来年2017年度は大政奉還150周年。京都市がそれを記念して大政奉還150周年プロジェクトを始動させています。その公式サイトができているのですが、なんと冒頭のトップページから赤松小三郎の写真が掲載されていました(涙)。ようやく赤松小三郎の存在は無視されずに、歴史に位置づけられるようになってきたのです。
ホームページは以下です。
http://www.taiseihokan150.jp/
このHPの冒頭のページが二条城のバックに維新の群像を配置した、この写真。掲載されている人物は上段左から、赤松小三郎、岩倉具視、徳川慶喜、松平容保、近藤勇、下段に移って、高杉晋作、松平春嶽、坂本龍馬、西郷隆盛、松平定敬の10名。これら、そうそうたるメンバーの中に、一人だけ、ほとんど一般には知られていないであろう赤松小三郎を入れてくれたことに、ネットの片隅で赤松小三郎復権運動に取り組んできた私は、言いようのない感動を覚えました。京都市に感謝を申し上げます。
さて、幕末維新の群像として、目下ところ大政奉還150周年の同ホームページには33名の人物が紹介されています(人物は、これからさらに増えていくのでしょうか)。
赤松小三郎、山本覚馬といった従来は正当な評価を受けてこなかった人物も掲載され、その業績が紹介されています。実際、赤松小三郎や山本覚馬は、知られていないだけで、大政奉還の裏側で、その実現に向けて影で相当な尽力をしていて、彼らの役割は大きかったと思います。調べれば調べるほどその事実はわかってきます。
さて、ここで顕彰されている33人の中で、私も知らなかった人物が、桑名藩の「珠光院貞姫」。桑名の藩論を恭順に持っていき、桑名を戦火から守った姫ということです。桑名城主・松平定敬の義母で、なんでも松代藩主で老中も務めた真田幸貫の孫ということでした。真田家の関係者にこんな人もいたとは、知らなかった・・・・。
ホームページは以下です。
http://www.taiseihokan150.jp/
このHPの冒頭のページが二条城のバックに維新の群像を配置した、この写真。掲載されている人物は上段左から、赤松小三郎、岩倉具視、徳川慶喜、松平容保、近藤勇、下段に移って、高杉晋作、松平春嶽、坂本龍馬、西郷隆盛、松平定敬の10名。これら、そうそうたるメンバーの中に、一人だけ、ほとんど一般には知られていないであろう赤松小三郎を入れてくれたことに、ネットの片隅で赤松小三郎復権運動に取り組んできた私は、言いようのない感動を覚えました。京都市に感謝を申し上げます。
さて、幕末維新の群像として、目下ところ大政奉還150周年の同ホームページには33名の人物が紹介されています(人物は、これからさらに増えていくのでしょうか)。
赤松小三郎、山本覚馬といった従来は正当な評価を受けてこなかった人物も掲載され、その業績が紹介されています。実際、赤松小三郎や山本覚馬は、知られていないだけで、大政奉還の裏側で、その実現に向けて影で相当な尽力をしていて、彼らの役割は大きかったと思います。調べれば調べるほどその事実はわかってきます。
さて、ここで顕彰されている33人の中で、私も知らなかった人物が、桑名藩の「珠光院貞姫」。桑名の藩論を恭順に持っていき、桑名を戦火から守った姫ということです。桑名城主・松平定敬の義母で、なんでも松代藩主で老中も務めた真田幸貫の孫ということでした。真田家の関係者にこんな人もいたとは、知らなかった・・・・。
すなわち明治維新とは、国民国家統合を準備する平和的革命の開始を陰謀によって転覆した「暴力反革命」であり、連続的な発展によって民主的進歩的政体をつくりあげようとする動きを、アメリカ独立革命とフランス革命を敵視する英国保守派(名誉革命派)をバックにして英国製最新鋭銃砲の威力によって断ち切った、反動的権力奪取であったわけです。
おそらく日本史にとっての悲劇は、政治的民主化の背景にあるべき(つまり「基礎構造・下部構造」の形成者としての)市場的経済をになう商人層が目先の利益のために民衆と連合せず、また不良債権の発生源であった領主層を嫌って、「反民衆・反領主」の長薩クーデター側に擦り寄り資金を提供したことでしょう。
さらにまた、より反動的な寄生地主層が民衆敵視を前面に出して、政治的一揆によるデモを「ええじゃないか」謀略でつぶし、民衆と切りはなれたごく一部の「エリート」によるネゴシエーション・策動によって世の中が動かされるという「少数者による歴史形成」というイデオロギーが確立されたことであると思います。
明治維新後、日本は近代的(民主的)市場経済を形成するどころか、企業への主たる出資者となった寄生地主の世界観にもとづく抑圧的で父権主義的な軍国主義社会を形成し、朝鮮、中国、東南アジア侵略によって帝国主義覇権をめざした結果、おそろしい数の内外民衆を殺戮して自滅しました。
おそれおおいことながら、青山忠正先生の表現について申しますと、慶喜を大政奉還に導いた「内戦の回避」とは、アヘン戦争以降の中国を見ての判断による、そして長州征伐と下関戦争によって見て取った「長薩は英国の出先であり、長薩の武力に日本を二分して対抗することは日本を列強の争いの場にすることになる」という認識であったろうと想像します。
また江戸時代は「幕府独裁制」と言うべきではなく、自治国としての各家の領国(後代に天皇の藩屏としての「藩」と呼ばれた)の連合体であり、中央政府である公儀は、譜代及び外様大名による交替制であり、徳川将軍が王として絶対主義的権力を持っていたわけではないと思います。
田沼時代以降、市場経済が公然と発達し、天保の改革以降はマニュファクチュア(工場制手工業)が全国的に拡がっていたと、受験参考書で読んだことをおぼえています。
それゆえに全国的市場の形成が強く求められるような動きになっており、公儀の国内外取引に対する政策と政策思想は、市場化・民主化に対してむしろ寛容で開明的なものであったのではないでしょうか。
そこで、歴史上の仮定として言いますと、もし長州と薩摩における民衆の市場経済要求による「一揆」(政治デモ)を組織し発展させることができる「思想」があり、彼らの足もとを突き崩すことができたなら、
また、民衆が政治不信による無気力に陥らず、中小商人層と中下層武士層と連合して、のちに財閥となる大商人層と寄生地主層を包囲する「思想」が生まれておれば、
英国をたのみにする明治維新はなかった、あるいはその明治維新という反革命を覆すことができたであろうと想像します。
当時の英国はドイツとアメリカの産業革命後の発展に追い上げられており、日本のような、植民地とはなっていない発展途上の国の中に直接に手を突っ込むことはしなかったであろうと思われますから。
じつは、これを現在にあてはめて(むしろ現在を見ながら)おなじとこと異なるところは・・・、と考えています。
この認識を、国民の過半数が持つようになったとき、安倍的な長州政治には終わりの鐘がなると思います。
大政奉還の次に直ちにやるべきことは、諸侯会議が内閣を組織し(慶喜も入閣)、上下両院の議会を招集すべきことでした。
しかし、それを目指していた人々は次々に暗殺され、あげく王政復古クーデターでその動きを葬ってしまうわけです。安倍政権は、その手法を、そのまま受け継いでいるようです。