代替案のための弁証法的空間  Dialectical Space for Alternatives

批判するだけでは未来は見えてこない。代替案を提示し、討論と実践を通して未来社会のあるべき姿を探りたい。

司馬遼太郎と丸山眞男から尾佐竹猛と大久保利謙へ

2020年09月19日 | 長州史観から日本を取り戻す
 二つ前の記事、「司馬遼太郎と日本会議の自虐史観」のコメント欄で、ブログ「本に溺れたい」のrenqimgさんがすばらしいコメントを下さいました。コメント欄に留めておくのはもったいないので、新しい記事として紹介させていただきます。
 議論の焦点は、太平洋戦争の敗戦による大日本帝国の崩壊は、すなわち明治維新体制の誤りが明らかになったという事象に他ならないのに、アカデミズムの領域で多大な影響力を行使した丸山眞男と、国民作家として丸山以上に一般に与える影響力が大きかった司馬遼太郎の二人が、ともに明治維新を近代化と国民国家形成の始原として肯定的に捉える立場を堅持したことの不思議さについてです。
 二人とも、身をもって体験した昭和の軍部の愚昧さ、卑劣さに対する憤りを原点として、それを否定し乗り越えるために、研究活動や歴史小説の創作活動を行っていたはずなのに、なぜか明治維新体制を肯定的に捉えていました。以下、コメント欄からの引用です。

***引用開始******

Unknown (renqing) 2020-09-16 13:29:04

(前略)
 司馬の個人史をみますと、学徒出陣と帝国陸軍戦車隊の経験が、「司馬史観」の確信的モチベーションになっているようです。これは丸山真男の陸軍内務班体験と同じ個人史です。陸軍用語で、一般社会のことを「地方(=俗世間)」と呼称することとも通底するでしょう。旧帝国陸海軍は、軍事合理性原理で構築されておらず、いわば「教団 sekte」です。その洗脳 (mind control) 過程が、内務班初年兵体験です。

 この悪夢を払拭することが、司馬の「維新/明治礼讃史観」、丸山の「自虐史観」の根底にあります。丸山眞男にはそれに加えて、広島での被爆体験も重なるのでしょう。司馬は「福田定一」として砕け散った青春と誇りを取り戻すために、丸山は日本政治思想史研究者として、人間としての「尊厳」を回復するために。

 戦後、丸山は学会出張などの海外渡航の際、航空機の車輪が羽田の滑走路を離れる度に「ざまあみろ」と心で快哉を叫んだ、と漏らしています。丸山にとってのフィジカルな軍隊経験の凄まじさが伝わってきますし、自分が生れた時に、あの「教団=狂団」が殲滅していて良かったと心から思います。

 「福田定一」と丸山真男の個人的な絶望と怒りには同情を禁じえない部分はあります。そのうえに、二人の歪んだ影響力が大きすぎたことは二重の不幸でした。
 旧帝国陸海軍大好きな現代の叔父さん叔母さんには、一度タイムマシンに乗って、入営してもらいたいものです。

********

なぜ司馬も丸山も「教団」を生んだ根源を否定できなかったのか? (関) 2020-09-17 21:04:00

>あの「教団=狂団」が殲滅していて良かったと心から思います

 その点で、かえすがえすも疑問に思うことですが、なぜ司馬も丸山も、その「教団」を生み出す原点であった明治維新への幻想を精算できずに、それを肯定する立場を堅持したのか、という点です。
 あの二人が、明治維新を批判できていれば、今日のように日本会議が興隆をきわめることはなかったように思えます。
 ちゃんと批判できていたのは尾佐竹猛や、意外にも大久保利通の孫の大久保利謙だったように思えます。大久保利謙は残念ながら、司馬や丸山ほどの影響力を持ち得なかった・・・・。

