前の記事「立場ごとにそれぞれの歴史がある」のコメント欄のcruさんとのやりとりで、左翼の「唯物史観」も、日本の「つくる会」および韓国の国定教科書に共通する「国家の視点で都合よく歴史を解釈しましょう史観(?)」も「両方ダメだ」という議論をしました。各国がそれぞれ「独善的国家中心主義的歴史観」を正当化し始めると、戦争の原因になります。それだけは避けねばなりません。ここで「じゃあオマエの歴史観はいったいどんなものなのだ!」と言われそうなので、これを機に若干述べておきたいと思います。
唯物史観は、歴史における「個人」の役割を否定した歴史法則主義に陥って、歴史の勉強をつまらなくしてしまいました。その反動が「つくる会史観」を生み出したという側面は濃厚にあると思います。
私が大学に入りたての頃、周囲にはマルクス主義者がたくさんいました。「資本主義が社会主義になるのは歴史の必然だ」と言われ、「<必然>なら運動なんかやらずとも寝て待ってりゃあいいじゃん」と不満に思ったものです。
私は実際の歴史において創造的な諸個人が果たす役割というものは非常に大きいと思っています。また私は、歴史は多分に偶然性にも左右されるので、法則性なんかないし、要素還元主義的なディシプリンで統一的に解釈可能なほど単純なものではないと思っています。その点で「歴史は科学ではない」という「つくる会」的な主張には同意します(まあ科学の定義にもいろいろありますので、より正確には「歴史は要素還元主義では分析できない」ということです)。
さて、だからといって「国家」の視点から歴史を論じ、国に誇りを持たせるという目的に従って歴史を解釈してよいのだという「つくる会」的な主張は、とても認めるわけには行きません。先にも書いたように戦争の原因をつくるだけです。「つくる会」ってもしかしたら「戦争の原因をつくる会」??
この点ではマルクスの方が、国家を構成する複数のアクターの相互作用性を把握しているので、はるかに複眼的に歴史を捉えることができるという点で、優れていると言えるでしょう。ただし「マルクス主義者」たちは、「階級」を連続的集合体として捉えようとしすぎ硬直的な歴史観に帰結してしまいました。「階級」的な集合体から「逸脱」した個人が社会変革に果たす役割を軽視しました。
先月この世を去った鶴見和子先生は、彼女が発展させた「内発的発展論」の中で「キー・パースン」という概念を効果的に使用しました。これは、社会のオリジナルな発展(ステレオ・タイプな模倣的発展ではない発展)のためには創造的個人の役割が不可欠だ、ということです。(この場を借りて、鶴見和子さんのご冥福を心よりお祈りいたします)
創造的な個人が行った微細な「ゆらぎ」が不安定な臨界状態のシステムに作用すると、それがマクロ・レベルに拡大されシステムのマクロ構造そのものをラディカルに変革することがあります。非線形・非平衡科学で言うところの「バタフライ効果」なのですが、これは社会現象においても同様に成り立ちます。
バタフライ効果とは、1963年に気象学者のエドワード・ローレンツが行った地球大気の動態をシミュレーションするための非線形微分方程式の数値計算をする中で見出された「カオス」によって名づけられたものです。ローレンツは大気の運動の中に、初期条件のわずかな変異によって未来の気象状態は全く異なったものになるというカオス現象を見い出したのです。これが、「北京で蝶が羽ばたけばニューヨークで嵐になる」というような比喩で広まり、後に「バタフライ効果」と呼ばれるようになりました。
社会におけるバタフライ効果の例はたくさんあります。例えば「マニフェスト選挙」は、北川正恭前三重県知事(現在・早稲田大学大学院教授)が起こした小さな「蝶の羽ばたき」が全国に波及したものです。システムが臨界状態にあるときの「小さな羽ばたき」は実際に、すごい威力を持ちます。北川正恭氏は、バタフライ効果の威力を実体験を通して知っており、意識的にそれを用いようとしている方です。(この記事参照)
私は、バタフライ効果を自覚的・意識的に使ってみようとする諸個人が増えると、それは社会全体に相当にプラスのインパクトを及ぼすだろうと思っています。
