前の記事のコメント欄で展開された睡り葦 さんとのやりとりの一部を抜粋して紹介いたします。
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司馬遼太郎の維新論と坂の下の奈落。 ( 睡り葦 ) 2020-09-19 17:05:33
(抜粋)
司馬遼太郎が最後の長編作品を書き終える頃と推察される1986年に始まった『文藝春秋』巻頭随筆連載である『この国のかたち』の文春文庫版第1巻の二番目に「朱子学の作用」という興味深い一文があります。注目した箇所を勝手に圧縮再編して二点にまとめます。
1.日本の近代の出発点、太政官政府を成立させた明治維新は、フランス革命が持った人類的な理想、また人間的な原理の問題を含まない、貧弱きわまりない思想による革命であった。
そのために近代の豊穣さを生み出すことなく大正末年から敗戦の間に近代そのものが痩せ衰えてしまった。江戸後期にルソーが日本につたえられていたら、明治維新に思想的内実をもたらしたであろうが、過去は動かすことはできない。
(注)原文では、原理の問題ではなく基本の課題とあり、思想的内実ではなく明治維新の思想に器の大きさをもたらした、とあります。
2.江戸期に現実より名分を重んじる朱子学が官学化されたが、その空論性を攻撃する荻生徂徠、伊藤仁斎の学問によって思想の多様性が存在した。
水戸一カ所だけにおいて朱子学幻想が純粋培養され、尊皇攘夷思想の中心となり、それが滑稽なことに明治維新の唯一の理念とされて近代をひらいた。この歪みが左翼を含めていまなお存在する。
(注)原文では、歪みではなく矛盾とあります。
学識ゆたかなrenqingさまを前に子犬が吠えるような仕儀まことに恐縮である上に、一を見て十を言うの愚をおかしますと、ここに丸山真男と司馬遼太郎に通底する思考回路があります。朱子学に対する反感と徂徠学に対する共感、すなわち建前倒れのアジア的封建に対する嫌悪忌避と科学的実証主義の西欧的近代への共鳴です。
この観念的近代主義によって、関さんが挙げられている江戸期の内発的蓄積を棄て長薩支配に都合のよいところだけの表層的欧米模倣であった近代化をもとにした明治が全面的に肯定されるわけです。
天皇を大きな存在として内面に抱えたことと大げさに格闘して『超国家主義の論理と心理』を書いたという丸山真男は、明治以来政府御用達であった東大アカデミズムの立場思考であろうと雑駁きわまりない偏見を持ちます。
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司馬と丸山の誤謬の根源 (関) 2020-09-21 20:10:37 (一部加筆修正)
睡り葦さま
大変に啓発的なご論考、まことにありがとうございました。
>江戸後期にルソーが日本につたえられていたら、
江戸期にルソーまでは翻訳されていなくても、近代西欧の立憲主義は、開港直後の文久年間から蕃書調所の加藤弘之などによって紹介され、知識人の間には広まっていました。(共和政体についての紹介は、弘化年間の1845年から箕作省吾『坤輿図識』によって行われている)。ここは司馬の認識不足ですね。
徳川公儀の側の立憲政体論、議会論をなかったことにして、真剣に検討しようとしなかった司馬の不勉強によるものとしか言いようがないかと思います。あるいは、うすうす気づいていても、あえて目をつむって勉強しなかった不作為ではないかとも思えます。
だから司馬は、赤松小三郎を、幕府のスパイとして薩摩に入り込んで斬られた男程度にしか認識できず(実際『翔ぶが如く』でそう書いています)、最後まで無視し続けたのです。
>水戸一カ所だけにおいて朱子学幻想が純粋培養され、
なんと司馬遼太郎は朱子学を水戸学に代表させて認識していたのですか! ひどい事実誤認です。私も『この国のかたち』は読んでいるので、これも過去に読んでいたはずなのですが、まったくこの記述の重要性に気づかず、読み飛ばしてしまっていたようです。
