「数ある大河ドラマ『龍馬伝』の便乗本の一つかなあ」などと思いながら、書店でふとこの本が目にとまった。次の瞬間、副題に「悲劇の志士・赤松小三郎」とあるのが目に飛び込んできた。「まさか」と思いながら、夢中で手に取って中を確認した。この本の主人公は坂本龍馬ではなかった。赤松小三郎なのだ。
「ああ、『まさか』が現実になったのだ!」
感動のあまり手が震え、涙があふれそうになるのをこらえられなかった。いつの日か誰かが書いてくれるだろうとは思っていたが、ついにその日が訪れたのである。
著者の江宮隆之氏は、赤松小三郎という、薩摩藩の陰謀によって歴史から抹殺された悲劇の天才学者 ―数学者であり、科学者であり、兵学者であり、蘭学者であり、英学者であり、そして何よりも、日本で初めて出身に囚われない民主的議会制度の創設を幕府に対して建白した政治思想家であった― の生涯を、歴史の闇の中から救いだしてくれたのだ。
よほどの歴史好きでもその名を知らない赤松小三郎を主人公とした、初の一般向けの歴史小説である。この人物が広く世に知られる契機を生み出してくれたという点で、これが書かれた意義はあまりにも大きい。私は、赤松小三郎と同じ信州上田の出身者として、一人でも多くの日本人にこの本を読んでもらいたい、心からそう願うものである。また、上田の人間として、著者の江宮隆之氏に心からの感謝の気持ちを表明したい。
この小説は、元治元年(1864年)9月11日、第一次長州征伐戦争の最中に行われた勝海舟と西郷隆盛の会談から書き起こされる。そして小説は慶応4年(1868年)3月14日、新政府軍による江戸城総攻撃を前にして行われた歴史的な西郷=勝会談で幕を閉じる。
その二つの西郷=勝会談の章のあいだで、勝海舟と赤松小三郎の、そして西郷隆盛と赤松小三郎のあいだの数奇な、そして残酷で悲劇的な関係が描かれている。
小説のタイトルは『龍馬の影』だが、当の坂本龍馬はほとんど出てこない。しかし、坂本龍馬が起草したとされる「船中八策」は、赤松小三郎が、幕府顧問の松平春嶽に提出した上下二局の民主的議会制度の開設を求める建白書『御改正之一二端奉申上候口上書』を、そのまま箇条書きにしたものであるという事実は明らかにされる。
赤松が構想した二院制議会は、定数30人の上院こそ公卿と諸侯と旗本から構成されるという内容であったが、定数130人の下院は各藩を選挙区とした普通選挙によって議員を選出するという内容であった。これこそ、我が国において初めて時の政府に提言された民主的な議会制度の設立建白書だったのである。本来であれば、高校日本史の資料集にくらいは載ってもおかしくない文書なのだが、何故か無視されている。坂本龍馬の「船中八策」は、この要約版のレジュメのようなものである。
赤松小三郎がこの建白書を松平春嶽に提出したのが慶応3年(1867年)5月17日、そして長崎から船で上洛の途上、龍馬が後藤象二郎に提示したとされる船中八策は、文書化されたのは上洛の後、6月15日の京都の酢屋においてであった。この間に、誰かの手によって小三郎の建白書は龍馬に見せられていたのではないか? 著者は断定していないが、そのような推測が成り立つと言っている。その理由は、「上下議政局」という訳語を含めて、あまりにも両者が似ているからである。
赤松小三郎を幕末維新史の中に正当に位置付けようとすることは、幕末維新史の書き換えにもつながろう。「船中八策」の由来といったレベルに留まる問題ではない。
例えば、薩摩閥が主導した日本海軍の合理主義的精神の由来である。幕末の段階では、長州藩の方が自由闊達でリベラルな雰囲気が支配しており、薩摩藩の方は頑迷・固陋な保守的な性格が濃厚である。しかし明治になると、長州閥が支配した陸軍が次第に非合理な精神主義と形式主義に毒されていくのに対し、薩摩閥が支配した海軍は、陸軍に比べればはるかに近代的で合理的な思考が支配するようになっている。これは幕末における薩長両藩の性格を知る者にとっては、ある種の奇妙な逆転現象に思える。
赤松小三郎の存在は、その理由の一端を説明するかも知れない。東郷平八郎、樺山資紀、上村彦之丞など明治海軍の重鎮たちは、いずれも京都の薩摩藩邸において赤松小三郎から英国式兵学を叩き込まれた赤松の門弟なのである。卓越した数学的能力に裏打ちされた、徹底的に合理的で計算づくの戦術論を、前途有為な若き薩摩藩士たちに教え込んだのは赤松小三郎だったのだ。そして、薩摩の恩人である赤松を暗殺したのも薩摩であった。
小三郎暗殺の黒幕