私自身「バタフライ効果」は自分自身の実体験を通して、感動的に体感したことがあります。以前、このブログでも私の書いた「脱ダムから緑のダムへ」というエッセイを紹介したことがあります。あそこには、私も関わって積極的に行った「微細な羽ばたき」が、実際に正のフィードバックを得てかなり広がった事例が書いてあります。興味のある方は、どこがバタフライ効果になっているのか確認してみてください。
最近もネット上で、ハムニダ薫さんが「導火線に火をつけろ」と安倍晋三と統一協会のつながりを暴くキャンペーンを始めましたが、ネット上には燎原の火で広がりました。「蝶の羽ばたき=導火線への着火」なのであって、典型的なバタフライ効果です。今のところマスコミがその情報の拡散を抑えていて、負のフィードバックが正のフィードバックを上回っていますが、いずれこの火はさらに広がる可能性はあります。
さて、そうした意識的な「蝶の羽ばたき」を実行できる人が鶴見和子さんの言うところの「キー・パースン」です。「キー・パースン」という概念を最初に提唱したのは、哲学者の市井三郎さんです。市井三郎さんは『歴史の進歩とは何か』(岩波新書、1971年)という本の中で、「洋の東西を問わず人間の歴史には、《すぐれた伝統形成→形骸化→革新的再興》というダイナミクスが、長期的に観察することができる」と述べ、キー・パースンを、革新的再興を担う人物であると性格づけています。
市井さんは、人間社会の歴史を、構造静態過程と、その不安定化、そしてキー・パースンによるゆらぎを通した構造生成というサイクルの繰り返しと見ていたと言ってよいでしょう。実際に、市井さんは江戸中期の思想化の山県大弐と、その山県の思想を幕末に受け継いだ吉田松陰を二人の「キー・パースン」を取り上げ、微細な「蝶の羽ばたき」を行ったキー・パースンから明治維新という大規模な社会変革を論じるという試みをしています(市井三郎『明治維新の哲学』講談社、1967年)。
これは、思想の「適応放散(進化論生物学の概念。環境が変化したとき、それまでは非適応的だったマイナー遺伝子が新しい環境のニッチに適応して一気に拡散する現象)」といえるものです。
市井三郎さんは、まさに歴史のダイナミクスを「複雑系」として捉えていたといえます。その当時、まだ複雑系などという言葉はありませんでした。しかし、市井三郎がいかに先駆的だったかは、数学分野のカオス研究の進展を晩年に知り、それは社会科学研究・歴史研究に画期的なインパクトを与えるであろうことをいち早く見抜き、1981年の段階で雑誌の『理想』(第576号)に「数学的カオスの哲学的意味」という論文を書いていたことでも伺えます。
(ちょっと長くなってきました。またこの続きを書きたいです)
唯物史観は、歴史における「個人」の役割を否定した歴史法則主義に陥って、歴史の勉強をつまらなくしてしまいました。その反動が「つくる会史観」を生み出したという側面は濃厚にあると思います。
私が大学に入りたての頃、周囲にはマルクス主義者がたくさんいました。「資本主義が社会主義になるのは歴史の必然だ」と言われ、「<必然>なら運動なんかやらずとも寝て待ってりゃあいいじゃん」と不満に思ったものです。
私は実際の歴史において創造的な諸個人が果たす役割というものは非常に大きいと思っています。また私は、歴史は多分に偶然性にも左右されるので、法則性なんかないし、要素還元主義的なディシプリンで統一的に解釈可能なほど単純なものではないと思っています。その点で「歴史は科学ではない」という「つくる会」的な主張には同意します(まあ科学の定義にもいろいろありますので、より正確には「歴史は要素還元主義では分析できない」ということです)。
さて、だからといって「国家」の視点から歴史を論じ、国に誇りを持たせるという目的に従って歴史を解釈してよいのだという「つくる会」的な主張は、とても認めるわけには行きません。先にも書いたように戦争の原因をつくるだけです。「つくる会」ってもしかしたら「戦争の原因をつくる会」??