司馬にも丸山にも共通する誤りは朱子学に対する冷笑的態度ですね。しかも、司馬は朱子学を水戸学に代表させていたとするならば、朱子学に対して失礼な話です。二重に誤っています。
正統朱子学は昌平黌で、昌平黌朱子学は古代回帰の水戸学と違って、きわめて近代西欧とも整合的な方向に進化していました。この辺、朱子学を正統とする昌平黌の指導者であった古賀侗庵の近代的な世界観が徳川官僚層の主流となっていたことを分析した奈良勝司氏の名著、『明治維新と世界認識体系』に詳しいです。朱子学が洋学と化学反応を起こして近代的立憲政体に至るコースは十分にあり得たはずです。
水戸学がダメだったのは、朱子学がダメだったのではなく、水戸学に入り込んだ国学(=神国思想)がダメだったことに他ならない。
丸山眞男に至っては、その国学を「近代意識」と評価するのだからお話になりません。あれほどに徹底的に間違った学者がなぜ評価され続けるのか、不思議です。結局、東大のシューレのトップにいたという学閥権威主義のなせる技かと思います
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さらに追記します。明治維新によって確かに国学が勝利したのは間違いありません。しかし勝利した思想だから正しかったと考えるのが根本的に間違いで、誤った思想でも歴史の偶然によって勝利してしまうことはあり得るのです。複雑系の歴史観では、正しいものが勝つとは限りません。
しかるに、マルクス主義史学にしても、近代の進歩主義にしても、正しいものが勝つと単純に考えるから、朱子学が負けたのは間違っていたらからで、国学が勝ったのは正しかったからだといった評価をし、勝ったのは近代に至る進歩の必然性があったのだというように、一生懸命に歴史の後知恵で、理屈付けをしようとするのです。その理屈づけが無理すぎるから、丸山眞男の言っていることは支離滅裂で訳が分からないものになっているのでしょう。
勝ったのは単に偶然であった、他にもっと良い近代化の可能性はあったのだと考えれば、丸山も司馬も陥っていた、奇妙な呪縛から解放されます。
ファナティックな国学思想から、極端な神州不滅思想に行き着いた水戸は、無謀なテロと内戦で自滅していきました。本来は長州のテロリズムも、水戸と同じ路線をたどって、滅びて終わりだったはずなのです。そうなれば、国学(というか国家神道)の勝利による明治維新などなかかった。
長州が生き残ったのは、正しかったからではなく、世界最強の覇権国である大英帝国が、武器援助して助けたからに他ならないのです。滅亡の淵にあった長州を英国が助けたのは、アーネスト・サトウやトーマス・グラバーの暗躍によって生じた偶然の作用でしかない。
神国思想の国粋主義者たちが、英国に媚びへつらって、帝国の走狗となって勝利したというのが、歴史の真相であり、それが日本の不幸の始まりなのです。
ロシア憎しの意識に懲りかたまった米国が、「敵の敵は味方」の論理でアフガニスタンのイスラム原理主義者たちに武器援助をし、それがきっかけになって今日のイスラム原理主義テロの横行を招いているのと同じことです。
徳川政権は、合理的に日本を近代的な立憲政体に導こうとしていたのであり、そちらのコースの方が日本にとってより幸せな結果をもたらし、1945年の敗戦などという事態も避けられたはずです。現在において、日本会議が政権を支配するなどという悪夢にも至っていないはずなのです。
結局、国学(=長州的な国家神道体制)の一時的勝利は、1945年の敗戦というより大きな全面的敗北に帰結してしまった。勝利すべきでないものが勝利して、より大きな敗北を招いてしまった。本来、丸山も司馬も、そこから誤謬の根元を見出し、深刻に反省しなければならなかったはずなのです。それが出来なかったから、司馬は水戸学が国学ではなく朱子学だなどという全く訳の分からない主張をせざるを得ないのでしょう。
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司馬遼太郎の維新論と坂の下の奈落。 ( 睡り葦 ) 2020-09-19 17:05:33
