今回は所詮は「中小企業」という真田家の悲哀が切ない回でした。「悔しい」という無念の思いを、昌幸と共有しながら視聴しました。
秀吉は、「自分でさえ勝てなかった徳川に勝った真田」という事実を重々理解していたでしょうが、上洛の遅れた昌幸を一貫し冷たくあしらおうとします。代理として秀次を会いに行かせ、直接、昌幸と会おうともしない。
大谷吉継だけが、「真田安房守殿が来ていらっしゃると聞いて、いてもてってもいられず出てきてしまった」と、まるで芸能人の追っかけのような無邪気な表情で、昌幸に会えたことに感激し、はしゃいでいました。
秀吉の冷たい対応についに源次郎がキレて、秀吉に向かって「父と会っていただけぬのなら、父は上田に帰って戦じたくを始めるつもりでございます。真田を敵に回すのは得策ではございませぬぞ。伊達と結び、北条と手を組み、徳川を味方に引き入れ、いずれ殿下の御前に強大な敵となって立ちはだかりましょう」と発言。
あの源次郎の恫喝発言、鬼気迫るすごみがありました。伊達・真田・北条・徳川って、それ万が一ホントになったら、さすがの秀吉もそれは困ると思わせるシナリオです。それを聞きながら三成と秀吉が、「それはまずいな」という表情をするのです。目を動かすだけの演技で・・・。いや、すごい。
秀吉は源次郎の顔を立てて、ついに昌幸と会います。
しかし、そこで秀吉は、昌幸に対して家康の与力になれという非情な命令を・・・・。もう、昌幸があわれで仕方ありませんでした。全身で哀愁を表現していた草刈さんの演技もすごかった。
このとき秀吉は、「その代わり、真田の領地は徳川が守る。北条が攻めてきても、徳川が盾となってくれる。悪い話ではなかろう」と言って昌幸を納得させます。
この発言にハッとなりました。なるほど、秀吉はそこまで先を読んで、真田を徳川の与力にしたのか・・・と目からウロコでした。真田が家康の与力となったからには、北条が真田領に攻めてきたら、北条と同盟関係にあるはずの家康は、北条を助けるのではなく、逆に北条と戦わねばならなくなってしまうわけです。
真田と北条は、沼田領問題でいまだ係争中ですから、真田=北条間は臨戦状態。秀吉が惣無事令を出したと言っても、北条は従おうとしていませんから、すぐにでも攻めてくるでしょう。
秀吉としては、北条と徳川を引き裂くために、真田をあえて徳川の与力としたという深謀遠慮だったのかも知れません。家康は「ついに真田安房守に頭を下げさせたぞ」という嬉しさで、高笑いしていましたが、じつは秀吉の術中にはまっていた? この時点で、家康は、北条を助けて真田と戦うという集団的自衛権を発動できなくなり、真田を助けて北条と戦うという集団的自衛権を発動せねばならなくなってしまっていたのです。(余談ですが、メリケン氏の術中にはまって、中東にまで出兵しなければならなくなってしまった某国のようです)
既に秀吉には、北条を滅ぼすシナリオが頭の中にあったのかも? 昌幸を家康の与力とする秀吉の裁定の背後の意図をそこまで深く読んだことはありませんでした。今回の大河、深読みしていてすごいです。秀吉の智略、恐るべしといえるかも知れません。
また、お松姉さんの記憶が戻って本当によかった。パパの背中に小便をしたと言われても、源三郎の鼻をサワガニのハサミではさませていじめたと言われても、記憶は戻らないのに、きりのかかとがカサカサなのを見て記憶がよみがえるのか?? とも思いましたが、まあ、そこはいいか・・・・。
次はダンナの小山田茂誠さんとの再会の番ですね。果たしていつになるのでしょう? 来週のタイトルが恋路なので、早ければ来週にも?? はたして茂誠さんはいま何処?