江宮氏は、赤松小三郎にまつわるいくつかの謎を解こうとしている。まずは暗殺の黒幕である。実行犯は「人斬り半次郎」こと中村半次郎(後の桐野利秋)である。これは歴史学的に異論のない史実である。しかし江宮氏は「人斬り半次郎単独犯行説」を明確に否定する。黒幕はいたのである。薩摩藩・家老の小松帯刀は最後まで赤松小三郎を守ろうとしたと、著者は解釈している。中村半次郎を手足のように動かすことができた大物となると・・・、そう、あの方しかいない。著者も、「そうだ」と言明はしていないが、本書を読み進めれば「あの方」が黒幕であるということが暗黙の了解事項になる。私も著者の推理に同意するものである。
暗殺の動機
薩摩が小三郎を粛清した「真の動機」に関して、私が以前にこのブログで書いた内容と近い「動機」が本書でも指摘されていた。私は以前の記事で以下のように書いた。「薩摩藩が赤松を暗殺した真の動機はおそらく、武力討幕に反対し、出身にとらわれない機会平等な代議制の早期確立を主張した赤松のような開明学者の存在は、薩長の藩閥独裁権力を樹立する上で邪魔だと感じたからでしょう」と(この記事)。
東郷平八郎は知っていたのか?
赤松の門弟で、日本海軍の提督となった東郷平八郎と上村彦之丞は、日露戦争後の明治39年、信州上田を訪れ、師である赤松小三郎に弔意を表明した。その後、東郷平八郎の筆による赤松小三郎の顕彰碑が上田城の二の丸に建立されている。ちなみに私は高校時代、毎日その東郷の書いた赤松の碑の前を自転車で通学していたものだった・・・・。そして大学時代は、数奇なことに、暗殺された小三郎が埋葬された京都黒谷の金戒光明寺のすぐ近くで暮らした。
著者の江宮氏は、東郷平八郎は赤松を暗殺したのが薩摩藩であることを「知らなかったのだろう」と推測している。私は、先のブログ記事で、東郷は当然知っていて謝罪の意味も含めて赤松小三郎の顕彰碑を建てたのではないか、そう書いていた。これは実際のところはどうなのだろう。謎として残る。
勝海舟と赤松小三郎の師弟関係
これも謎が多い。著者の江宮氏は海舟には好意的な書き方をしている。勝海舟と赤松小三郎は共に長崎海軍伝習所の設立から閉鎖までの4年を、そこで学び、苦楽を共にした。龍馬と海舟の比ではないくらい、海舟と小三郎の師弟関係は深いのである。身分の低かった小三郎は、正規の伝習生(学生)にはなれず、「組外従士」、つまり師である勝海舟の従者のような形で、ようやく参加できたのである。
著者によれば、勝海舟のオランダ語能力では、とても海軍伝習所のオランダ人教授たちとの議論を単独で十分にこなすことはできず、卓抜した語学能力を持つ赤松の通訳を必要とした。また航海術や測量術などの授業も海舟の知識ではついていけず、赤松の数学や科学の知識による補佐があってはじめて理解することができた。海舟は実際に、長崎に行くまで掛け算、割り算も満足にできなかったというから、この著者の小説上での解釈には、「さもありなん」と思うのである。この説にも、真剣な歴史学的検討が必要であろう。
小説の中で、勝海舟はオランダ人教師のカッテンディーケを夜な夜な訪れて、「国民国家とは何か」などヨーロッパの政体と歴史について聞きとっていく。この際も、いつも勝の傍らにいて逐一通訳したのは小三郎であった。
小三郎は長崎にいた4年間でオランダ語の原書を74冊も読破し、さらには他の伝習生たちの学習を助けるために何冊もの翻訳も手がけている。疑う余地なく、幕府が派遣した正規の伝習生たちに比べ、勝の従者でしかない赤松の能力の方が卓越していたのだ。正規のエリート伝習生たちが、授業のあまりの難解さに根をあげて、長崎の遊郭に入り浸るようになる中、小三郎は黙々と航海術の習得と蘭学研究に打ち込むのである。
小説では、長崎海軍伝習所が閉鎖された際に、小三郎と海舟の師弟関係は、ある一点において思想的に相いれなくなり、いったんは断絶に近い状態になった。小三郎から見れば、長崎時代にはさんざん利用するだけ利用されて、勝からお払い箱にされた感じなのである。咸臨丸の渡米の際も、咸臨丸の操縦にもっとも熟達していたのが小三郎であるにも関わらず、そして小三郎は蘭語のみならず英語も理解するという稀有な能力を持っているにも関わらず、海舟は小三郎を咸臨丸に乗船させてくれなかった。小説では、咸臨丸への赤松の同乗を、勝が幕府に必死に懇願したにも関わらず、幕府から拒絶されたことになっている。この辺も実際の真相は分からない。
小説では、その後、神戸海軍塾が閉鎖され、龍馬たちと別れて失意のうちに海舟が江戸に蟄居していた際、小三郎が海舟の自宅を訪れて関係が修復されたことになっている。しかし、この辺の真相は実際のところどうなのであろう? 小三郎が海舟を訪れたことは、海舟の日記に現れるので事実であるが、両者の関係は本当に修復されたのだろうか?
