明後日は憲法記念日。今夏の参院選で憲法改正が争点になることもあり、今年の憲法記念日は例年とは違った意味を持つ。私は必ずしも改憲に反対はしない。しかし、国家が国民を律し、国民を縛ろうとする内容の、立憲主義のイロハもまるで分かっていない、長州史観丸出しの自民党改憲案には大反対である。
前回の記事で紹介した大政奉還150周年プロジェクト。赤松小三郎や山本覚馬が紹介されていることが注目される。以下のページ。
http://www.taiseihokan150.jp/person/
日本における立憲主義の原点は、慶応年間に上田藩の赤松小三郎や会津藩の山本覚馬などが描いた議会政治構想にあると私は考えている。薩長のクーデターがなければ、GHQに押し付けられるまでもなく、明治の初年から近代的立憲主義が確立していただろう。それを潰したのが長州であるから、長州閥の安倍首相が立憲主義を憎むのも当然なのだろう。
さて、赤松小三郎の構想はこのブログですでに紹介してきので、今回は憲法記念日にちなんで山本覚馬の「管見」を紹介したい。
京都市の大政奉還150周年プロジェクトの山本覚馬の紹介文には以下のようにある。
「『管見』は、三権分立、郡県制への移行、学制、女子教育など、国の進むべき方向性を見据えた先見性に富み・・・」と。
山本覚馬という会津松平家臣は、2013年度の大河ドラマ「八重の桜」の主役であった新島八重の兄であり、準主役として描かれた。ドラマの中でも、鳥羽伏見の戦いが始まって薩摩に捕らえられた山本覚馬が、失明の不幸の中、獄中で書き上げた意見書「管見」が登場した。かくいう私も、「八重の桜」をきっかけに、「管見」を読み、目から鱗が落ちた人間の一人であった。
奇しくも、覚馬が「管見」を書いた薩摩邸は、かつて盟友の赤松小三郎が近代的国民軍の兵制の確立を目指して東郷平八郎らを教育した場所であり、さらに後には義弟の新島襄が同志社大学を開く場所であった。
日本でいちばん最初に三権分立を提唱したのは山本覚馬の「管見」かも知れない。日本で最初に議会制民主主義を唱えた建白書といえる赤松小三郎の「御改正口上書」でも、立法権と行政権の二権の権力分立は唱えられているが、司法に関しては何も述べられていない。それに対し、山本覚馬は不十分性は残るものの、確かに三権分立を唱えている。
「管見」の統治機構論は以下のようなものである。まず王政復古されたからには、「国民一致王室奉戴」としているが、「臣下ニ権ヲ分カツヲ善トス」と述べる。すなわち君主制を採用しつつも、天皇は国民に対しても主権を分かつのが善であると述べ、王権を制限しようとしている。
ついで「臣下ノ内議事者ハ事ヲ出スノ権ナク、事ヲ出ス者ハ背法者罪スルノ権ナク、其三ツノ中ニ権壱人ニ依ル事ナキヲ善トス」と述べる。
難解な表現であるが、まだ近代政治にかんする訳語が定まっていない段階で、非常に含蓄のある表現を用いている。
「議事者」とは立法府を指し、「事ヲ出ス者」とは行政府を指し、「背法者ヲ罪スル」とは司法を指すのだ。すなわち立法府に行政権はなく、行政府には司法権がないことを述べている。さらに「その三権の権力は一人に集中することがないのが良い」と述べる。これは不十分な表現ではあるが、立法・行政・司法の三権が分立する必要を説いたものである。
立法府については、大小の議事院を設立し(上院と下院を指す)、その議員として、大院は主に諸侯から選出する。小院の議員については「文明政事開ニ従テ四民ヨリ出ベシ 然レドモ方今人材非士ハナシ 故ニ王臣又ハ藩士ヨリ出ベシ(文明開化が進めばすべての国民から議員を選出すべきであるが、現在は庶民に人材が育っていないため、当面、議員は公家か藩士に限定すべき)」としている。
小三郎と覚馬の建白書を比べて、もっとも大きな相違点は、下院議員の被選挙権にあった。小三郎は「門閥貴賤を問わず」全人民に被選挙権を付与すべきと説いているのに対し、覚馬は下院議員を教育が十分にいきわたらない段階にあっては「王臣ないし藩士」に限定せざるを得ないと考えていたのである。
「管見」は統治機構論として三権分立や議会政治の導入を説いた先進性もさることながら、産業振興政策と近代化政策の個別の提案が充実している点に最大の特色がある。
覚馬はたんに提案するのみならず、明治になって京都府顧問として、さらには初代京都府議会議長に就任し、その構想を着実に実行に移していったのだ。
覚馬の議会政治、学校建設、殖産興業、通貨改革、肉食の奨励などの提言は小三郎の「御改正口上書」と重なっている。しかし、提言の幅は小三郎よりも広い。太陽暦への転換、長子相続から均分相続への転換、女子教育の振興などの近代化政策から、製鉄業、醸造業の振興など個別の産業振興政策に至るまで合計23項目にわたる広範囲かつ具体的な提案がなされている。