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ところで、真田昌幸の上洛がどうして遅れたかということですが、北条との戦の最中なので昌幸が上田城を留守にはできなかったという理由が大きいと思います。家康が真田征伐を止めて上洛したら、すぐに昌幸が上洛できるかと言うと、引き続き北条がいつ攻めてくるか分からないので、簡単には上洛できません。北条は秀吉の「惣無事」になど従うつもりはありませんから。
ちなみに史実では、真田を徳川の与力にするというのは、前回放映の家康の上洛の際(天正14年10月)、直接、秀吉から家康に伝えていたそうです。その折に、真田の他に、小笠原貞慶と木曽義昌も家康与力になることが告げられていました。家康は上洛した折に、秀吉と相談し、昌幸らが与力になることを承知していたのでした。
今回のドラマでは、昌幸が上洛してその帰途に駿府に寄ったことになっていましたが、実際には、上洛前に昌幸にも家康の与力になることが通達されていたので、昌幸は先に駿府に寄って、その後、大坂城に行ったようです。
しかし当時、真田は上杉に属していました。秀吉の一存で勝手に真田を上杉から引き離して、徳川の与力にしてしまったわけです。これは、景勝が怒るでしょう。秀吉が、家康上洛の直後に、景勝に出した釈明の手紙があります(天正14年11月4日付)。内容は、「関東のことを家康と相談し、関東は家康に諸事任せることにした。真田は、小笠原、木曽とともに徳川へ返した。上杉の顔を立てて、不届きな真田を許してやったので、今回の措置も遺恨なきよう・・・・」という内容です。
景勝の顔を立てて、真田を許してやったのだから、真田を上杉から引き離して家康に付けるのも認めてくれ、ということです。景勝、この手紙読んで内心怒ったでしょうね。
読みようによっては、この時点で秀吉は北条に変えて家康に関東を任せると決めていた様子のようにも読めます。
それにしても、この文面から、上杉景勝は秀吉に対し、「真田を許してくれ」と頼んでいたことが伺われます。(景勝公、心より感謝申し上げます)
源次郎が秀吉の人質として大阪城に入ったのは、実際には、少なくとも、この後のことだと思われます。真田が上杉の与力でなくなったので、このとき、源次郎は上杉の人質でいる必要がなくなったからです。
秀吉は、「自分でさえ勝てなかった徳川に勝った真田」という事実を重々理解していたでしょうが、上洛の遅れた昌幸を一貫し冷たくあしらおうとします。代理として秀次を会いに行かせ、直接、昌幸と会おうともしない。
大谷吉継だけが、「真田安房守殿が来ていらっしゃると聞いて、いてもてってもいられず出てきてしまった」と、まるで芸能人の追っかけのような無邪気な表情で、昌幸に会えたことに感激し、はしゃいでいました。
秀吉の冷たい対応についに源次郎がキレて、秀吉に向かって「父と会っていただけぬのなら、父は上田に帰って戦じたくを始めるつもりでございます。真田を敵に回すのは得策ではございませぬぞ。伊達と結び、北条と手を組み、徳川を味方に引き入れ、いずれ殿下の御前に強大な敵となって立ちはだかりましょう」と発言。
あの源次郎の恫喝発言、鬼気迫るすごみがありました。伊達・真田・北条・徳川って、それ万が一ホントになったら、さすがの秀吉もそれは困ると思わせるシナリオです。それを聞きながら三成と秀吉が、「それはまずいな」という表情をするのです。目を動かすだけの演技で・・・。いや、すごい。
秀吉は源次郎の顔を立てて、ついに昌幸と会います。
しかし、そこで秀吉は、昌幸に対して家康の与力になれという非情な命令を・・・・。もう、昌幸があわれで仕方ありませんでした。全身で哀愁を表現していた草刈さんの演技もすごかった。
このとき秀吉は、「その代わり、真田の領地は徳川が守る。北条が攻めてきても、徳川が盾となってくれる。悪い話ではなかろう」と言って昌幸を納得させます。
この発言にハッとなりました。なるほど、秀吉はそこまで先を読んで、真田を徳川の与力にしたのか・・・と目からウロコでした。真田が家康の与力となったからには、北条が真田領に攻めてきたら、北条と同盟関係にあるはずの家康は、北条を助けるのではなく、逆に北条と戦わねばならなくなってしまうわけです。