この点ではマルクスの方が、国家を構成する複数のアクターの相互作用性を把握しているので、はるかに複眼的に歴史を捉えることができるという点で、優れていると言えるでしょう。ただし「マルクス主義者」たちは、「階級」を連続的集合体として捉えようとしすぎ硬直的な歴史観に帰結してしまいました。「階級」的な集合体から「逸脱」した個人が社会変革に果たす役割を軽視しました。
先月この世を去った鶴見和子先生は、彼女が発展させた「内発的発展論」の中で「キー・パースン」という概念を効果的に使用しました。これは、社会のオリジナルな発展(ステレオ・タイプな模倣的発展ではない発展)のためには創造的個人の役割が不可欠だ、ということです。(この場を借りて、鶴見和子さんのご冥福を心よりお祈りいたします)
創造的な個人が行った微細な「ゆらぎ」が不安定な臨界状態のシステムに作用すると、それがマクロ・レベルに拡大されシステムのマクロ構造そのものをラディカルに変革することがあります。非線形・非平衡科学で言うところの「バタフライ効果」なのですが、これは社会現象においても同様に成り立ちます。
バタフライ効果とは、1963年に気象学者のエドワード・ローレンツが行った地球大気の動態をシミュレーションするための非線形微分方程式の数値計算をする中で見出された「カオス」によって名づけられたものです。ローレンツは大気の運動の中に、初期条件のわずかな変異によって未来の気象状態は全く異なったものになるというカオス現象を見い出したのです。これが、「北京で蝶が羽ばたけばニューヨークで嵐になる」というような比喩で広まり、後に「バタフライ効果」と呼ばれるようになりました。
社会におけるバタフライ効果の例はたくさんあります。例えば「マニフェスト選挙」は、北川正恭前三重県知事(現在・早稲田大学大学院教授)が起こした小さな「蝶の羽ばたき」が全国に波及したものです。システムが臨界状態にあるときの「小さな羽ばたき」は実際に、すごい威力を持ちます。北川正恭氏は、バタフライ効果の威力を実体験を通して知っており、意識的にそれを用いようとしている方です。(この記事参照)
私は、バタフライ効果を自覚的・意識的に使ってみようとする諸個人が増えると、それは社会全体に相当にプラスのインパクトを及ぼすだろうと思っています。
私自身「バタフライ効果」は自分自身の実体験を通して、感動的に体感したことがあります。以前、このブログでも私の書いた「脱ダムから緑のダムへ」というエッセイを紹介したことがあります。あそこには、私も関わって積極的に行った「微細な羽ばたき」が、実際に正のフィードバックを得てかなり広がった事例が書いてあります。興味のある方は、どこがバタフライ効果になっているのか確認してみてください。
最近もネット上で、ハムニダ薫さんが「導火線に火をつけろ」と安倍晋三と統一協会のつながりを暴くキャンペーンを始めましたが、ネット上には燎原の火で広がりました。「蝶の羽ばたき=導火線への着火」なのであって、典型的なバタフライ効果です。今のところマスコミがその情報の拡散を抑えていて、負のフィードバックが正のフィードバックを上回っていますが、いずれこの火はさらに広がる可能性はあります。
さて、そうした意識的な「蝶の羽ばたき」を実行できる人が鶴見和子さんの言うところの「キー・パースン」です。「キー・パースン」という概念を最初に提唱したのは、哲学者の市井三郎さんです。市井三郎さんは『歴史の進歩とは何か』(岩波新書、1971年)という本の中で、「洋の東西を問わず人間の歴史には、《すぐれた伝統形成→形骸化→革新的再興》というダイナミクスが、長期的に観察することができる」と述べ、キー・パースンを、革新的再興を担う人物であると性格づけています。
市井さんは、人間社会の歴史を、構造静態過程と、その不安定化、そしてキー・パースンによるゆらぎを通した構造生成というサイクルの繰り返しと見ていたと言ってよいでしょう。実際に、市井さんは江戸中期の思想化の山県大弐と、その山県の思想を幕末に受け継いだ吉田松陰を二人の「キー・パースン」を取り上げ、微細な「蝶の羽ばたき」を行ったキー・パースンから明治維新という大規模な社会変革を論じるという試みをしています(市井三郎『明治維新の哲学』講談社、1967年)。
