「長州史観から日本を取り戻す」というシリーズモノ始めたところ多くの方々からコメントをいただいた。この問題に対する感心は高いようだ。「薩長公英陰謀論者」さんは、石井孝氏の『明治維新と外圧』(吉川弘文館、平成5年)、宮崎市定氏の『アジア史概説』(中公文庫、1987年)、宮崎氏の「幕末の攘夷論と開国論ー佐久間象山暗殺の背景ー」などを紹介しながら詳細なコメントを下さいました。御礼申し上げます。私も読んでいなかった文献ばかりだったので、読んだ上で必要があれば取り上げたいと思う。
りくにすさんからは「ユダヤならぬ「長州陰謀史観」みたいなのが蔓延していて、政治と無関係な田舎の事件まで長州藩の気質のせいにする意見をどこかで見ました。閉鎖的な田舎であればどこでだって起こりそうな事件なのに」というご意見もいただいた。私はネット上に拡散されている「長州陰謀史観」は全く知らなくて、少し検索してみた。確かに、あまりにも想像力豊かすぎて、私ではついていけないものも多かった。私としては、歴史学的に見ても「これは明らかだ」と思える事実のみを取り上げていきたい。
「陰謀論」というとそれだけで引いてしまう人々が多い。しかし歴史はさまざまな「はかりごと」がなければ前には進まない。薩摩藩と長州藩は、江戸公儀体制を転覆して革命権力を打ち立てるために、さまざまな「はかりごと」を駆使したことは自明である。それら「はかりごと」の意味を吟味し、知らないうちに洗脳されていた私たちの歴史認識を修正することは、明治維新政府が打ち立てた「中央集権的官僚支配体制」という末期的な状態に陥っている現行制度をあらため、次の時代を切り開くために必要不可欠な作業である。
今回は、「薩長公英陰謀論者」さんの以下のコメントについて考えたい。前の記事とも関連するが「下関戦争は日本におけるアヘン戦争としての意味を持った」という命題である。以下、前の記事のコメント欄の引用。
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http://blog.goo.ne.jp/reforestation/e/87841e9ad51fd12f4ef5654e80d6f86e
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このコメントに同意である。
明治維新は国際的視野で考える必要がある。前の記事にも書いたように、日米修好通商条約で定められた関税制度は、長州史観で主張するような不平等条約ではなかった。関税率20%という日米条約原型は、新たな財源として関税収入に期待していた公儀の老中・目付の思惑と、高関税によって財源を確保し国家建設を進めることを自明の国家戦略としてイギリスに対抗してきていたアメリカのハリスの思惑が合致して進められてきたものであった。双方にwin-winの関係であり、そこに不平等性はない。
関税率20%のままであったら、日本はすみやかに近代的工業国として台頭していたはずであった。下関戦争があったが故に、重化学工業の発達は遅れ、日露戦争時まで武器も艦船もイギリスからの輸入に依存せねばならないような立ち遅れた状態のまま、イギリスの軍事産業の「お得意さま」にさせられてしまった。
イギリスの謀略は確実にあった。イギリスは、日本との条約でアメリカに先を越されてしまい、しかもその条約がイギリスが望んでいたような不平等条約ではなかったことが大きな不満であったのだ。イギリスは、何とか対日戦争を起こして、南京条約なみの不平等条約に変えさせたかったのである。
江戸公儀は、ハリスからの情報もあってアロー戦争が終われば、英・仏が日本に対して戦争を仕掛けてくるであろうことを見越していた。英・仏がアロー戦争で動けないあいだに、侵略の意図のない米国とのあいだに最大限日本に有利な条約を結ぼうとしたのだ。この公儀の外交は見事であったといえる。