(抜粋)
司馬遼太郎が最後の長編作品を書き終える頃と推察される1986年に始まった『文藝春秋』巻頭随筆連載である『この国のかたち』の文春文庫版第1巻の二番目に「朱子学の作用」という興味深い一文があります。注目した箇所を勝手に圧縮再編して二点にまとめます。
1.日本の近代の出発点、太政官政府を成立させた明治維新は、フランス革命が持った人類的な理想、また人間的な原理の問題を含まない、貧弱きわまりない思想による革命であった。
そのために近代の豊穣さを生み出すことなく大正末年から敗戦の間に近代そのものが痩せ衰えてしまった。江戸後期にルソーが日本につたえられていたら、明治維新に思想的内実をもたらしたであろうが、過去は動かすことはできない。
(注)原文では、原理の問題ではなく基本の課題とあり、思想的内実ではなく明治維新の思想に器の大きさをもたらした、とあります。
2.江戸期に現実より名分を重んじる朱子学が官学化されたが、その空論性を攻撃する荻生徂徠、伊藤仁斎の学問によって思想の多様性が存在した。
水戸一カ所だけにおいて朱子学幻想が純粋培養され、尊皇攘夷思想の中心となり、それが滑稽なことに明治維新の唯一の理念とされて近代をひらいた。この歪みが左翼を含めていまなお存在する。
(注)原文では、歪みではなく矛盾とあります。
学識ゆたかなrenqingさまを前に子犬が吠えるような仕儀まことに恐縮である上に、一を見て十を言うの愚をおかしますと、ここに丸山真男と司馬遼太郎に通底する思考回路があります。朱子学に対する反感と徂徠学に対する共感、すなわち建前倒れのアジア的封建に対する嫌悪忌避と科学的実証主義の西欧的近代への共鳴です。
この観念的近代主義によって、関さんが挙げられている江戸期の内発的蓄積を棄て長薩支配に都合のよいところだけの表層的欧米模倣であった近代化をもとにした明治が全面的に肯定されるわけです。
天皇を大きな存在として内面に抱えたことと大げさに格闘して『超国家主義の論理と心理』を書いたという丸山真男は、明治以来政府御用達であった東大アカデミズムの立場思考であろうと雑駁きわまりない偏見を持ちます。
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司馬と丸山の誤謬の根源 (関) 2020-09-21 20:10:37 (一部加筆修正)
睡り葦さま
大変に啓発的なご論考、まことにありがとうございました。
>江戸後期にルソーが日本につたえられていたら、
江戸期にルソーまでは翻訳されていなくても、近代西欧の立憲主義は、開港直後の文久年間から蕃書調所の加藤弘之などによって紹介され、知識人の間には広まっていました。(共和政体についての紹介は、弘化年間の1845年から箕作省吾『坤輿図識』によって行われている)。ここは司馬の認識不足ですね。
徳川公儀の側の立憲政体論、議会論をなかったことにして、真剣に検討しようとしなかった司馬の不勉強によるものとしか言いようがないかと思います。あるいは、うすうす気づいていても、あえて目をつむって勉強しなかった不作為ではないかとも思えます。
だから司馬は、赤松小三郎を、幕府のスパイとして薩摩に入り込んで斬られた男程度にしか認識できず(実際『翔ぶが如く』でそう書いています)、最後まで無視し続けたのです。
>水戸一カ所だけにおいて朱子学幻想が純粋培養され、
なんと司馬遼太郎は朱子学を水戸学に代表させて認識していたのですか! ひどい事実誤認です。私も『この国のかたち』は読んでいるので、これも過去に読んでいたはずなのですが、まったくこの記述の重要性に気づかず、読み飛ばしてしまっていたようです。
司馬にも丸山にも共通する誤りは朱子学に対する冷笑的態度ですね。しかも、司馬は朱子学を水戸学に代表させていたとするならば、朱子学に対して失礼な話です。二重に誤っています。
