薩長公英陰謀論者さんから、年頭に以下のようなコメントをいただきました。私が以前投稿した「中間層が溶けると全体主義にいたる」という記事に対するコメントとして投稿されたものです。一部紹介させていただきます。
***以下引用***
公選代議制度の実質的消滅によって目の前にあらわれた「予防的反革命としての寡頭専制」= 仮面のファシズムによる産軍核複合主導体制において、これから露呈するその内外の「不安定要素」について
(薩長公営陰謀論者) 2014-12-31 23:33:04
http://blog.goo.ne.jp/reforestation/e/4b98f6fb4fed2e2fa49b42bd2a133a41
(前略)
さて・・・はるか昔の在米時代に、Bertram Gross という米国の政治学者の『 Friendly Fascism : The New Face of Power in America ; M. Evans, 1980 』という著作を読みました。同書の和訳である吉野壯児・鈴木健次訳による『笑顔のファシズム』(日本放送出版協会、昭和59年)によりますと、序章において著者は、本書を米国政府の政策に関与したことへの自省をこめた「(アメリカの)民主主義を、新しいかたちの独裁政治に変えてしまいかねない巧妙なやり口を摘発する書」であるとし、それと同時に「アメリカには、これまでになかった正真正銘の民主主義の成立する可能性がある」と主張する、きわめて印象深い本です。
同訳書の「訳者あとがき」には、1982年に出版されたペーパーバック版の序文で著者が「フレンドリー・ファシズムの足並みは、レーガン政権の出現とともにいよいよその速度を速めた」と指摘する一方で、「反戦運動の高まり、および原子力産業の成長を阻止している反核勢力や環境保護運動、労働組合と市民団体、老人団体などの幅広い連携、それに体制内から呼応する公務員の増加」など希望につながる傾向にも熱っぽく言及している、と記されています。
レーガン政権によって登場したアメリカのネオリベラリズムが新しいかたちのファシズムをはらんでいることを当時のアメリカにおいて敏感にアピールした政治学者が存在したわけです。関さん、当方なりのいささかの体験と見聞にもとづいて「ネオリベラリズム(新自由主義)とは、市場原理主義による(貨幣)資本のグローバルな政治経済社会的な専制の確立の動きである」という渡辺治氏によるデヴィッド・ハーヴェイの仮説のとりまとめに同意せざるを得ません(渡辺治監訳、デヴィッド・ハーヴェイ『新自由主義 その歴史的展開と現在』作品社、2007年、原著は2005年;p291ー295)。
じつはこれは、かって大手証券会社のチーフ・エコノミストであった水野和夫氏が『人々はなぜグローバル経済の本質を見誤るのか』(日本経済新聞社、2007年)において、グローバリゼーションを「資本の反革命」としたことに見事に対応していると思います。
本ウェブログ記事を念頭において『フレンドリー・ファシズム』に戻りますと、著者 Bertram Gross は、第12章「情報と人心の操作」のなかで、学生たちが一様に受動的になることを強いられていることを指摘し、「アメリカで企業中心の新しい権威主義が台頭するためには、最下層の学生がさらに増加したり、社会全体の構造がもっと際立って階層化される必要がある」「教師は学生をなだめているうちに、自分たち自身がすっかり受動的になってしまっている」(同訳書;下巻p182)と言っています。この教師・学者についての指摘は、関先生にはまったくあてはまりませんが、その学生さんたちとそう離れてはいなかった年代の自分が身を置いていた1980年前後のアメリカにおいてそうであったことが、いま日本に「澎湃として」起こっていることに心がひどく痛みます。
さらにこの『フレンドリー・ファシズム』で著者ははこのように述べています。権力と富の集中によって「・・・学者、芸術家、テクノクラートといった広範な人々が私利を求める追随者の群れを形成する・・・彼らは搾取的な富と権力の集積を加速し、それを正当化するためになおいっそう協力する・・・」と(前同p211)。モンテスキューの「民主政治における国民の無関心は、寡頭政治における貴族の専横より、公共の福祉にとって危険である」という言葉を牽き、つづけて「しらけた<無関心派>は、意識してそうなったというよりは、準少数独裁制、もしくは少数独裁制のもたらした副産物である」と指摘しています(前同p277)。本記事を拝見して、そこで見つめられているものと、バートラム・グロスの語ったものとの一致に固唾をのみました。
(後略)
***引用終わり***
バートラム・グロスの『フレンドリー・ファシズム』の紹介まことにありがとうございました。浅学にして読んでおりませんでしたが、紹介していただいた部分のみでも、その慧眼に驚かされます。
>アメリカで企業中心の新しい権威主義が台頭するためには、最下層の学生がさらに増加したり、社会全体の構造がもっと際立って階層化される必要がある
私の周囲を見ても、授業料の支払いにも困ってブラックバイトに追われている学生たちほど、日々の生活で精一杯で、考える余裕すらないという冷酷な現実があります。また、政治のことを考えないようにすることが、自己防衛の手段だと思っている様子もあります。「『左翼だと思われるから、大学で政治の話だけはするな』と親から言われ、絶対にしないようにしてきた」とか……。それじゃ、投票にも行かなくなるわけです。