*********

「大正」と「革命幻想」 (renqing) 2020-09-18 13:18:21

ブログ主様
>司馬も丸山も、その「教団」を生み出す原点であった明治維新への幻想を、二人とも精算できずに、それを肯定する立場を堅持したのか

 二つ要因があると思います。一つは、彼らの個人史の中で、大正時代とどのくらい被っているか、という点。もう一つはマルクス主義の影響です。

尾佐竹猛 1880 32歳-50歳 1946
大久保利謙 1900 12歳-30歳 1995
丸山真男 1914 2歳-16歳 1996
司馬遼太郎 1923 0歳-7歳 1996

 上は、それぞれの生没年と1912年-1930年が何歳頃だったか、を計算したものです。

 大正期(から昭和5年ロンドン軍縮会議まで)は、21世紀の現代日本人からみれば、Meiji Constitutionと一体のものと見做せますが、其の中に生きた人々にとっては、後年の満州事変以降の昭和時代より、かなりマシだった(良かった/自由だった)という思いが強かったようです。社会の雰囲気が軍縮(反軍)一色で、高級軍人が家族で外出する際、軍服で出ることが憚られ、私服で出かける雰囲気が濃厚だった。これも「空気」支配ではありますが。

 この四人を比べますと、尾佐竹と大久保は、肌身で「明治」を知っていて、「大正」を客観視できましたが、丸山と司馬はともに、その知的揺籃期が「大正」そのものでした。そして彼らの青年期は昭和の暗黒時代です。その断絶、失望はかなり大きかったと推測できます。

 またマルクス主義が大正期から昭和初年にかけて日本の知的世界を席巻したことも重要です。河上肇「貧乏物語」大正5年、高畠素之訳「資本論」第一巻大正9年です。丸山も指摘するように、「社会科学」という知的分析道具がマルクス主義に代表されていた時代です。ここから派生するのは「革命」幻想でしょう。
 尾佐竹も大久保も知的保守主義者で「革命」幻想など微塵もないでしょうが、丸山は当然としても、司馬にしても実はちっとも保守主義ではなく、歴史的リセット主義者なのです。彼らにとっては、「革命」は「進歩」を可能にし、国家(と彼ら自身)を救済するもので、「大正少年」であった彼らにとり「維新革命」は「大正」というリアリティの起源であらざるを得なかった。これが、戦後「市民社会派/進歩派」の第一世代が悉く、「大正少年」であり、「保守」「革新」関係なく、「進歩」or 「革命」幻想だった知性史的な背景であると思います。

***引用終わり*******

 「大正デモクラシー」と「マルクス主義」の影響・・・・renqingさんの考察、非常に興味深いです。
 司馬はマルクス主義とは無縁でしょう! と思う方も多いと思います。しかし司馬は、マルクス主義歴史学者で明治維新礼賛論者だった井上清などと対談しても大いに共鳴し合っています。司馬の歴史観は総体として見て、講座派マルクス主義の歴史認識と大きな差異はないのです。司馬自身はマルクス主義者でなくとも、時代の雰囲気として、その影響下にあるのは否定し得ない事実のように思われます。

 長州の武力討幕路線こそが日本近代化の駆動力となったのであり正しかったのだと考える点で、司馬遼太郎と日本会議と講座派マルクス主義の三者は、いずれも「長州史観」であり、基本的に同じ考えといってよいでしょう。
 それとは違った考え方をしていたのが、上記のコメントのやり取りの中で出てくる尾佐竹猛や、その弟子筋の大久保利謙です。尾佐竹は、もともと大審院判事なので、アカデミックな側の人間ではないのですが、吉野作造らと共に明治文化研究会を組織し、その中で大久保利謙や、日本国憲法に影響を与えた私擬憲法案を作成した鈴木安蔵など多くの人材を育てました。
 尾佐竹は、近代日本を準備したのは長州や薩摩ではなく、徳川や諸藩が幕末から醸成した議会政治論であると大正時代から明言していました。その中で、赤松小三郎の議会政治論もいち早く評価しています。もっとも、尾佐竹より前に赤松小三郎を評価しているのは渋沢栄一でした。
 その尾佐竹猛は『維新前後に於ける立憲思想』(邦光堂、1929年)という著書の中で、「議会論を一蹴し、武力討幕を以て成功したる薩藩大久保一蔵」と断じ、大久保利通を名指しで批判しています。それなのに大久保利通の孫の大久保利謙は尾佐竹門下というのが何とも面白い話です。大久保利謙は、尾佐竹の歴史認識を肯定し、自ら佐幕派を名乗って『佐幕派論議』(吉川弘文館、1986)という本まで書いています。大久保は同書の中で以下のように論じています。引用します。