これは、思想の「適応放散(進化論生物学の概念。環境が変化したとき、それまでは非適応的だったマイナー遺伝子が新しい環境のニッチに適応して一気に拡散する現象)」といえるものです。
市井三郎さんは、まさに歴史のダイナミクスを「複雑系」として捉えていたといえます。その当時、まだ複雑系などという言葉はありませんでした。しかし、市井三郎がいかに先駆的だったかは、数学分野のカオス研究の進展を晩年に知り、それは社会科学研究・歴史研究に画期的なインパクトを与えるであろうことをいち早く見抜き、1981年の段階で雑誌の『理想』(第576号)に「数学的カオスの哲学的意味」という論文を書いていたことでも伺えます。
(ちょっと長くなってきました。またこの続きを書きたいです)
現在のネット状況は、バタフライ効果にはうってつけではないですか? 大きなうねりの前に小さな振動が無数に起こる、それらが徐々に広がり大きな揺らぎをつくり新しい時代を生んでゆく。意図できる歴史、科学的に実証できる歴史なんていうことにも繋がるんでしょうか?(素人には不明です)
ただ一個人として「北京の蝶」の一羽になれれば未来に希望は感じられるでしょうね・・・ただし、一羽の考えて行動する蝶である必要はありそうです。
ではでは。
こば☆ふみ氏の仰るように、世論形成→社会変革にネットの力は大きくなってゆく。これは歴史の(限定的な意味での)必然だという気がします。
蝶の羽ばたきとしては理想的な場所になってるかも。
韓国の反日が日本の右傾化の弾みになり、北朝鮮のミサイルに盛り上がる世論が実際には中国を仮想敵国にするTMD推進の隠れ蓑になる。
日本では小選挙区制が政治に対する世論の力をますます大きくしつつある。
ネット世論の増大が既存マスコミの影響力を次第に低下させる気配が見え始めた。
それが、影響力が増大しつつあるネット世論を取り巻く情勢ですかね。
その間にも、中国は資源消費大国へと成長を続け、米国は赤字を垂れ流し続ける。
そして地球の温暖化とそれに伴う気候の不安定化はとまらない。
このまま行けばいずれ世界は経済・食料・鉱物資源・環境問題のすべてで対立が先鋭化する時代が来るように思えてしまいます。
しかしいくら必然に思えてもカオティックな未来は予測できない。
そこにネットという変数項の(キーとなるポジションを獲得した)個人の行動という初期値から拡大していく影響は(よい意味でも悪い意味でも)今後ますます大きくなっていく気がします。
持続可能な共存社会に変えていくための蝶の羽ばたきの力を信じて行動したいですね。
――といって、さしあたり自分がどう行動すればよいか良く判ってませんが^^;
とりあえず、関さまのブログを応援しております^^
>けではないですか?
そう思います。コピーの複製が広がる装置があれば(出版物でも、口から口への伝言でも何でもよいのです)、ゆらぎの拡散から新しい構造の生成という事態は発生し得ます(旧来のシステムが不安定になっているという条件が必要ですが)。
ネットは「複製」の速度を飛躍的に速めたので、「微細なバタフライ」の増幅も容易にしていると思います。
>中国は資源消費大国へと成長を続け、米国は赤字を
>垂れ流し続ける。
>そして地球の温暖化とそれに伴う気候の不安定化は
>とまらない。
>このまま行けばいずれ世界は経済・食料・鉱物資
>源・環境問題のすべてで対立が先鋭化する時代が来
>るように思えてしまいます。
そこまではかなり確実に予測できますね。いずれにせよ、その不安定化の根本的原因は米国・IMF・WTOによるグローバルな市場原理主義体制だと思います。その体制が不安定化して崩壊するだろうというところまでは、かなり確実に予測できます。
ただし次の秩序形成がどのように行われるのかは、予測できないことだと思います。まさにカオスの領域だからです。
最悪の事態は、「大恐慌から世界大戦へ」という1930年代の悪夢の再現ですが、何としてもその事態だけを避けるために、全力を尽くさねばならないと思います。悲観的な予測をすることは、逆にそれを避けようと考える諸個人の意思の力の増大を生みますので、あえて最悪の事態の予測をするという行為は、それを回避するために必要なのかも知れません。