自発的にB層になるのを選択することが、自己防衛手段になっています。私は、何とかC層を育てたいと思っています。もちろんC層化する学生もいますが、「擬似A層」になるか「B層」になる方が多いのが現実なのではないでしょうか。
「擬似A層」というのは、私の勝手な造語です。「一流企業に就職するためには日経新聞を読め!」なんて周囲から言われて、一生懸命に日経新聞やビジネス誌を読んだりしているうちに、自分の妄想の中で「勝ち組」になったような気になっていく人々です(実際にはなかなかなれないのですが)。「妄想勝ち組」化すると、「日本が生き残るためにはTPPしかない!」とか、「強い者が生き残るのが市場原理だ!」なんて平気で言うようになっていきます。こうした層に対しては、「本当のエリートは、決して弱者に対する配慮を忘れないものだ」と諭すのですが、なかなか・・・。文科省の「グローバル人材育成」の教育方針は、基本的に学生を疑似A層化させることを目的としているといってよいでしょう。
新古典派経済学で洗脳されていくと、気づかないうちに、本当に冷酷な人間になっていきます。大学の経済学部が新古典派経済学での洗脳教育をしてしまっている絶望的な状況がありますから・・・・・。新古典派経済学こそ「フレンドリー・ファシズム」を生み出す根本的原因かも知れません。
ちなみに、私の括りの中で、「C層」とは真正保守と左派・リベラルの双方を含みます。市場原理主義・新自由主義を批判し、かつ人種差別をしない人々すべてです。
B層ネトウヨに対しては、とにかく真正保守になるように指導します。真正保守は、決して人種差別をしない、日本の品格を汚すようなヘイト・スピーチを垂れ流さなない。「保守なら日本を貶めるな、恥を知れ!」と。
>教師は学生をなだめているうちに、自分たち自身がすっかり受動的になってしまっている
>学者、芸術家、テクノクラートといった広範な人々が私利を求める追随者の群れを形成する・・・彼らは搾取的な富と権力の集積を加速し、それを正当化するためになおいっそう協力する・・・
これも言えます。大卒で正社員になれるか/なれないかが、その後の人生を決めてしまうという不条理な日本社会です。現場の教員としても、とりあえず頑張って何とか正社員になるようにと指導することしかできないわけです。そのうち教員も不条理な構造に対して受動的になってしまい、「世の中の矛盾に気づかせる」という教育をすることはできなくなってしまいます。
自分のゼミの学生を少しでも良いところに就職させたいと思えば、支配層と癒着して、彼らの利権のおこぼれにすがろうとするような、あさましい行動もとってしまうようになります。官僚の方針に迎合しながら、政府の審議会に入って、それにお墨付きを与える儀式に参加することを何よりの名誉と考えるようになるのです。
大学教員になって思ったことは、「高校教員よりよっぽど大変かも・・・」ということでした。大学受験に失敗して自殺する高校生なんてめったにいません。しかし就活がうまくいかない大学生たちは、精神的に不安定になって、鬱にもなっていき、自殺に追い込まれかねない状況に陥ってしまいます。学生たちと真剣に向き合おうとすると、大学教員が受けるストレスも大変なものです。自分の本来の研究どころではなくなっていきます。
PS
A層、B層、C層、D層という言葉が分からない方は以下の図を参照ください。2005年の郵政解散総選挙の際、小泉政権が郵政民営化を進めるための戦略の作成を広告会社に依頼して作成した企画書「郵政民営化・合意形成コミュニケーション戦略」の中にある下の図が出所です。
たんさいぼう影の会長さま:
影の会長さま、丁寧であたたかいお言葉をありがたく思います。ふと、学生時代にジョン・デューイの本を好きになって読んだことを思い出しました。いわゆるプラグマティズムのイメージとはかけ離れていたような・・・。
じつは、教科書とは無縁の「創発性」というのが「生産性」に置き換わらないかということが、現在のもっとも大きな関心なのです。あのドラッカー風に言えば「効率ではなく効果」ということでしょうか。
もちろん、企業のトップからミドルまでのおじさんたちによる生産性(という言葉)の物神化というのはおそろしいほどです。これが日本をくるわせてきたのかもしれません。
物的な生産性がいまはすでに資本的な生産性(資本効率=ROE)となって世の中を席巻しています。
ブラックバイトであろうがTPPであろうがそうなのでは。
これに対しては哲学的批判が深く執拗になされなければならないと思います。影の会長さまのご活躍を祈っています。
私の専門の生物学とは何の関係もない、最近学び始めた教育哲学を基礎にした底が浅い意見を、しっかり受け止めていただき、さらにご自分が既に身につけられているものと照合して深めていただき、ありがとうございます。
「自立とは依存することだ」私がくどくど書いたことを、一言でほぼ言い表していますよね。おかげさまで、私の方も自らの認識を深めることができました。ありがとうございます。そしてこの言葉が、私の書いたものを読んでいただくことで薩長公英陰謀論者様の腑に落ちたのだとすれば、光栄の至りです。
こうして意見や情報をやり取りする中で、個々の総和以上のものが立ち現れてくる。こうした「創発性」が、このブログのタイトルにある「弁証法」の醍醐味ですね。管理人の関さんに感謝!