正統朱子学は昌平黌で、昌平黌朱子学は古代回帰の水戸学と違って、きわめて近代西欧とも整合的な方向に進化していました。この辺、朱子学を正統とする昌平黌の指導者であった古賀侗庵の近代的な世界観が徳川官僚層の主流となっていたことを分析した奈良勝司氏の名著、『明治維新と世界認識体系』に詳しいです。朱子学が洋学と化学反応を起こして近代的立憲政体に至るコースは十分にあり得たはずです。
水戸学がダメだったのは、朱子学がダメだったのではなく、水戸学に入り込んだ国学(=神国思想)がダメだったことに他ならない。
丸山眞男に至っては、その国学を「近代意識」と評価するのだからお話になりません。あれほどに徹底的に間違った学者がなぜ評価され続けるのか、不思議です。結局、東大のシューレのトップにいたという学閥権威主義のなせる技かと思います
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さらに追記します。明治維新によって確かに国学が勝利したのは間違いありません。しかし勝利した思想だから正しかったと考えるのが根本的に間違いで、誤った思想でも歴史の偶然によって勝利してしまうことはあり得るのです。複雑系の歴史観では、正しいものが勝つとは限りません。
しかるに、マルクス主義史学にしても、近代の進歩主義にしても、正しいものが勝つと単純に考えるから、朱子学が負けたのは間違っていたらからで、国学が勝ったのは正しかったからだといった評価をし、勝ったのは近代に至る進歩の必然性があったのだというように、一生懸命に歴史の後知恵で、理屈付けをしようとするのです。その理屈づけが無理すぎるから、丸山眞男の言っていることは支離滅裂で訳が分からないものになっているのでしょう。
勝ったのは単に偶然であった、他にもっと良い近代化の可能性はあったのだと考えれば、丸山も司馬も陥っていた、奇妙な呪縛から解放されます。
ファナティックな国学思想から、極端な神州不滅思想に行き着いた水戸は、無謀なテロと内戦で自滅していきました。本来は長州のテロリズムも、水戸と同じ路線をたどって、滅びて終わりだったはずなのです。そうなれば、国学(というか国家神道)の勝利による明治維新などなかかった。
長州が生き残ったのは、正しかったからではなく、世界最強の覇権国である大英帝国が、武器援助して助けたからに他ならないのです。滅亡の淵にあった長州を英国が助けたのは、アーネスト・サトウやトーマス・グラバーの暗躍によって生じた偶然の作用でしかない。
神国思想の国粋主義者たちが、英国に媚びへつらって、帝国の走狗となって勝利したというのが、歴史の真相であり、それが日本の不幸の始まりなのです。
ロシア憎しの意識に懲りかたまった米国が、「敵の敵は味方」の論理でアフガニスタンのイスラム原理主義者たちに武器援助をし、それがきっかけになって今日のイスラム原理主義テロの横行を招いているのと同じことです。
徳川政権は、合理的に日本を近代的な立憲政体に導こうとしていたのであり、そちらのコースの方が日本にとってより幸せな結果をもたらし、1945年の敗戦などという事態も避けられたはずです。現在において、日本会議が政権を支配するなどという悪夢にも至っていないはずなのです。
結局、国学(=長州的な国家神道体制)の一時的勝利は、1945年の敗戦というより大きな全面的敗北に帰結してしまった。勝利すべきでないものが勝利して、より大きな敗北を招いてしまった。本来、丸山も司馬も、そこから誤謬の根元を見出し、深刻に反省しなければならなかったはずなのです。それが出来なかったから、司馬は水戸学が国学ではなく朱子学だなどという全く訳の分からない主張をせざるを得ないのでしょう。
また、西村玲さんの弊ブログ記事に塩沢由典先生からコメントを頂いています。このままだと埋もれそうなので、弊ブログに記事化してあります。下記、ご参照頂ければ幸いです。
文科省の大学院政策における失敗/ Failure in MEXT's graduate school policy: 本に溺れたい