 明治初年の西洋学術、思想、文化の導入と日本への植え付けに、旧幕臣ないし旧幕府系の洋学者たちの功績がきわけて大きいことを痛感した。しかして、これはひとえに幕末期の幕府が蕃書調所(洋書調所、開成所)を設置して、そこに全国各藩の優れた洋学者たちを結集して仕事させた結果である。
(中略)
 私は大学史や学士院史の調査をするにつれて、日本の近代文化建設の上に、幕末幕府の新文化政策の果たした功績の大なることをつくづく感じ、政治的には薩長討幕派が勝ったが、文化的には幕末幕府の方に分があることを知った。ところが明治薩長政権は、自派の権力保持のために政治的には、朝敵視を以て幕府に臨み、その反面、文化業績は、これを摂取、利用して近代文化の建設を行った。(中略)
 そういうことで、少なくとも明治文化の研究という線では、どうやら私は旧幕びいきの佐幕派ということになろう。

(大久保利謙『佐幕派論議』吉川弘文館、一九八六年:四~五頁)

 
 これが大久保利通の孫の発言であることを考えると、素直に驚きを禁じ得ません。祖父の業績に贔屓目になってしまうのは、肉親の人情として当然のことと思われます。ところが大久保利謙の場合、あくまでも史料を第一に判断する歴史学者としてのプロとしての鍛錬が、身内びいきのバイアスに打ち勝ってしまったのです。まことに尊敬に値する姿勢です。大久保こそ「学者の鑑」ではないでしょうか。
 司馬遼太郎や丸山眞男に、大久保利謙ほどの史料に向き合う謙虚さがあれば・・・・とも思うのです。
 しかし時代の潮流は、司馬や丸山が尊敬され評価された時代から、尾佐竹や大久保の業績が再評価されるという流れに向かっているのではないかと思われます。

 

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13 コメント

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司馬遼太郎の維新論と坂の下の奈落。 ( 睡り葦 )
2020-09-19 17:05:33

 関さん、リモートで話をすることについて知る必要から、この間YouTubeをいろいろと見ておりました。
 例外なく、〜したいと思います、という耳慣れない珍妙な丁寧語法による導入が老若男女とわずおこなわれていることに嫌気がさし、思います、という言葉を使わないようになりました。クッションを措かない、むりやりの断定形文の羅列になることをご容赦ください。

 司馬遼太郎が最後の長編作品を書き終える頃と推察される1986年に始まった『文藝春秋』巻頭随筆連載である『この国のかたち』の文春文庫版第1巻の二番目に「朱子学の作用」という興味深い一文があります。注目した箇所を勝手に圧縮再編して二点にまとめます。

1.日本の近代の出発点、太政官政府を成立させた明治維新は、フランス革命が持った人類的な理想、また人間的な原理の問題を含まない、貧弱きわまりない思想による革命であった。
 そのために近代の豊穣さを生み出すことなく大正末年から敗戦の間に近代そのものが痩せ衰えてしまった。江戸後期にルソーが日本につたえられていたら、明治維新に思想的内実をもたらしたであろうが、過去は動かすことはできない。
(注)原文では、原理の問題ではなく基本の課題とあり、思想的内実ではなく明治維新の思想に器の大きさをもたらした、とあります。

2.江戸期に現実より名分を重んじる朱子学が官学化されたが、その空論性を攻撃する荻生徂徠、伊藤仁斎の学問によって思想の多様性が存在した。
 水戸一カ所だけにおいて朱子学幻想が純粋培養され、尊皇攘夷思想の中心となり、それが滑稽なことに明治維新の唯一の理念とされて近代をひらいた。この歪みが左翼を含めていまなお存在する。
(注)原文では、歪みではなく矛盾とあります。