真田と北条は、沼田領問題でいまだ係争中ですから、真田=北条間は臨戦状態。秀吉が惣無事令を出したと言っても、北条は従おうとしていませんから、すぐにでも攻めてくるでしょう。
秀吉としては、北条と徳川を引き裂くために、真田をあえて徳川の与力としたという深謀遠慮だったのかも知れません。家康は「ついに真田安房守に頭を下げさせたぞ」という嬉しさで、高笑いしていましたが、じつは秀吉の術中にはまっていた? この時点で、家康は、北条を助けて真田と戦うという集団的自衛権を発動できなくなり、真田を助けて北条と戦うという集団的自衛権を発動せねばならなくなってしまっていたのです。(余談ですが、メリケン氏の術中にはまって、中東にまで出兵しなければならなくなってしまった某国のようです)
既に秀吉には、北条を滅ぼすシナリオが頭の中にあったのかも? 昌幸を家康の与力とする秀吉の裁定の背後の意図をそこまで深く読んだことはありませんでした。今回の大河、深読みしていてすごいです。秀吉の智略、恐るべしといえるかも知れません。
また、お松姉さんの記憶が戻って本当によかった。パパの背中に小便をしたと言われても、源三郎の鼻をサワガニのハサミではさませていじめたと言われても、記憶は戻らないのに、きりのかかとがカサカサなのを見て記憶がよみがえるのか?? とも思いましたが、まあ、そこはいいか・・・・。
次はダンナの小山田茂誠さんとの再会の番ですね。果たしていつになるのでしょう? 来週のタイトルが恋路なので、早ければ来週にも?? はたして茂誠さんはいま何処?
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ところで、真田昌幸の上洛がどうして遅れたかということですが、北条との戦の最中なので昌幸が上田城を留守にはできなかったという理由が大きいと思います。家康が真田征伐を止めて上洛したら、すぐに昌幸が上洛できるかと言うと、引き続き北条がいつ攻めてくるか分からないので、簡単には上洛できません。北条は秀吉の「惣無事」になど従うつもりはありませんから。
ちなみに史実では、真田を徳川の与力にするというのは、前回放映の家康の上洛の際(天正14年10月)、直接、秀吉から家康に伝えていたそうです。その折に、真田の他に、小笠原貞慶と木曽義昌も家康与力になることが告げられていました。家康は上洛した折に、秀吉と相談し、昌幸らが与力になることを承知していたのでした。
今回のドラマでは、昌幸が上洛してその帰途に駿府に寄ったことになっていましたが、実際には、上洛前に昌幸にも家康の与力になることが通達されていたので、昌幸は先に駿府に寄って、その後、大坂城に行ったようです。
しかし当時、真田は上杉に属していました。秀吉の一存で勝手に真田を上杉から引き離して、徳川の与力にしてしまったわけです。これは、景勝が怒るでしょう。秀吉が、家康上洛の直後に、景勝に出した釈明の手紙があります(天正14年11月4日付)。内容は、「関東のことを家康と相談し、関東は家康に諸事任せることにした。真田は、小笠原、木曽とともに徳川へ返した。上杉の顔を立てて、不届きな真田を許してやったので、今回の措置も遺恨なきよう・・・・」という内容です。
景勝の顔を立てて、真田を許してやったのだから、真田を上杉から引き離して家康に付けるのも認めてくれ、ということです。景勝、この手紙読んで内心怒ったでしょうね。
読みようによっては、この時点で秀吉は北条に変えて家康に関東を任せると決めていた様子のようにも読めます。
それにしても、この文面から、上杉景勝は秀吉に対し、「真田を許してくれ」と頼んでいたことが伺われます。(景勝公、心より感謝申し上げます)
源次郎が秀吉の人質として大阪城に入ったのは、実際には、少なくとも、この後のことだと思われます。真田が上杉の与力でなくなったので、このとき、源次郎は上杉の人質でいる必要がなくなったからです。
そうなのですか。教えてくださってありがとうございました。