この外交戦略の基本を描いたのが、松平忠固、堀田正睦、岩瀬忠震、井上清直、川路聖謨らである。もっとも松平忠固は、条約の締結に禁裏の勅許など不要と主張したのに対し、堀田と岩瀬、川路らは勅許を得ようと努力し、それが岩倉具視らの謀略で失敗してしまった。これが国際情勢の全くわからぬ不勉強きわまりない公卿や尊王攘夷の過激派を勢いづかせるきっかけにもなってしまった。忠固の方針こそがもっとも正しかったのだ。
さらに悪いことには条約締結後、忠固・堀田・岩瀬・川路らはことごとく井伊直弼の謀略によって失脚に追い込まれ、それが公儀の外交能力を衰退させる原因ともなってしまった。
堀田、川路、岩瀬らはまだそれなりに評価されているものの、上田藩主の松平忠固に関してはその死の直後から、全く無視され続けて現在に至る。松平忠固は薩長中心主義史観によって存在を消されている政治家である。忠固の業績に関しては正当な評価を与えねばならない。
さて、公儀の外交努力によって不本意な条約を結ばされてしまったイギリスは、「何とか対日戦争の口実を見つけたい」と虎視眈眈と狙っていた。このイギリスの罠にはまったのが長州であった。下関戦争は、日本史においては「アヘン戦争」としての意味を持った戦争であったのである。長州藩の敗戦の責任を取らされて、日本は300万ドルもの賠償金を払わされ、関税率も国際水準の20%から中国・インド・タイの水準の5%へと変更を強要させられることになった。
この負のインパクトは1911年の条約改正まで尾を引くことになる。日本の重化学工業化は1911年の関税自主権完全回復後にようやく本格化するのである。
長州藩のテロをきっかけにして勃発した下関戦争が日本史に与えた負のインパクトは不当に過小評価され、「長州藩が攘夷の無理を悟る契機となった」などとポジティブな評価すらなされている。これが長州史観のバイアスである。
長州は、下関の敗戦を討幕のために最大限有効に活用した。ここには長州の深謀遠慮があった。、「薩長公英陰謀論者」さんのコメントにあるように、長州藩の講和特使であった高杉晋作は、敗戦の賠償金300万ドルの支払を「幕府」に対して行うようにイギリスに求め、イギリスは喜んでこれに応じた。
イギリスとしては、対日戦争を起こして日本に不平等条約を押し付けたかったわけであるから、もとより高杉晋作の申し出は願ったりかなったりであったのだ。高杉晋作もイギリスの罠にはまっていたのだ。一部には対英講和交渉における高杉晋作の役割を「日本を守った」かのように言う向きもある。これも長州史観のバイアスである。
りくにすさんからは「ユダヤならぬ「長州陰謀史観」みたいなのが蔓延していて、政治と無関係な田舎の事件まで長州藩の気質のせいにする意見をどこかで見ました。閉鎖的な田舎であればどこでだって起こりそうな事件なのに」というご意見もいただいた。私はネット上に拡散されている「長州陰謀史観」は全く知らなくて、少し検索してみた。確かに、あまりにも想像力豊かすぎて、私ではついていけないものも多かった。私としては、歴史学的に見ても「これは明らかだ」と思える事実のみを取り上げていきたい。
「陰謀論」というとそれだけで引いてしまう人々が多い。しかし歴史はさまざまな「はかりごと」がなければ前には進まない。薩摩藩と長州藩は、江戸公儀体制を転覆して革命権力を打ち立てるために、さまざまな「はかりごと」を駆使したことは自明である。それら「はかりごと」の意味を吟味し、知らないうちに洗脳されていた私たちの歴史認識を修正することは、明治維新政府が打ち立てた「中央集権的官僚支配体制」という末期的な状態に陥っている現行制度をあらため、次の時代を切り開くために必要不可欠な作業である。
今回は、「薩長公英陰謀論者」さんの以下のコメントについて考えたい。前の記事とも関連するが「下関戦争は日本におけるアヘン戦争としての意味を持った」という命題である。以下、前の記事のコメント欄の引用。
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http://blog.goo.ne.jp/reforestation/e/87841e9ad51fd12f4ef5654e80d6f86e