 学識ゆたかなrenqingさまを前に子犬が吠えるような仕儀まことに恐縮である上に、一を見て十を言うの愚をおかしますと、ここに丸山真男と司馬遼太郎に通底する思考回路があります。朱
 子学に対する反感と徂徠学に対する共感、すなわち建前倒れのアジア的封建に対する嫌悪忌避と科学的実証主義の西欧的近代への共鳴です。

 この観念的近代主義によって、関さんが挙げられている江戸期の内発的蓄積を棄て長薩支配に都合のよいところだけの表層的欧米模倣であった近代化をもとにした明治が全面的に肯定されるわけです。

 天皇を大きな存在として内面に抱えたことと大げさに格闘して『超国家主義の論理と心理』を書いたという丸山真男は、明治以来政府御用達であった東大アカデミズムの立場思考であろうと雑駁きわまりない偏見を持ちます。
 司馬遼太郎は、商売道具の明るい明治と、骨身にしみた昏い体験の戦前昭和との二極定式化を内面の下敷きにして明治の華、日露戦争を描きました。

 司馬遼太郎は、彼自身が身をもって苦しんだ軍部独裁下の天皇制ファシズム監獄国家の始点を、大正が終わり昭和になって間もなく起きた1929年世界恐慌の翌年1930年のロンドン軍縮会議における政府の統帥権干犯問題を契機とする軍部と右翼の台頭にあると見たはずです。諸悪の根源は、昭和の軍部参謀本部にあると。

 1930年の統帥権干犯非難と浜口雄幸首相狙撃以降1932年5.15事件に至る一連のテロリズムによって、大正デモクラシー政党政治は破壊されました。天皇とテロによる反革命、すなわち第二の明治維新です。
 1931年に関東軍は謀略によって満州事変を起こし、政府の不拡大指令を無視して進撃を拡大します。以降1945年の帝国陸海軍軍部の破綻まで日本は常時戦争の日々となったわけです。

 明治維新の瞬間から、近代化とは洋風文明化のことになり、尊皇攘夷が即座に天皇制ファシズムと海外侵略主義に変わったこと、この置換が長薩明治維新に至る過程に内在していたことが、丸山真男と司馬遼太郎、この二人の知の巨人の共通思考回路において無視される事情は、renqingさまのコメントに拠る、関さんのご指摘のとおりです。

 日本を崖から墜落させた1930年代第二の明治維新は、軍部参謀本部が諸悪の根源であるという司馬遼太郎の体験的確信を背景にして、1905年の日露戦争勝利により導かれた大艦巨砲の大艦隊主義、すなわち軍拡至上主義に起因するものとされます。
 このトリッキーなデマゴギーによって、司馬遼太郎自身は内心冷笑的であった明治維新に、産経新聞のために派手やかな産着を着せるわけです。

 司馬遼太郎は24歳から37、38歳まで産経新聞の記者であり、退職の前年に産経大阪本社文化部の同僚だった松見みどりさんと社内結婚をしたというのは聞いたことがありました。
 『坂の上の雲』が産経新聞の連載小説であったことは、今般の関さんの記事をきっかけにはじめて知りました。

 ずっと以前在米時代に『坂の上の雲』を軍事戦略書として読もうという見当違いから繰り返し読みました。ほとほと辟易して投げ出したあと、上から目線の夜郎自大的決めつけ、外形類型による人格造型、見てきたような書きぶり、鳴り物入りのストーリーといった当作品の特性を、著者が産経記者出身であるからという偏見に流し込んでおりました。
 が、『坂の上の雲』が産経新聞連載小説であったことを知って得心しました。一連載分ごとに産経新聞購読者をたのしませなければならない、連載娯楽小説としての歴史フィクションであったと。

 その連載期間は1968年から1972年まで、すなわち高度成長期の末期で、丸山真男のトラウマとなった東大闘争安田講堂占拠の年に開始し、ニクソン・ドルショック円高時代開始の翌年、第一次オイルショックの前年である、田中角栄『日本列島改造論』の年に終了しています。

