代替案のための弁証法的空間  Dialectical Space for Alternatives

批判するだけでは未来は見えてこない。代替案を提示し、討論と実践を通して未来社会のあるべき姿を探りたい。

美智子皇后と明仁天皇は「日本の民の象徴」

2014年11月16日 | 長州史観から日本を取り戻す
 薩長公英陰謀論者さんから、日本の天皇制に関してすばらしい投稿をいただきました。この感動的な内容、一つ一つの意味を噛みしめて拝読させていただきました。多くの方々に読んでいただきたいので、全文を再掲させていただきます。

***以下薩長公英陰謀論者さんのコメントの引用*****
http://blog.goo.ne.jp/reforestation/e/b3fbe4ed052b21e04407666401431e87

 関さん、明仁天皇の結婚50周年の「お言葉」をご紹介いただきありがとうございました。全文を拝見しまして、関さんが引用されたあとにつづく言葉を飛び飛びにですが拾ってゆきますと、つぎのようになります。
http://www.kunaicho.go.jp/okotoba/01/kaiken/kaiken-h21-gokekkon50.html
 「・・・その後の日本は、更なる産業の発展に伴って豊かになりましたが、一方、公害が深刻化し,人々の健康に重大な影響を与えるようになりました。また都市化や海、川の汚染により、古くから人々に親しまれてきた自然は、人々の生活から離れた存在となりました。・・・・ソビエト連邦が崩壊し、より透明な平和な世界ができるとの期待が持たれましたが、その後、紛争が世界の各地に起こり、現在もなお多くの犠牲者が生じています。・・・ますます人々が協力し合って社会を支えていくことが重要になってきています」

 これを繰り返し読んで思いますに、明仁天皇と美智子皇后は、現在の日本において特別な地位を持つ人々のなかで唯一、人と自然を思う美しい心と言葉を持っている存在であると、現在見聞きするかぎりの政官財学メディアの主要な人々を見渡しながら、そう痛感します。

 かようなことからさらに思いますに、関さんのご趣意とは離れてしまいますが、美智子皇后にささえられた明仁天皇は憲法にいう「日本国と日本国民統合の象徴」すなわち「国家の象徴、民の(国家への)統合の象徴」であるよりむしろ「日本の民の象徴」であると思えます。言わば「最善の日本人」なのだと。

 明治天皇から戦前期の昭和天皇まで、天皇は軍服を着た「陸海空三軍の最高司令官」でした。あの天武天皇が軍人であったのは壬申の乱の大海人皇子時代であったわけですから、後醍醐天皇を含めて軍装をして軍を率いた天皇というのは、倭王「武」に代表される統一国家形成以前の大和朝廷神話伝承の時代のみであったのではないかと思います。

 歴史時代に一貫して「祭祀をおこなう純粋文化人」であった天皇は「神武創業の神話時代に戻った」明治維新によって、軍刀を提げて馬にまたがり兵士に戦闘命令を下し国民皆兵のもと全国民を従える武人に仕立てられたわけです。

 長州藩において民衆から動員した兵士を鼓舞するために各隊ごとに設けられた「招魂社」を戊辰戦争後に皇居防衛の軍事施設を兼ねて九段坂に設営した「東京招魂社」(改名後「靖国神社」)は、生きた神である天皇が参拝することによって戦死戦病死した兵士を神とするという「戦争装置」となりました。これは神話伝承時代を含めた日本の歴史の中でかってなかった新発明であり、民に対して無慈悲無惨であった長州的知恵のもたらしたものであると思います。

 明治憲法第1条に「大日本帝国ハ万世一系ノ天皇之ヲ統治ス」とあります。関さんご指摘のように天皇が唯一の主権者であり、三権ならびに軍事を最終的に統括する文字通り「独裁者」として公選によらない天皇の官僚による専制体制を敷いていたわけです。

「伝統的な天皇のあり方」にもとづく大日本帝国憲法下の天皇のあり方に対する明仁天皇の批判には、軍人天皇の否定、東京招魂社(靖国神社)を含めた専制的な戦争体制の否定という含意があると思えます。戦前とは異なった形であれ、そのようなところに戻る現実的な危機懸念が一貫してあることをおそらく感じておられるのではないでしょうか。