長州の一方的な外国船砲撃・乗組員殺傷というテロ行為こそが、「開国」でアメリカに立ち後れた英国が挽回し、日米間で締結されていた「国際的水準」の交易条件を転覆して、英国が清国に対してアロー戦争という侵略戦争を仕掛けて得た半植民地的交易条件と同等のものに置き換えることを誘導したわけですね。
Wikipediaで見ますと、長州が封鎖した関門海峡を通過して砲撃を受けたのが、まずアメリカの商船、次にフランスの通報艦、そして公儀の公的な通商国オランダの軍艦であったことに目が惹かれました。えぇ、ロシアを除く英仏蘭米四ヶ国の多国籍軍編成の下地をつくっています。そして四国多国籍軍に対する長州の惨敗後の講和において、高杉晋作は英国側の提示した条件をすべて唯々諾々と受け入れて関門海峡を開放し、ただし、外国船攻撃は公儀が朝廷に約束し全国に通達した攘夷命令によるものであるとして賠償金300万ドルは公儀に請求することとしています。思わず笑ってしまいました。
アヘン戦争後の南京条約によって期待した清国内での商業活動が伸び悩むのに業を煮やしてアロー戦争を仕掛けたオールコック・パークスのコンビが、不本意にもアメリカに先を越された日本で、米国本国の南北戦争の隙を突いて主導権を奪い返そうと長州を利用して演じたのが、見事に図にあたった下関戦争ということではないかと睨みます。長州は、薩英戦争を経た薩摩とともに、その後あっという間に英国製の最新鋭の武器で軍備を固め、軍事クーデターによって覇権を獲得するや否や国内経済社会の近代化(欧化)にまい進(狂奔)するわけで・・・
Wikipediaで見ますと、長州が封鎖した関門海峡を通過して砲撃を受けたのが、まずアメリカの商船、次にフランスの通報艦、そして公儀の公的な通商国オランダの軍艦であったことに目が惹かれました。えぇ、ロシアを除く英仏蘭米四ヶ国の多国籍軍編成の下地をつくっています。そして四国多国籍軍に対する長州の惨敗後の講和において、高杉晋作は英国側の提示した条件をすべて唯々諾々と受け入れて関門海峡を開放し、ただし、外国船攻撃は公儀が朝廷に約束し全国に通達した攘夷命令によるものであるとして賠償金300万ドルは公儀に請求することとしています。思わず笑ってしまいました。
アヘン戦争後の南京条約によって期待した清国内での商業活動が伸び悩むのに業を煮やしてアロー戦争を仕掛けたオールコック・パークスのコンビが、不本意にもアメリカに先を越された日本で、米国本国の南北戦争の隙を突いて主導権を奪い返そうと長州を利用して演じたのが、見事に図にあたった下関戦争ということではないかと睨みます。長州は、薩英戦争を経た薩摩とともに、その後あっという間に英国製の最新鋭の武器で軍備を固め、軍事クーデターによって覇権を獲得するや否や国内経済社会の近代化(欧化)にまい進(狂奔)するわけで・・・
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このコメントに同意である。
明治維新は国際的視野で考える必要がある。前の記事にも書いたように、日米修好通商条約で定められた関税制度は、長州史観で主張するような不平等条約ではなかった。関税率20%という日米条約原型は、新たな財源として関税収入に期待していた公儀の老中・目付の思惑と、高関税によって財源を確保し国家建設を進めることを自明の国家戦略としてイギリスに対抗してきていたアメリカのハリスの思惑が合致して進められてきたものであった。双方にwin-winの関係であり、そこに不平等性はない。
関税率20%のままであったら、日本はすみやかに近代的工業国として台頭していたはずであった。下関戦争があったが故に、重化学工業の発達は遅れ、日露戦争時まで武器も艦船もイギリスからの輸入に依存せねばならないような立ち遅れた状態のまま、イギリスの軍事産業の「お得意さま」にさせられてしまった。
イギリスの謀略は確実にあった。イギリスは、日本との条約でアメリカに先を越されてしまい、しかもその条約がイギリスが望んでいたような不平等条約ではなかったことが大きな不満であったのだ。イギリスは、何とか対日戦争を起こして、南京条約なみの不平等条約に変えさせたかったのである。