「予測する」という行為が、予測された出来事の結果を変更させる影響を及ぼすという「効果」は、カール・ポパーが「エディプス効果」と名づけています。
分かりやすい例を挙げると、マルクス主義者たちが資本主義体制下での労働者階級の窮乏化と革命の「必然性」を予測すればするほど、国家の側にはそれを避けようとする努力が行われるようになり、結果として資本主義を延命させてきました。つまり予測という行為自体が、予測と異なる結果を発生させてきたわけです。
ところが「マルクス主義者」がほぼ無視し得る勢力になって悲観論の予測がなくなった途端に、「労働者の窮乏化」の現実は再燃してしまった・・・・。
当面はグローバルな市場原理主義体制からグローバルな社民的体制(もちろん各国の差異、文化の独自性を尊重する体制でもある)へソフトに移行させることが、最も被害を少なく、現在の混乱から脱却する方法だと思いますが、とにかくそれを願う力が大きくならねば、それは実現しません。
バタフライ理論というか複雑系理論はある種の思考のスタンダードになってきましたね。今日は敢えて、関さんに反論するならば、田中知事の失敗を見るにつけ、社会変革というものはキーパーソンではやはり限界があって、最低でもキーパーソンズになる必要があるんだと思うんですね。勿論、マルクス主義運動だってマルクスというキ-パーソンによって生み出されたという反論もありうるのですが、そこには共産党という運動組織が無視し得ない。これはキリストとキリスト教、孔子と儒教の関係でも同じでしょうが。
ということで、トラックバックしたブログも協働運営スタイルでやることにしました。ネットが世論形成と社会変革にバタフライ効果をもたらす為には、そろそろ組織化(といってもゆるやかなという形容詞がつくと思いますが)という過程が必要なのではないか、と思っています。とりわけ権力サイドによる2ちゃんねる支配やら右傾化への世論誘導の実態が明らかになるにつれ、真に草の根としてのネット再編が不可欠だとの思いを新たにしています。
PS世界経済~の方も継続する予定です。そちらもヨロシクお願いします。
新しいブログも拝読させていただきます。さっそくこちらのブログのブックマークにも入れさせていただきます。
>キーパーソンではやはり限界があって、最低でもキ
>ーパーソンズになる必要があるんだと思うんですね。
その通りだと思います。ただし「言いだしっぺ」に当たる人が、賛同者を獲得していくことによって「キー・パーソンズ」に変化するので、ここで強調したのは「言いだしっぺ」の重要性です。
このブログは実は、「エコロジカル・ニューディール政策」を流行らせようというバタフライ効果も狙ったものだったのですが、これはちっとも広がりません。(苦笑)
やっぱり流行らせるためには、センスも必要ですね。自分のセンスのなさを恨みます。
>マルクス主義運動だってマルクスというキ-パーソ
>ンによって生み出されたという反論もありうるので
>すが、そこには共産党という運動組織が無視し得ない
「マルクス主義者」がマルクスという歴史的人物の重用性を強調して、マルクスを英雄視すればするほど、じつはマルクス本人の歴史観と矛盾することになります。「マルクス主義者」たちの非常に苦しいところですね。
ここまで書いたついでに、ついでにマルクスに対してもう少し加筆します。
マルクスは歴史上の実践面では、第一インターを分裂させたのに象徴されるように、運動の組織者としては全くの失敗だらけでした。実践面での彼は、とくにキーパーソンとしての役割を果たしていないと思います。
理論面では、資本主義の批判者としてアカデミズムに与えた影響は絶大でしたが、未来社会の構想者としての彼の役割は「負」だと思います。だって、彼は未来社会に関する具体的な構想は何一つ語っていないに等しいからです。だから、マルクスの名を語って、国家統制計画経済みたいなとんでもないシステムが誕生してしまった・・・。
左翼はマルクスの教条から脱却する、「脱マルクス主義宣言」をすべきだと思います。マルクスの理論をどんなに高く評価したとしても、それでも「マルクス主義」などと名乗ってはいけないのです。
だいたい、人の名前に「主義」をつけて崇拝対象にするなんていう行為自体が、過去にとらわれる訓詁学的世界へ埋没することにしかつながらず、未来への責任放棄だと思います。