前回の記事で紹介した大政奉還150周年プロジェクト。赤松小三郎や山本覚馬が紹介されていることが注目される。以下のページ。
http://www.taiseihokan150.jp/person/
日本における立憲主義の原点は、慶応年間に上田藩の赤松小三郎や会津藩の山本覚馬などが描いた議会政治構想にあると私は考えている。薩長のクーデターがなければ、GHQに押し付けられるまでもなく、明治の初年から近代的立憲主義が確立していただろう。それを潰したのが長州であるから、長州閥の安倍首相が立憲主義を憎むのも当然なのだろう。
さて、赤松小三郎の構想はこのブログですでに紹介してきので、今回は憲法記念日にちなんで山本覚馬の「管見」を紹介したい。
京都市の大政奉還150周年プロジェクトの山本覚馬の紹介文には以下のようにある。
「『管見』は、三権分立、郡県制への移行、学制、女子教育など、国の進むべき方向性を見据えた先見性に富み・・・」と。
山本覚馬という会津松平家臣は、2013年度の大河ドラマ「八重の桜」の主役であった新島八重の兄であり、準主役として描かれた。ドラマの中でも、鳥羽伏見の戦いが始まって薩摩に捕らえられた山本覚馬が、失明の不幸の中、獄中で書き上げた意見書「管見」が登場した。かくいう私も、「八重の桜」をきっかけに、「管見」を読み、目から鱗が落ちた人間の一人であった。
奇しくも、覚馬が「管見」を書いた薩摩邸は、かつて盟友の赤松小三郎が近代的国民軍の兵制の確立を目指して東郷平八郎らを教育した場所であり、さらに後には義弟の新島襄が同志社大学を開く場所であった。
日本でいちばん最初に三権分立を提唱したのは山本覚馬の「管見」かも知れない。日本で最初に議会制民主主義を唱えた建白書といえる赤松小三郎の「御改正口上書」でも、立法権と行政権の二権の権力分立は唱えられているが、司法に関しては何も述べられていない。それに対し、山本覚馬は不十分性は残るものの、確かに三権分立を唱えている。
「管見」の統治機構論は以下のようなものである。まず王政復古されたからには、「国民一致王室奉戴」としているが、「臣下ニ権ヲ分カツヲ善トス」と述べる。すなわち君主制を採用しつつも、天皇は国民に対しても主権を分かつのが善であると述べ、王権を制限しようとしている。
ついで「臣下ノ内議事者ハ事ヲ出スノ権ナク、事ヲ出ス者ハ背法者罪スルノ権ナク、其三ツノ中ニ権壱人ニ依ル事ナキヲ善トス」と述べる。
難解な表現であるが、まだ近代政治にかんする訳語が定まっていない段階で、非常に含蓄のある表現を用いている。
「議事者」とは立法府を指し、「事ヲ出ス者」とは行政府を指し、「背法者ヲ罪スル」とは司法を指すのだ。すなわち立法府に行政権はなく、行政府には司法権がないことを述べている。さらに「その三権の権力は一人に集中することがないのが良い」と述べる。これは不十分な表現ではあるが、立法・行政・司法の三権が分立する必要を説いたものである。
立法府については、大小の議事院を設立し(上院と下院を指す)、その議員として、大院は主に諸侯から選出する。小院の議員については「文明政事開ニ従テ四民ヨリ出ベシ 然レドモ方今人材非士ハナシ 故ニ王臣又ハ藩士ヨリ出ベシ(文明開化が進めばすべての国民から議員を選出すべきであるが、現在は庶民に人材が育っていないため、当面、議員は公家か藩士に限定すべき)」としている。
小三郎と覚馬の建白書を比べて、もっとも大きな相違点は、下院議員の被選挙権にあった。小三郎は「門閥貴賤を問わず」全人民に被選挙権を付与すべきと説いているのに対し、覚馬は下院議員を教育が十分にいきわたらない段階にあっては「王臣ないし藩士」に限定せざるを得ないと考えていたのである。
「管見」は統治機構論として三権分立や議会政治の導入を説いた先進性もさることながら、産業振興政策と近代化政策の個別の提案が充実している点に最大の特色がある。
覚馬はたんに提案するのみならず、明治になって京都府顧問として、さらには初代京都府議会議長に就任し、その構想を着実に実行に移していったのだ。
覚馬の議会政治、学校建設、殖産興業、通貨改革、肉食の奨励などの提言は小三郎の「御改正口上書」と重なっている。しかし、提言の幅は小三郎よりも広い。太陽暦への転換、長子相続から均分相続への転換、女子教育の振興などの近代化政策から、製鉄業、醸造業の振興など個別の産業振興政策に至るまで合計23項目にわたる広範囲かつ具体的な提案がなされている。