江戸公儀は、ハリスからの情報もあってアロー戦争が終われば、英・仏が日本に対して戦争を仕掛けてくるであろうことを見越していた。英・仏がアロー戦争で動けないあいだに、侵略の意図のない米国とのあいだに最大限日本に有利な条約を結ぼうとしたのだ。この公儀の外交は見事であったといえる。
この外交戦略の基本を描いたのが、松平忠固、堀田正睦、岩瀬忠震、井上清直、川路聖謨らである。もっとも松平忠固は、条約の締結に禁裏の勅許など不要と主張したのに対し、堀田と岩瀬、川路らは勅許を得ようと努力し、それが岩倉具視らの謀略で失敗してしまった。これが国際情勢の全くわからぬ不勉強きわまりない公卿や尊王攘夷の過激派を勢いづかせるきっかけにもなってしまった。忠固の方針こそがもっとも正しかったのだ。
さらに悪いことには条約締結後、忠固・堀田・岩瀬・川路らはことごとく井伊直弼の謀略によって失脚に追い込まれ、それが公儀の外交能力を衰退させる原因ともなってしまった。
堀田、川路、岩瀬らはまだそれなりに評価されているものの、上田藩主の松平忠固に関してはその死の直後から、全く無視され続けて現在に至る。松平忠固は薩長中心主義史観によって存在を消されている政治家である。忠固の業績に関しては正当な評価を与えねばならない。
さて、公儀の外交努力によって不本意な条約を結ばされてしまったイギリスは、「何とか対日戦争の口実を見つけたい」と虎視眈眈と狙っていた。このイギリスの罠にはまったのが長州であった。下関戦争は、日本史においては「アヘン戦争」としての意味を持った戦争であったのである。長州藩の敗戦の責任を取らされて、日本は300万ドルもの賠償金を払わされ、関税率も国際水準の20%から中国・インド・タイの水準の5%へと変更を強要させられることになった。
この負のインパクトは1911年の条約改正まで尾を引くことになる。日本の重化学工業化は1911年の関税自主権完全回復後にようやく本格化するのである。
長州藩のテロをきっかけにして勃発した下関戦争が日本史に与えた負のインパクトは不当に過小評価され、「長州藩が攘夷の無理を悟る契機となった」などとポジティブな評価すらなされている。これが長州史観のバイアスである。
長州は、下関の敗戦を討幕のために最大限有効に活用した。ここには長州の深謀遠慮があった。、「薩長公英陰謀論者」さんのコメントにあるように、長州藩の講和特使であった高杉晋作は、敗戦の賠償金300万ドルの支払を「幕府」に対して行うようにイギリスに求め、イギリスは喜んでこれに応じた。
イギリスとしては、対日戦争を起こして日本に不平等条約を押し付けたかったわけであるから、もとより高杉晋作の申し出は願ったりかなったりであったのだ。高杉晋作もイギリスの罠にはまっていたのだ。一部には対英講和交渉における高杉晋作の役割を「日本を守った」かのように言う向きもある。これも長州史観のバイアスである。
関さん、御記事のタイトルに震え、浮き足だっておりました。あらずもがなの蛇足ながら、目の前の時勢がそれに輪をかけるこの震えのトレースをして、その言葉の射程の深さをさぐっております。
貴著『自由貿易解体新書』をネット発注したところだったのですが、Wikipedia「改税約書」に「駐日イギリス公使パークスを中心とする列強側は、財政難の江戸幕府が支払いに困窮している下関戦争賠償金総額の3分の2を減免することを条件に条約の勅許、兵庫早期開港、関税率低減を要求した。これにより、・・・外国商品は国内の物価上昇(インフレーション)に即応しない安価な商品が大量に流入することとなり、国際貿易収支を不均衡にしたのみならず、日本における産業資本の発達が著しく阻害された」とあること、また、岩波新書『シリーズ日本近現代史①幕末・維新』(井上勝生、2006年)に、「こうして日本は、関税について天津(敗戦)条約を結んだ中国と同じ不利な条件を認めさせられた。前年1864(元治元)年の幕府の関税収入は174万両、歳入の18パーセントという多額の収入になっている。関税障壁を低減させたことと併せて、関税収入大幅減額(四分の一への減)は、日本にとって重大な損失であった」(同書P132)とあるのを見ました。なるほど。
