議会政治についても教授していた。もしかしたら今の同志社の地で、最初に近代的な学問を教授したのは小三郎かも知れない。後に同志社大学の設立に深くかかわった山本覚馬と、ここでも数奇な接点がある。
このブログでは、ほとんど知られていない幕末の志士・赤松小三郎を復権させようと、過去にいろいろと書いてきた。じつは山本覚馬は赤松小三郎と深い親交があった。覚馬と小三郎は、日本が内戦に突入するか否かのギリギリの段階にあって、文字通り命を懸けて薩摩藩と交渉していた同志であった。本来、赤松小三郎は「八重の桜」にも、重要人物として登場すべきであろうが、小三郎の存在そのものが「なかったこと」にされている幕末史理解の現状では、劇中に小三郎が登場することはないだろう・・・・。またいつもの如く、存在そのものが無視されるのだろう。しかし、本来小三郎は当然に劇中に登場すべきと思われるほど、覚馬との交わりは深い。というわけで、とりあえず覚馬と小三郎の関係について書き留めておく。
山本覚馬は慶応年間の京都にあって会津藩の蘭学および英学教授として西周や赤松小三郎を招こうと奔走した。しかし赤松は会津藩より先に京都薩摩藩邸のお抱え教授となってしまっていた。
以下のサイト参照。
http://homepage3.nifty.com/naitouhougyoku/sisiden-yamamoto.htm
山本覚馬は、薩摩が武力討幕に傾いていた段階にあって、赤松小三郎に対し、幕府・会津藩と薩摩藩の融和を図って欲しいと依頼していた。もとより小三郎の考えも覚馬と同じく「幕薩一和(幕府と薩摩の和解による内戦の回避と挙国一致体制の確立)」であったから、会津藩と薩摩藩のあいだを取り持とうと、西郷隆盛や小松帯刀を相手に、文字通り「必死」の交渉をしていたのだ。その後に発生した悲劇は、このブログでも詳述してきた通りである。
下記のブログには、鳥羽伏見の戦いの後、薩摩藩に捕縛されていた山本覚馬が薩摩藩に上申した「拙見申上候」が紹介されている。原文から書き下し文から注釈や現代語訳まで添えられていて、すばらしいサイトでした。
http://office34.exblog.jp/15367722/
以下、上記サイトの中から一節を紹介させていただきたい。
***山本覚馬「拙見申上候」より引用開始***
・・・万事一洗、彼此かれこれ嫌疑氷解したく存じ奉り候に付き、昨卯六月、私儀、赤松小三郎を以て御藩小松氏西郷氏へその段、申し述べ候処、御同意に付き、幕府監察へも申し談じ候へども、さらに取り合ひ申さず。・・・
***引用終わり****
山本覚馬は、薩摩の誤解に基づく会津への「嫌疑」を氷解させようと、薩摩藩お抱えの英国兵学教授であった赤松小三郎に依頼して、西郷や小松の説得に当たらせていたという。薩摩もいちどは小三郎の説得に同意したはずではないか、と薩摩に問うているのだ。
覚馬と小三郎のあいだに深い同志的信頼関係がなければ、このような活動は不可能であったろう。
小三郎は薩摩をどのように説得していたのだろう? 暗殺されてから、薩摩にとっては都合の悪い小三郎の遺品はほぼ消されてしまったことから、あまり詳しいことはわからない。
しかし小三郎が暗殺される半月前に上田にいる兄・柔太郎に宛てた手紙には次のように書かれている。
***赤松小三郎「兄・芦田柔太郎宛 慶応3年8月17日付書簡」***
・・・・小生は幕薩一和の端を開き候に懸り、西郷吉之助え談合し、幕の方は会津藩公用人(注・山本覚馬を指すと思われる)にて談じ始め居り申し候。小生は梅沢孫太郎(幕府目付)、永井玄蕃公(尚志)え説く。少しは成り申すべき見込みに候。・・・・
****上田市立博物館『赤松小三郎・松平忠厚』41頁より****
覚馬の上申書に書かれた内容が事実であろうことは、小三郎の兄宛書簡の記述との一致からも裏付けられる。ただ、覚馬と小三郎の記述はだいたい一致するが、微妙にニュアンスの異なる部分もある。会津と和解して欲しいという要請に薩摩は前向きであったという趣旨の記述は一致する。ただ、覚馬は「御同意」と書き、小三郎は「少しは成り申すべき」と書き、ニュアンスに少々違いもある。また、「御同意」したのが小松なのか西郷なのか、それともその両者なのかも不明である。
また、覚馬は「幕府は取り合わなかった」かのように書いているのに対し、小三郎は幕府の梅沢や永井も「少しは」前向きであったかのように書いている。これは覚馬と小三郎の幕府への働きかけの交渉窓口が別だっただけのことかも知れないが・・・・。この辺も謎である。
それにしても気になるのは、小三郎の説得を受けた西郷の腹の内は、この時実際にはどのようなものだったのだろうか、という点だ。この時点で、西郷も揺れていたのだろうか? それとも小三郎に期待を持たせるような発言をしても、どのみち亡き者にしてしまえば何を言っても構わないとでも考えていたのだろうか。
赤松小三郎は、当時の薩摩藩邸、つまり現在の同志社大学で東郷平八郎らの薩摩藩の俊才に英国式兵学や、おそらくは英国式の議会政治についても教授していた。もしかしたら今の同志社の地で、最初に近代的な学問を教授したのは小三郎かも知れない。後に同志社大学の設立に深くかかわった山本覚馬と、ここでも数奇な接点がある。
会津側の文献は、書名を間違えていました、松平家文書ではなく、『会津松平家譜』(国書刊行会、1984年) でした。 多分、小三郎について記した文書も収録されていると思います。
現在、会津藩の誰が主に関係していたのかと調べておりましたところ、関様のHPにたどり着きました。
今まで、私は小野権之丞が赤松小三郎の塾に出入りしていた中に新選組隊士がいることから彼のみを調べていました。
しかし、彼の書いた日記も肝心の部分が消失しており、
苦慮していたところ関様のHPにて、山本覚馬を知りました。
松平家文書を早速拝見したいと思っておりますが、
それ以外にあれば、ご教示いただきたく存じます。
文献など、初心者にもわかるようなものがあれば大変ありがたいです。
いろいろとあつかましく、お願いをして申し訳ございませんが、よろしくお願い申し上げます。
会津藩の洋学学校の教官への就任依頼があったことなどは、本人の兄宛の書簡へ記されています。上田藩の帰国命令に対して、薩摩との交渉は小三郎なしにはできないと会津藩から強く慰留されていた様子もうかがえます。ただ、この本は上田市立博物館に行かないと手に入りません。必要であれば、お貸しします。
会津藩側が、小三郎をどう見ていたかに関しては、私は手元にありませんが、会津の「松平家文書」にあたるのが一番かと思われます。
お勧めの資料などございましたら、
ご教授ください。