たんさいぼう影の会長どの:
「生きる意味はみずからが構成するものであり、そうではない『意味』は意味ではない。そうではない『生』は生ではない」という、真に迫った魅力的な命題をごく若いときに知っていればと思ってしまいます。心から感謝します。肝に銘じて生き、より若い人たちにつたえるようにいたします。
フクシマ以来、絶望的な気持ちが基調となっておりましたが、そのような状況においての「生きる意味」は、まさにつくり出さなければならないのだ、ということがようやく腑に落ち、正直申しまして、救われました。ありがとうございます。それなのに「成長/発達のペースがしっかりしている」と言っていただいて、頬から火の出る思いです。
生命体の活動を研究なさっているとお聞きしたことが強く記憶にあって、なにげなくお名前が口に出てしまったのですが、ご自分が生きてこられたダイナミズムに生き生きと根ざしたまことに勁いご応答をいただいて、感動しております。
いささかエキセントリックな「経済学者」で安冨歩という多弁でおもしろい人がいますが、自殺衝動に駆られつづけた生きざまを踏み台にして書かれた『生きる技法』(青灯社、2011年)という本があります。そこに掲げられた主命題は「自立とは依存することだ」であり、その派生命題のひとつに「従属とは依存できないことだ」というのがあります。
おそらく表面的といいますかファンクショナルな理解をしてやりすごしていたことが、影の会長さまの発達/成長のダイナミズムの表白によって一気に腑に落ちました。まことに幸運に思います。
特定の社会的関係によって自分のことを最初から了解してくれている人とのもの以外の「自己開示と対話」をおぼつかなくこころみるのは、いくつかの理由で、関さんのこのウェブログ・コメントに限っております。今後ともそうであろうと思います。引きつづきどうかよろしくお願いいたします。
私も年齢の割に本当に未熟者で、周りの人たちには「人の議論ばかり引用するな」「自分の言葉で語れ」などと言われているのですが、一つだけ自信を持って言えることがあるとすれば、
「生きる意味は自ら構成する」
ということです。
もちろん、私たちの価値観は、何某かの遺伝的影響と、生まれてこの方の社会的環境、そして現在の社会関係に大きく依存しています。しかし、こうした構造の虜であるといういう現状認識だけでは、いずれ二進も三進もいかなくなることもあるでしょう。
自らの成長そして集団の発達を志向して、他者から学び、自ら意見表明をてし、コミュニケーションに基づく学びを創りだしていく。そうして得たものを自らが構成してきた認識の中に投げ込んで再構成を行い、さらに自らの「生きる意味」を深めていく。
このように考えると、薩長公英陰謀論者様は(私よりよほど)成長/発達のベースがしっかりしているようにお見受けします。生きる意味は既に自らの中にある。そしてよく分からなくなったときには、他者から見える自分について聞いてみることで、きっと「見えていなかった自分」が見えてきます。そのためにも自己開示と対話が重要なのです。
すばらしい記事ありがとうございました。私のリプライとあわせて新記事としてアップさせていただきました。
上の投稿中のアルファベットを取り違えておりました。「Y売・・」と来れば「C」かと反射的に。本記事のタイトルにある「B層」に訂正をさせてください。
なるほど、世の中「AとB」の世界なのですね。無知を反省し、大急ぎでお詫びします。
関良基さま:
関さん、この1月6日の「日刊ゲンダイ」に、「警察庁の統計によると、2013年度までの7年間で大学生の就活自殺者は218人に上る。年間に約30人だが、専門家によると、実際は数倍の規模になりそうという・・・」という記事があることを知りました。大手企業の内定を得ることができず、自分には非正規雇用しかないのかと絶望的になったり、中小企業に受け入れてもらえても大手から内定をもらった同級生と自分を比較して鬱になったり・・・ということだそうです(http://www.nikkan-gendai.com/articles/view/newsx/156172)。