すなわちこれは逆転して、薩長密貿易サイドとその主たる相手と思われる「グラバー商会/ジャーディン・マセソン商会」にとっては大きな旨みをもたらすものであったろうと思いました。
英国(英国商人)は中国市場を本命にしながらも、アジア地域をそのひとつである日本を含めて自由貿易地域にする(グローバル化する)という一貫して揺るがない基本戦略を持っており、そのために日本については公儀による通商地を限定した管理貿易体制を破壊することが至上命令であったと思われます。これがはからずも薩長の「攘夷」と表裏一体となるわけで、オールコック・長州攘夷派の双方「あうんの呼吸」で日本におけるアヘン戦争を結果的に演出したのかと思うと、ぼう然とするばかりです。さすが悪辣無比・百戦錬磨のイギリス帝国主義、まさに、りくにすさんの言われる「陰謀」(謀略)そのものだったのですね。
関さんが以前の記事で言及されておられる『講座 明治維新第2巻 幕末政治と社会変動』(有志舎、2011年)所収の鵜飼政志論文「ペリー来航と内外の政治状況」がこだわるポイント、対米外交を担当した幕吏が有能であったことと、その後の歴史が整合しない・・、という疑問への答えがここにあります。井伊直弼が短視眼的権謀術数によって次席老中松平伊賀守忠固以下その「有能な幕吏」をすべて粛清してしまっていたという公儀側の不運な状況を奇貨として、この下関アヘン戦争が公儀側の達成のすべてを吹き飛ばし、「歴史の継続性・整合性」が断ち切られたわけですね。
そのあと「最後の将軍」として尊皇攘夷の牙城、水戸から徳川斉昭の息子が・・・もって瞑すべしといえば怒られそうですが。
関さん、「明治維新をアジア史の展開として見る」という今後さらに大きくなってゆくと思われる流れの中で関さんの「下関アヘン戦争」論は近現代史の見方にコペルニクス的転回をもたらすはずです。寡聞にしてこのようなあざやかな着想は関さんのほかにはないのでは。
1850年代末以降のイギリスはグラッドストーン財政改革による軍縮で砲艦外交を捨てる一方で、アジアではおりからの太平天国の乱の対処に手一杯、イギリス本国の対日外交政策は「日本国内開明派との協力関係強化」という政略主導で武力行使は英国民の保護に限るという方向転換をしていたとのことです(杉山伸也『明治維新とイギリス商人』岩波新書、1993年;P111)。長州攘夷派の「暴発」に乗じ、米仏蘭三カ国の現地軍事力を巻き込んで利用、完膚なき武力行使と注文どおりの講和を演じてのけたオールコックの手腕には脱帽してしまいます。
事後に本国政府から武力行使を問題視されたオールコックは、「事情」を理解してはもらい清国公使に栄転となりましたが、在日公使を続けたいという希望はかなえられなかったのですね。それを引き継いだ公使パークスが、「仕上げ」をして、関さんの言われるように重工業は手薄な「軽工業国」として英国製機械・武器の市場とし、これには異論があるかと思いますが、ロシアのアジア進出をおさえるための代理戦争(日露戦争のことです)を英国製の戦艦を駆使してなんとかこなすことろまで日本をもってゆくわけですね。で、その「薄氷を踏むへとへとの勝利とアメリカの後押しによる1905年の講和」のあとは・・・司馬遼太郎のいう「うしなわれた40年」に?
話は飛びますが、ペリーからハリスの通商条約まで時間がかかった背景にはアメリカはイギリスの牙城であった中国への足がかりとして日本を考えていたことがあるのではないかと思います。ひょっとして「有能な幕吏」はそれをも読んでいたのかも。
そのアメリカは日露戦争講和の仲介でようやく中国(「満州」)への進出の足がかりを得たのですが、その後も英国外交に阻まれてうまくいかなかったようです。そういう英国に手玉にとられてもあの長州ならしかたありませんね。関さん、Wikipedia「日米修好通商条約」には「開国・積極交易派の巨頭であった老中の松平忠固」!と出てきます。さすがですね。まさか関さんが?