 その後、日本経済は円高と原油高を激しい合理化コストダウンと洪水的輸出で強引に乗り切り、1980年代末期に株式不動産狂乱バブルに至ったあと、1990年以降は、バブル崩壊、コイズミ&タケナカイズム、グローバル化によって現在まで、国内経済が世界に比類ない沈滞下降の閉塞状態に陥り、政治経済と社会が劣化腐敗しています。
 『坂の上の雲』が示唆する坂の下の奈落が、アジア太平洋15年戦争とその帰結としての、大半の兵士の前線での餓死、国内の無惨な核兵器実験場化と、全土の被占領であり、新聞連載時期からするとバブル崩壊後40年にわたり継続進行深刻化しつつある国内の社会的崩壊であるということに言葉を呑みます。
 
 司馬遼太郎は20歳代で見合い結婚をして一子をもうけていたとのこと。没するまで隠されていたこの事実を取材した『噂の真相』平成10年の記事の内容をうかがい知ることができるネット記事がありました。
 
 https://ameblo.jp/koukuubokan/entry-10460214357.html
 “ 国民作家 " 司馬遼太郎の生涯 2010年02月16日

 この記事には『日露戦争:英国参謀本部機密文書集』の存在が紹介されており、列国の観戦武官が5、6名であったのに対し、イギリスが27名の武官を送り込んでいたことが牽かれています。
 児玉源太郎参謀次長が特別に英国武官のみに詳細な戦況説明をおこなっていたと。日露戦争がイギリスによる現地軍事指導のもとにすすめられていたことの証左、状況証拠ではないでしょうか。

 関さんのおっしゃるとおり、ペリー来航以降の日本の歴史はやがて根本的に書き替えられるでしょう。
 赤松小三郎の独創性と松平忠固の先進性が、いまは坂の上の雲にすぎない自立をめざして絶望的に苦しむアフリカの人びとを筆頭にして、世界で高く評価されるときが来ます。
               
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無題。 (遍照飛龍)
2020-09-19 20:49:50
大久保利謙の「冷徹な学者としての真摯さ」は、

ある意味での祖父の大久保利通の「政治家としての、冷徹な真摯さ」と通じると思います。

その「凍り付くような熱い知性」の継承こそが、大久保利謙が大事にしたところかもしれない気がします。


感傷的な意見ですけど。

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「戦後進歩史観」=「司馬史観」の起源について (renqing)
2020-09-21 01:31:28
ブログ主様、記事化ありがとうございます。

ご指摘、ご示唆をうけまして、標題の記事、および、
「近代日本の史家の生没年: 本に溺れたい」
http://renqing.cocolog-nifty.com/bookjunkie/2020/09/post-59f653.html
の二本の記事を弊ブログにポストすることができました。ありがとうございました。また、尾佐竹猛と大久保利謙のご教示をありがとうございます。事実につけば、そうなるはずです。また大久保利謙の見方は、弊ブログ記事「徳川文明の消尽の後に」を先行する研究とも言えるもので、教えて頂き助かります。

また、睡り葦様の弊投稿へのコメント部分、感謝いたします。内容が多岐にわたりますので、考えがまとまりましたら、弊ブログを通じ応答をさせて頂きます。

遍照飛龍様。今お持ちの大久保利通へのイメージは、まさに司馬遼太郎、他の作家、史家により造形されたものではないか、と若干懸念いたします。まずは、「維新英雄史観」を一度清算し、その「やったこと」(例えば、台湾出兵の大失態)そのものを見直す、ことから「維新再考」が可能となるように愚考します。大久保利通=無私の鉄人レーニン、という像は、司馬遼太郎の大好きな描写であったように思いますので。
返信する
司馬と丸山の誤謬の根源 ()
2020-09-21 20:10:37
睡り葦さま