 明治憲法はさらに、第3条「天皇ハ神聖ニシテ侵スヘカラス」とつづきます。現在ではなかなか意識しがたいことですが、明治維新以降「大日本帝国憲法」の時代には天皇は「現人神」として神でした。天皇が在世の時期に神とされたのは、「神武創業」以来、明治維新以降敗戦までの近代三天皇がはじめてではないでしょうか。

 皇祖神「天照大神」の子孫がはじめて人間となったのが「神武天皇」であるという皇孫神話をつくったといわれるカリスマ独裁者である天武天皇ですら自身を神とすることはなかったと思いますから。

 かように、まさに関さんがおっしゃるように明治維新から敗戦までのいわゆる「天皇制」が如何に「日本の長い歴史と伝統の中で異質なものであったか」あまりにあきらかです。下町江戸っ子の末裔から見て、かような長薩の思考と行動には、その現在の姿を含めて、正直言って些か日本人ばなれした「異常性」を感じるというのが正直なところです。

 それは措き、学生時代に「世襲の職業とはイヤなものだね」と友人に対して言った明仁天皇は人間的精神にあふれており、人間的誠意と良心に満ちた存在として、日本にとってきわめて不幸なことではありますが現在の日本の「著名人」のなかで異彩を放っています。

 真言の学僧であった祖父の無言の影響からか反近代の伝統主義者として文字どおり「右翼」に位置しながら、大学時代まで近代法の理念である平等な人権という立場から考える訓練を受けて、いかなる形であれ君主制に賛意を持たない私ですが、明仁天皇と美智子皇后には心からの敬愛を抱きます。

 自己流「私擬憲法案」を考える際に「天皇皇族に基本的人権を保障するべきである」ということをアタマの隅に置きながら、基本的人権を持たない明仁天皇夫妻が、国民の基本的人権と平和主義を核とする日本国憲法をおそらく現在もっとも「戦闘的に」擁護していることに強い感動を禁じ得ません。

***引用終わり******
 

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3 コメント

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☆ 弊投稿の思いもかけぬご紹介と、関さんからいただいたコメントに感激しております。おそらく能天気で見当はずれ、しかも不敬にちがいない珍奇な「社会的共通資本」論を引き続いて寄せることをご容赦ください。(その1/2) (薩長公英陰謀論者)
2014-11-22 23:38:50
関良基さま:

 関さん、皇居の土曜日に愛車ホンダ・インテグラ1991年モデル(マニュアル・ミッション!)の助手席にジャージのアンサンブル姿の美智子皇后を乗せ(後席にはおなじくジャージを着た三人の護衛官を)市中ではありえないエンジンスピードで発進・転舵を敢行する明仁天皇( URLの入力が拒否されましたので、明仁天皇/インテグラで検索して youtube をご覧ください)について積年思っておりましたことを書いたものを、寛大にもウェブログ記事に取り上げていただき、そのうえ思いがけぬ、心あふれるお言葉をたまわり、まことに恐縮に思っております。 

 本ウェブログ2014年11月12日の宇沢弘文先生の社会的共通資本に関する御記事を繰り返し拝見して、明仁天皇に関連してふと思いつきましたことを以下のようにまとめてみました。奇矯な論議であると自分でそう思いますが。

 関さんが記事中に引用しておられる岩井克人氏の日本経済新聞2014年09月29日掲載寄稿のなかに、宇沢先生に関して「社会主義に陥らずにいかに社会的共通資本を維持し発展させていくかに関して、先生自身、理論的な解答を見いだせていなかったのです」とあり、
 それに続けて「ただ、私はすぐに、先生自身も社会的共通資本という概念自体には新しさがないことを百も承知であることを知ります。先生は学界の中での認知ではなく、市民をいかに動かすかという社会的な実践を選び取っていたのです。『冷徹な頭脳』を『暖かい心』に仕えさせることにしたのです。晩年の先生が経済学の中に『人間の心』を持ち込むことを提唱し始めたのは、その自然な帰結であったのです」と、宇沢先生に対する岩井氏の思いが述べられていることに、ずっと腕組みをしていました。

 岩井氏はこれに先立って「宇沢先生は新古典派経済学からの脱却を試みていたのです。しかし、先生の分析手法は基本的に新古典派の枠組みを出ることはありません。先生は自らの分析手法と、正義感に基づく自由放任主義批判ー冷徹な頭脳と暖かい心ーの間のギャップに長らく葛藤していたのだと思います。その葛藤の切れ切れを、私は酒場でのお話の中から漏れ聞いたのです」と述べています。