http://renqing.cocolog-nifty.com/bookjunkie/2020/09/post-eebfa1.html
文科省のやったことは、「政策の失敗」というよりはむしろ国交省と同じ「未必の故意」の嫌疑が高そうですが。
漱石が朱子学の影響下にあったか否かは、私は門外漢なので分かりません。鷗外の出世主義のアンモラルについては同意です。
文科省の責任論にも同意します。私も、なかなか就職できず、長らく西村玲さんと同じ境遇でしたので、全く他人事ではありません。
50以上の公募に落ちた後、たまたま某賞をいただいたおかげで、どうにか就職できました。そのときの審査側のトップが空間経済学の切り開いた元ペンシルバニア大学教授のF先生で、アメリカ流の研究評価をする方だったので、運がよかったのだと思います。(学閥権威主義的な審査員からは評判は悪かったようです)
輝かしい業績のある西村さんの場合、就職できないというのは本当に不可解です。学閥権威主義や人事での縁故主義が妨害していたようにしか思えません。
学閥ボスの弟子というだけで、能力なくても就職で優遇されるような縁故人事を放置したまま、やみくもに大学院重点化を進めた文科省に巨大な責任があると思います。愚かしいことです。
>学閥権威主義や人事での縁故主義
もっと悪質な故意かもしれません。故西村氏は、露骨に言えば「丸山殺し」という短刀を懐に抱いていました。ただし、論文や学術書には陽表的には出さないでいたと思います。しかし、読む人が読めば西村氏の指し示す goal は明白でしょう。しかし、それは日本思想史村の長老会(=丸山の弟子筋)には許しがたい冒涜、というわけです。もしそうであるならば、若造(それも"女")の業績など何の意味も持ちません。
私は、関口すみ子氏の『御一新とジェンダー』《あとがき》に「退路を断ち」とあるのを眼にして少なからず「ギョッ」としましたが、故西村氏の事件を垣間見て、すぐこの言葉を思い出した次第です。
私の知人に情報通の方がいます。その人物によると、
>「日本の文化系学問の水準は低い。」と言う事実を、東大大学院で激増する中国人留学生から複数のルートで聞
いています。また、その知人は、
>中国人留学生の大半は「日本及び中国で就職するため」に東大に在籍するのであって、学問探究のためではない。また、東大は大学院生不足を補うために、中国人留学生を必要
としているに過ぎないと、分析しています。この分析は、正鵠を得ていると思います。日本のアカデミズムに君臨する「長老村」の東大がこれであるなら、残りは推して知るべしでしょう。残念と言うべきなのか、迷います。
日本思想史村の村内事情には不案内ですが、そうだったのかも知れませんね。スタンダードな村社会の「物語」に忠実でない研究者には、授業もたせたくない、といった感情は芽生えるかも知れません。
私の専門分野の村の界隈では、以前はそんな雰囲気でした。村の長老たちの支配力はすごいですから。
>中国人留学生から複数のルートで聞いています。
どろどろの門閥・縁故人事ばかりしている関西の方のK大学などに比べると、東大の方が人事は公正にやっていて、実力次第で採用されるケースは多いように思えます。まあ、それでも水準低いのですから、やはり学閥門閥主義の弊害は消えないようです。
標題のシリーズ(2)をupしました。ご笑覧ください。
そこでは書きませんでしたが、
栗原隆一『斬奸状』昭和50年学芸書林、p.389-90
に、赤松小三郎の「議会政治」の先覚性について、中村半次郎の暗殺の件も含め書いています。1975年ですから、戦後での比較的早い指摘になるのではないでしょうか。ブログ主様の著作にご指摘が無かったので、申し添えます。
標題にて、弊ブログ記事をupしました。ご笑覧頂ければ幸甚です。一応、日本の初期近代思想史を見直すための、叩き台のつもりです。
missing link がいろんなところにポッカリ空いているはず。歴史的contextを構成してそれを発見することが狙いでやってみました。