 大変に啓発的なご論考、まことにありがとうございました。

>江戸後期にルソーが日本につたえられていたら、

 江戸期にルソーまでは翻訳されていなくても、近代西欧の立憲主義は、開港直後の文久年間から蕃書調所の加藤弘之などによって紹介され、知識人の間には広まっていましたので、ここは司馬の認識不足ですね。
 徳川公儀の側の立憲政体論、議会論をなかったことにして、真剣に研究しようとしなかった司馬の不勉強によるものとしか言いようがないかと思います。あるいは、うすうす気づいていても、あえて目をつむって勉強しなかった不作為ではないかとも思えます。
 だから司馬は、赤松小三郎を、幕府のスパイとして薩摩に入り込んで斬られた男程度にしか認識できず、最後まで無視し続けたのです。
 
>水戸一カ所だけにおいて朱子学幻想が純粋培養され、

 なんと司馬遼太郎は朱子学を水戸学に代表させて認識していたのですか! 私も『この国のかたち』は読んでいるので、これも過去に読んでいたはずなのですが、まったくこの記述の重要性に気づかず、読み飛ばしてしまっていたようです。
 確かに司馬にも丸山にも共通する誤りは朱子学に対する冷笑的態度ですね。しかも、司馬は朱子学を水戸学に代表させていたとするならば、朱子学に対して失礼な話です。二重に謝っています。(私も、これについては「と思います」ではなく、断定的に書きます)
 正統朱子学が昌平黌で、昌平黌朱子学は古代回帰の水戸学と違って、きわめて近代西欧とも整合的な方向に進化していました。この辺、奈良勝司著『明治維新と世界認識体系』に詳しいですが、朱子学からでも近代的立憲政体に至るコースは十分にあり得たはずです。
 水戸学がダメだったのは、朱子学がダメだったのではなく、水戸学に入り込んだ国学思想がダメだったことに他ならない。
 丸山は国学を評価するのだからお話になりません。あれほどに徹底的に間違った学者がなぜ評価され続けるのか、不思議です。結局、東大のシューレのトップにいたという学閥権威主義のなせる技かと思います。
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共通するものと違うもの ()
2020-09-21 20:13:58
遍照飛龍さま

>ある意味での祖父の大久保利通の「政治家としての、冷徹な真摯さ」と通じる

 冷徹な真摯さは、たしかに共通かも知れません。しかし孫の大久保利謙のリベラリズムは、祖父になかった感性です。
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江戸期の思想について蒙を啓いていただきありがとうございました。 ( 睡り葦 )
2020-09-22 21:29:18

 renqingさま、お言葉をいただきありがとうございます。人口動態の意義と、明治と昭和を繋ぐ大正時代の重要性に目を開きました。どうかよろしくお願いいたします。

 関さん、 江戸期の思想について無知であるために司馬遼太郎の一見衒学的な錯綜した論旨に騙されておりました。ご教示にありがとうございます。

 あわてて丸善hontoに注文しているご本がまだ着かず、YouTubeで拝見しただけで申しあげること恐縮いたしますが、関さんがご指摘しておられるように非常に大きかった江戸大奥の存在が持った、おそらく深い思想史的意義を正面から認識すべきなのではないでしょうか。
 
 renqingさまのサイトを拝見して関口すみ子という方を知りました。その方の2004年授与学位取得論文の内容要旨と審査要旨を見まして関さんの大奥観と呼応していることに驚きました。

http://gakui.dl.itc.u-tokyo.ac.jp/cgi-bin/gazo.cgi?no=118694
学位論文要旨 関口すみ子 政治変動とジェンダー :

 ・・・荻生徂徠が江戸期の広汎な女権支配に対する攻撃を開始したことに始まり、以降のむろん水戸を含む男権側の執拗な奮闘の結果、最終的に女権支配の暴力的解体に成功したのが明治維新であり、明治期以降は日本社会はとりわけて野卑な男権支配に取って替わったと、勝手に解釈しました。

 そうです。尊皇攘夷とは女権支配解体のスローガン、すなわち男尊女卑の錦の御旗であったと!