 関さんが引用しておられる「社会的共通資本とは、自然環境やインフラや社会制度の総称でしかない。ストックとしての公共財と言い換えてもよい」という理解が岩井氏の躓きの石になって、自由放任思想にもとづく新古典派経済学の数理的理論、つまり<冷たい理論>である市場原理主義から、正義感による<暖かい心>への脱却しようとした宇沢先生のこころみの「理論的失敗の遺産」として社会的共有資本を葬ってしまう、ということになったのであろうと思います。

 まさか岩井氏が社会的共通資本という宇沢先生の考えを否定するために日経に追悼文を寄せたとは思えませんが、意図せず、結果としてそうなっているのは、岩井氏自身の問題が背景にあるからであろうと思います。

 岩井氏は「貨幣は皆がそれを貨幣と思うから貨幣なのだ」という、<盲目的循環論による存在である貨幣>によって資本主義が成立していることが、その<絶対的な不安定性>を宿命づけ、資本主義がもたらす社会の激しい歪みの本質的な原因であると考えているのだと思います。そして、この歪みから社会を救うために「市民主義」という倫理的な契機をもったものが必要であると主張しています(参照;『資本主義から市民主義へ』新書館、2006年)。

 しかし岩井氏の「市民主義」はそれ自体理論的な構造・内容を持ったものではなく、結局「市民主義」とは実質的に資本主義を補完し、その破綻を取り繕うものとなっており、著書名『資本主義から市民主義へ』とは羊頭狗肉と言わざるを得ないように思います。
 岩井氏のこの自己矛盾の自覚と、追い討ちをかけるようですが、宇沢先生のような「熱い心と正義感」で実際に動くことができないことへの焦慮から「社会的共通資本」をアプリシエートすることができないままに宇沢先生を追悼することになり、関さんが真っ向から批判せざるを得ないような社会的共通資本認識と論の運びになったのではないかと推察します。

 さらにその底には、岩井氏の有名な貨幣と資本主義の定義が、雑駁なブランディングとなることを承知で率直に言って、氏の思想上のニヒリズムから生まれた抽象論・観念論であり、これは宇沢先生の次のような言葉に現れた前向きで明るい精神性と対照的であるように見えます。その意味で、岩井克人氏の思想上の悲劇に対して瞑目せざるを得ません。

 宇沢先生は日本医師会での講演で、きわめて率直に次のように話されています。「・・その過程で、経済学は社会の病を癒す学問ではなくて、逆に社会に病を作っている学問になってしまったということをつくづく感じました。そこで、経済学を何とかして社会の病を癒す学問に変えたいと思っていろいろなことを考え始め、だいぶあとになって『社会的共通資本』という形でまとめたわけです。しかし、まだ社会的共通資本の中身ははっきりしていません。ただ、人間が人間として生きていくために大切なものとか制度、それを社会共通の財産として大事に守り、そして次の世代に伝えていく。一人ひとりにとって大切なものと同時に、社会にとっても大切なものを、皆で支えていく。・・」と( URL が入力を拒否されましたので、宇沢弘文/社会的共通資本で検索して、PDF ファイルをご覧ください )。

 さて、つい最近「今だけ、カネだけ、自分だけ、3だけ主義の克服と新しい日本」(URL が入力を拒否されましたので、3だけ主義で検索してご覧ください)という記事で「3だけ主義」という言葉を知りました。最近は政治と経済の偉いさんに3だけ主義者が目立って多くなり、そのもとの根は経済学にいう「合理的な経済人」にあるということが述べられています。

 思いますに社会的共通資本とは「今だけ、カネだけ、自分だけ」という<3だけ主義>にゆだねることができないもの、であると考えればよいのではないでしょうか。
 そう考えると、何が社会的共通資本に該当するのか、それをどう運用し構築するか、ということは、まさに関さんがおっしゃるように、その社会の発展段階や特性特質によるものであり、それを理論的に一義的に規定したり、官僚的に集権的一律的に管理したり、ましてやそこに「グローバル・スタンダード」や自由貿易TPPなどを持ち出すべきものではないだろうと、素直に腑に落ちる気がします。
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☆ 弊投稿の思いもかけぬご紹介と、関さんからいただいたコメントに感激しております。おそらく能天気で見当はずれ、しかも不敬にちがいない珍奇な「社会的共通資本」論を引き続いて寄せることをご容赦ください。(その2/2) (薩長公英陰謀論者)
2014-11-22 23:42:30