「就活自殺」という耳慣れない言葉に、気が遠くなるような現在の若者たちの現実の無惨さに気づかされて自分の能天気さを恥じています。生きるということは何なのだろうと思い、語るべき言葉がないような・・・しかし気を取り直して若干弁じますと:
日経新聞を見ると世の中はまるで大企業と中央官庁のみでできていると錯覚しますが、以前と比べると職業・生業の、即ち生きることの自由の幅が極端に狭められたように思えます。これは「疑似A層」がむりやり生まれるゆえんでしょうか。
現在はジャーナリストや学者が知的な自由を失って批判精神を捨て、一斉に同じことをお約束として言うようになっていますね。
世の中全体が、実質的に言論と思想の自由がない企業の内部のようになって、同時に企業のマネジメント・管理職がすっかり官僚化したように思います。これは日本の産業が光を失ったことと表裏一体なのでしょう。
さらに、官僚の本家、官庁の方では、公共性を投げ捨てて考え方がすっかり営利企業のようになっていますから・・・世の中は総「企業官僚化」した時代なのだと思います。
保守主義者であり、反TPP論者であるという中野剛志氏は著書『官僚の反逆』(幻冬舎新書、2012年)において官僚制と新自由主義とが共通の基盤を持つことを指摘示唆していますが、その根底には「市場の官僚制化」があると論じています。ありふれた言い方をしますと、これは「金融支配の経済社会になった」ということだと思います。
ひと頃「市場が判断する」「市場にゆだねる」という言い方が「お約束」になっていましたが、ここでいう市場とは究極的には金融取引市場、ありていに言って「株価」のことでした。市場の自由とは、株式売買の自由のことで、それ以外の市場では強者の独占と支配が効率追求のよき結果としてむしろ称揚されていたわけです。
株式売買の市場こそが、新古典派経済学が想定する「市場の理想的形態」で、そこでは、のっぱらぼうの「かおなし」である合理的経済人が完全に機能しているわけです。そこから関さんの言われる「本当に冷酷な人間」が無限に生み出されるということになります。
じつはきのう考えておりましたのは、この新自由主義、そしてそこから生まれる、人間を無個性化し隷属的支配を行うファシズム、この双方に対して「マネジメント」という看板を掲げて対峙したのが、『もしドラ』ブームで若い人たちに知られるようになったピーター・ドラッカーであること、そのドラッカーの「反・新自由主義的」経営論と、孔子の考えを対比して結びつけたのが安冨歩氏の『ドラッカーと論語』(東洋経済新報社、2014年)であり、2009年の『もしドラ』ブームを意識せずにドラッカーや孔子を含めて経営と経済を論じた、安冨歩『経済学の船出 創発の海へ』(NTT出版、2010年)であることです。
「日経派A層知識人」にとっての基本的語彙であるはずの「真摯さとしてのインテグリティ」、「暗黙知の形式知化」、「目標管理」、「生産性効率の追求」といったものが、ラディカルに、しかし「マネジメント(企業経営)」をポジティブに追求する立場で批判されています。
また、ドラッカーを「たたき台」として、マーケティングや市場とのコミュニケーション、イノベーションといった経営の定番的問題についての非常にユニークなアプローチがなされています。
安冨氏によるこの議論が、「日経派疑似A層」ならびに「読売・産経派C層」に自分のアタマで「理」を考えること、そして「利」と「力」に対する「仁」と「義」に就くこと・・・に導く役割を果たす可能性があるのではないかと考えました。
ただし、上掲の内容はにわかには本ウェブログになじまないように思いますので、差し出がましくブリーフィングをこころみるのは控えます。
それにしても・・・その長州的な「冷酷で執拗で、しかして、表層的、機械論的な合理主義」に見えるものは、ネオリベラリズムと通底しているのでしょうか。たぶんそうでしょうね。
おなじ「長」で始まる長崎とは大きく異なるようであるのを興味深く思います。