 制度化し葬式仏教化したと、まったく顧みられることのない江戸期の仏教に国学との対決を含む創意的な思想的営為があったことを明らかにしようとして、不遇不運なまま43歳でなくなった西村玲という近世仏教研究者がいることを最近知りました。
 とうてい咀嚼することはできないでしょうが、この方への敬意を込めて、のこされた二つの著作に意を決して取り組んでみるつもりです。
返信する
西村玲氏のこと (renqing)
2020-09-23 03:22:52
睡り葦 様
西村玲氏のご芳名を拝見しました。すぐ思い当たりましたのは、弊ブログ記事
「末木文美士『近世の仏教 華ひらく思想と文化』吉川弘文館2010年(後編)」(上記URL)
への、無署名コメント(2011年10月23日 (日) 12時13分)です。本ブログ主様には恐縮ですが、全文copy&pastさせて頂きます。下記。
「近世仏教が専門の思想史研究者です。仰る通りと思います。こうしたことを、従前より考えておりまして、今、始めているところです。
 通説の思想史はあまりに遅れており、書かれておられるように、「儒学が近代化」と丸山眞男のオウム返しをいまだ疑問無く言っている状況ですので、現実にはなかなかしんどいところですが。もう彼らが意味のある何かを社会に提出することは、ムリだと思っています。
 ともあれ、粛々と進めます。誰でも、普通に考えれば、同じことを思うのだ、と励まされて嬉しかったです。お礼まで。」
 2011年10月以降、上記と同一人物らしき方からのコメントは弊ブログにはありませんでした。研究成果は公表されたのかしらん?と思っていましたところ、睡り葦様のご教示で弊ブログへのコメントを卒然と思い起こした次第です。急いで検索し、下記の二つのネット記事を発見しました。

①「役に立たない学問」を学んでしまった人文系“ワープア博士”を救うには……? | 文春オンライン
https://bunshun.jp/articles/-/11484
②森 新之介 (Shin'nosuke MORI) - 研究ブログ - researchmap「西村玲氏と『西村玲遺稿拾遺』」
https://researchmap.jp/blogs/blog_entries/view/106576/f48e5d3d90117f1825116b6446c16d1a?frame_id=517354

です。とりわけ、②を読み、また弊ブログ記事中の「現実にはなかなかしんどいところです」
「励まされて嬉しかったです。お礼まで。」
との記述を改めて読み、おそらく上記のコメント主は、西村玲氏ではないか、との思いを強くしました。

 全共闘闘争終結後、真っ当な人間は大学から自ら出、あるいは追放され、残ったのはイエスマンばかり、とは仄聞してはおりました。その半世紀後においても、西村玲氏のように、学的能力、志操ともに優れた人物が日本の大学でtenureを得られず、自殺に追い込まれている。半世紀を越えて、「おまえは既に死んでいる」(byケンシロウ)状態の日本アカデミズムは、ゾンビ、Walking Deadと言うことなのでしょう。言葉を失います。
返信する
西村玲氏の業績 ()
2020-09-23 19:31:32
睡り葦さま、renqingさま

 関口すみ子氏の『御一新とジェンダー』は、renqingさんに教えていただき、早速買い求めて読んでおります。書中に丸山眞男は一切登場しませんが、丸山が「近代を準備していた思想家」と評価していた荻生徂徠の男尊女卑思想を痛烈に批判するなど、丸山への当て擦りでもあるようで、痛快です。なるほど、「近代化」とは男尊女卑を徹底することだったのか、と。また関口氏の著書については、当ブログでも書評を書きたいです。

 西村玲氏の紹介もありがとうございました。西村氏の研究、不明なことに、まったく知りませんでした。睡り葦さまの投稿から、renqingさんのブログへの投稿主が判明するとは数奇なことです。さっそく西村氏の著書を買い求め、襟を正して拝読させていただくようにします。
 本当に能力のある研究者が、その能力ゆえに学閥のボスたちに嫌われてtenureを得られない一方で、学閥のボスに媚びへつらった無能力者が平然とtenureを得るなどの例は、私もこの人生の中でイヤというほど目の当たりにし続けてきました。近代社会というが、日本の学会なんてほとんど中世のギルド徒弟制社会のようです。なんとかせねばなりません。
 西村氏は丸山眞男学派と対決しようとしていたのですね。残された者たちが、その遺志を継承して発展させていかねばなりません。謹んでご冥福をお祈りいたします。
 