社会的共通資本(Social Common Capital)とは宇沢先生によれば :

(1)ゆたかな経済生活を営み、すぐれた文化を展開し、人間的に魅力ある社会を持続的、安定的に維持することを可能にするような自然環境や社会的装置。

(2)社会全体とっての共通の財産であり、それぞれの社会的共通資本にかかわる職業的専門家集団により、専門的知見と 職業的倫理観にもとづき管理、運営される。

(3)一人一人の人間的尊厳を守り、魂の自立を保ち、市民的自由を最大限に確保できるような社会を志向し、真の意味におけるリベラリズムの理念を具現化する。

 とのことですが、20世紀の終わり頃から金融(資本市場)の「グローバル化(米国化)」によって株主価値経営が一世を風靡するまでは、私的資本の代表である(というよりそれ以外の私的資本はないとすら言える)企業において、経営者は少なからず、上の(3)はともかく、企業とは(1)と(2)とがあてはまる存在でなければならないと本心から考え、その旨を経営の目的使命や理念として社内外に公言していたように思います。
 今なお多くの会社の経営理念を見ますと、少なくとも言葉の上では、上記の(1)と(2)に含まれることに触れていると思います。

 さらにまた、個人ひとりひとりにとって本当の生き甲斐とは、上記の(1)と(3)にかかわることであり、できればそのようでありたいという思いと願いを、誰もが心のなかに持っているのではないでしょうか。

 と、いうことは、うまく言えませんが、社会的共通資本とは、自然と社会の中での、つまり世界の中での人間の基本的なあり方にかかわるものであるように思えます。それがどのような「資本」としてあらわれようと。

 ところで、社会的共通資本( Social Common Capital )とは、文字の上では「 Socialism =社会主義 」と「 Capitalism =資本主義」とを 「 コモンズ=Common 」で結びつけたもの、いやむしろ、この二つを弁証法的に止揚するものとして「 コモンズ=Common 」がある、といっているように見えます。

 この社会的共通資本とはおそらく似て非なる「社会資本」と言われるものがあります。これは「公共的インフラストラクチュア」と言われますが、それは公金(税金)を投入し、かつその建設に影響を受ける住民に犠牲と負担を強いるための言い方で、じつは特定の限られた範囲また層に対してその直接的効果が及ぶものとして、計画実施されます。典型的にはダム、道路、空港、港湾です。

 話が飛躍しますが、明治幼帝は実際にそう呼ばれたと伝えられるように「倒幕」派長薩公家の「玉」であったと言われています。「王」と呼ぶのをはばかって「 、」をつけて「玉」と呼んだ、などと言えば、かえって将棋の駒のようですし、いや「替え玉」の「玉」ではないか、と言い出す陰謀論者すら飛び出しかねません。
 それはともかく、いずれにせよ、明治維新以降の三天皇は一貫して一部の特定の者たちのための「社会資本」であったと言うことができようかと思います。戦後にまたあらためてみずからそう望んだようにすら思われる裕仁昭和天皇の在位までを通じて。

 関さんが注目されるように、「象徴天皇」が本来の伝統であると言う明仁天皇は、天皇という存在について、それはこれまでのように「社会資本」ではなく、上記(1)、(2)、(3)にあるような「社会的共通資本」であるべきだと、ひょっとして考えたのではないでしょうか。

 若い世代の日本人のみならず、何らかのかたちで社会の指導的な立場にある人々がみずからについて、明仁天皇のように考えること、いえ、市井津々浦々の人々がみな、そのような気持ちを素直に持つことができるような世の中を待ち望まずにはおられません。
 
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制度と個人 (たんさいぼう影の会長)
2015-04-19 22:00:19
天皇制を積極的には支持ぜず、事と次第によっては廃絶、あるいは無形文化財としての保存という道もありだと考えている私でも、明仁さんの昨今の言動には深く納得させられることが多く、個人的に深く尊敬しております。
憲法の制約で言えることがたいへん限られる立場で、その範囲を逸脱せずにかくも意味のある発言ができる。あれこそが憲法を遵守する「公人」としてとるべき立場です。
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