関さん、すみません。「改税約書が密貿易側の長州及び薩摩にとって旨みがあった」だろうと感じましたのは、「兵庫(神戸)開港延期」が、既存の開港地での貿易における「関税率の敗戦条約並レベルへの引き下げ」と引き換えに英国&欧米列強によってオファーされていたことを横目で見ていたからです。もちろん下関アヘン戦争敗北賠償金の劇的軽減とともに。
大阪と京都を背に控えた兵庫神戸の開港がなされると、すでに公然たるものとなっていたであろう薩長の密貿易政治経済に甚大な打撃になるわけですから。なお、兵庫開港は1868年1月1日、(薩長公による)「王政復古」号令のなんと!!たった2日前になされています(これは「日本開港五都市観光協議会」!! http://www.5city.or.jp/kobe/history.html 及び、神戸市のホームページを参照したものです)。前投稿ではこの「兵庫開港延期」に触れないままに推測コメントを唐突に入れまして申しわけありません。
ちなみに「明治維新を(19世紀の)アジア史の展開として見る流れが今後さらに大きくなってゆくと思われる」というのは、『近現代日本史と歴史学 書き替えられてきた過去』(成田龍一、中公新書、2012年)の第1章、第2章の明治維新に関する理論史の解明、それから『講座 明治維新 第2巻 幕末政治と社会変動』(有志舎、2011年)の冒頭、青山忠正氏による巻頭の「総論」にあらわれたスタンスとその冒頭の明治維新の定義を見てのものです(あっとおどろきました)。
「長州攘夷派の『暴発』に乗じ、米仏蘭三カ国の現地軍事力を巻き込んで利用、完膚なき武力行使と注文どおりの講和を演じてのけたオールコックの手腕」&「武力行使を問題視した本国政府に理解して貰った(下関アヘン戦争の)『事情』」とは、下関アヘン戦争が、「四カ国それぞれの市民とその通商活動を保護するためのやむを得ぬ正当防衛として行われた」ものであるという「事実」のことです。
井上勝生『日本の歴史18 開国と幕末変革』(講談社、2002年)にはこう述べてあります(講談社学術文庫版P305~306):
・・・攘夷予定実行予定の当日、下関海峡を通過するため、折からの強風を避けて停泊していたアメリカ商船に。長州藩の下関総奉行毛利能登が問い合わせをする。これに対して、アメリカ側は幕府の水先案内人を乗せていて、幕府の用状ももっていることを示したため、下関総奉行は長州藩の尊皇攘夷激派に対して、商船への砲撃を制止したのであった。ところが、久坂玄瑞ら京都から来た「光明寺党」(下関の光明寺に拠った)の尊攘激派は暗夜に紛れて軍船で忍び寄りこの商船を砲撃し、大破させた。・・・つづくフランス通信艦、オランダ軍艦に対する突然の砲撃も同様であった。アヘン戦争の時、アヘンを廃棄した林則徐の行動とは、道理において比較できるものではないのである。・・・越前藩の村田巳三郎(注:Wikipediaによれば、松平春嶽の補佐役とのことです)は坂本龍馬に、長州藩の行為は「日本、万国に対して不義非道」と述べた。
・・・とのこと。長州藩をその後まるごと乗っ取ることになる長州尊攘激派の、この確信犯的で果敢なテロリズムは、たんなる『暴発』ではなく、その背後にしっかりとしたシナリオがあることを感じさせます。もちろんシナリオ(権謀術数・謀略)であって、それゆえに道理の有無は別問題ですね。
公儀が禁裏の要求に譲歩して出した「攘夷」令は開港地の閉鎖交渉開始にともなう海岸線警備指示であって一方的な「打ち払い」ではありませんでした(前出の青山忠正氏の「総論」、前掲書P14)。攘夷令の拡大解釈と適用によるこの計画的な挑発行為が英国に「正当防衛としての下関アヘン戦争」を演じさせるために不可欠であったことと、Wikipedia「阿片戦争」によれば、英側が林則徐のアヘン取り締まりの開始を待ち受け、いったん広東からマカオに撤退したあと、林則徐のマカオ武力封鎖と井戸への毒の投入に「反撃」するかたちで、東インド艦隊を動員したことは通底するような気がします。
で、この広東に発した第一次アヘン戦争に対応するのが下関アヘン戦争であるとすれば、第二次アヘン戦争としてのアロー戦争に変化球で対応するのは・・・まさか戊辰戦争? これは類推の暴走でしょうか。いずれにしても、米仏蘭をみごとに巻き込んで、英(英国商人?)側の足の長い戦略的シナリオのもとにおこなわれたものであろう下関アヘン戦争には嘆息するばかりです。
オールコックの下心に、関税率引き下げの意図が
あったとは不覚にも気付きませんでした。
勉強になりました。
長州史観(=司馬史観)へのイデオロギー批判は
私も意図するところなので、近いうちに関連記事を
書き、側面支援いたします。
歴史が専門の renqing さんに側面支援していただければ当方も勇気百倍です。何卒よろしくお願い申し上げます。