返信する
西村玲さんを元気づけていただいてほんとうにありがとうございました。 ( 睡り葦 )
2020-09-23 22:07:06
 renqingさま、ご投稿時刻に驚きながら、西村玲さんがrenqingさまのすぐ近くに来ていたと、驚愕し息を呑みました。

 御記事掲載後1年1ヶ月後に西村玲さんが投稿をして、記事内容に励まされて嬉しかった、とrenqingさまにお礼を言われたとのこと、胸を突かれます。ほんとうにありがとうございました。

 関さん、なんと言いますかショックで、すみません、西村玲さんの書いた本を読む勇気がでません。関さんのずっとあとから、なんとか跡をたどるようにいたします。よろしくお願いいたします。

 多少なりと知っている範囲では、強いものに尻尾をうまく振って他をはばかりなく踏み台にすることは能力のひとつに数えられています。

 といいますか、事実上もっとも重要な能力とされています。真の才能、理知、心性の深さは、その能力の妨げとなりますし、尻尾の群れのなかで否応なく排除されてしまいます。古代以前の家父長制でしょうか。

 これを千数百年を経て男尊女卑を普遍化した近代として復活させたのが王制復古明治なのは間違いありません。関口すみ子氏の論調に触れて確信しました。関口すみ子氏の方を先に、関さんを追いかけます。

 西村玲さんがrenqingさま宛に、丸山真男という名前を挙げて、そして、彼らが・・・と言っていたのは、関さんによる議論と不思議な縁がありますね。数奇な?必然的な?

 花と言葉を手向けるサイトがあります。そこに西村玲さんと教養部の同級であったという方がメッセージを寄せられていて、西村玲さんはいつもおしゃれで、ツバの広い白い帽子で歩いていたのが印象的であったこと、そして、かすかな恋心を覚えたことがあったことを告白なさっていました。ほんのすこしですがホッとしました。

 関さん、男尊女卑かつ社会的家父長制の王政奴隷制が、むろん学界を含めて数世代?先には静かに葬られるようにいたしましょう。ねばり強くつづく関さんのご尽力に敬意を表します。
返信する
西村玲氏の書き置き (renqing)
2020-09-24 02:06:00
ブログ主様、睡り葦様

「数奇な」とは、まさにこのことなのでしょう。他所さまのブログのそれもコメント欄を介して、大事な言葉が(それと知れずに)託されていたことに気付くとは・・。この交流の場を提供して頂いているブログ主である関良基氏、西村玲氏へ導いて頂いた睡り葦氏、そしてこの「縁」を作ってくれていた故西村玲氏に感謝いたします。

素晴らしい知的貢献が、社会向けてあと何十年もできたはずの若く有為な方が「自死」を思い詰めてしまう社会。個人と社会、どちらが有責か。

個人が有責でないなら、社会が有責に決まっています。社会は変えられるのか。大丈夫です。変えられます。なぜなら、「ぼくらがそれをいま考えている」のだから、と熱烈な法華信徒・宮沢賢治は86年前に明言しています。『ポラーノの広場』1934年。下記参照。
「ぼくはきっとできるとおもう。なぜならぼくらがそれをいまかんがえているのだから(宮沢賢治): 本に溺れたい」http://renqing.cocolog-nifty.com/bookjunkie/2013/12/post-6314.html
また、「不正なる統治者の不正な統治に有効に対抗するために必要なものは『力 force』ではなく、実は、被治者の代替的な『意見 opinion』なのである」とは約300年前のDavid Humeの言です。
「David Hume からの問い: 本に溺れたい」
http://renqing.cocolog-nifty.com/bookjunkie/2013/03/david-hume-40b0.html
他者と提携、合力しつつ、自分のできることをやり続けてみる、ということなのだと思います。
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