海舟は、明治になってから、龍馬に関しては比較的多く語っている。しかし小三郎に関しては黙して語らずであった。卓越した頭脳の持ち主であった小三郎について語ることは、自分の恥の部分をさらすことにもなり、あまり語りたくはなかったのではなかろうか。海舟が小三郎について語らないこともあって、松浦玲氏のような非常に優れた勝海舟研究の第一人者でさえ、赤松小三郎の存在には注目していないのである。そして、小三郎は歴史の闇に葬られたままとなってきた。
この本はあくまでフィクションも交えた一般向けの小説であるが、著者が突き付けた問題提起は奥深いのではないだろうか。今後は、歴史学者の手による本格的な赤松小三郎の研究書の出版も期待したい。
死後142年がたっても、まだ赤松小三郎が日本史上に正当に位置づけられることはない。赤松の悲劇は、死後もなお続いている。著者は次のように言う。「小三郎は、龍馬の二歩も三歩も先を歩いた。しかし、歴史の神は、龍馬にはスポットライトを当てるが、小三郎にはピンライトさえ当ててはくれない」
スポットライトでなくともよい、せめて過不足のない、ささやかな明るさの光を、このあまりにも薄幸な学者かつ志士に注いで欲しいと願うのである。
「ああ、『まさか』が現実になったのだ!」
感動のあまり手が震え、涙があふれそうになるのをこらえられなかった。いつの日か誰かが書いてくれるだろうとは思っていたが、ついにその日が訪れたのである。
著者の江宮隆之氏は、赤松小三郎という、薩摩藩の陰謀によって歴史から抹殺された悲劇の天才学者 ―数学者であり、科学者であり、兵学者であり、蘭学者であり、英学者であり、そして何よりも、日本で初めて出身に囚われない民主的議会制度の創設を幕府に対して建白した政治思想家であった― の生涯を、歴史の闇の中から救いだしてくれたのだ。
よほどの歴史好きでもその名を知らない赤松小三郎を主人公とした、初の一般向けの歴史小説である。この人物が広く世に知られる契機を生み出してくれたという点で、これが書かれた意義はあまりにも大きい。私は、赤松小三郎と同じ信州上田の出身者として、一人でも多くの日本人にこの本を読んでもらいたい、心からそう願うものである。また、上田の人間として、著者の江宮隆之氏に心からの感謝の気持ちを表明したい。
この小説は、元治元年(1864年)9月11日、第一次長州征伐戦争の最中に行われた勝海舟と西郷隆盛の会談から書き起こされる。そして小説は慶応4年(1868年)3月14日、新政府軍による江戸城総攻撃を前にして行われた歴史的な西郷=勝会談で幕を閉じる。
その二つの西郷=勝会談の章のあいだで、勝海舟と赤松小三郎の、そして西郷隆盛と赤松小三郎のあいだの数奇な、そして残酷で悲劇的な関係が描かれている。
小説のタイトルは『龍馬の影』だが、当の坂本龍馬はほとんど出てこない。しかし、坂本龍馬が起草したとされる「船中八策」は、赤松小三郎が、幕府顧問の松平春嶽に提出した上下二局の民主的議会制度の開設を求める建白書『御改正之一二端奉申上候口上書』を、そのまま箇条書きにしたものであるという事実は明らかにされる。
赤松が構想した二院制議会は、定数30人の上院こそ公卿と諸侯と旗本から構成されるという内容であったが、定数130人の下院は各藩を選挙区とした普通選挙によって議員を選出するという内容であった。これこそ、我が国において初めて時の政府に提言された民主的な議会制度の設立建白書だったのである。本来であれば、高校日本史の資料集にくらいは載ってもおかしくない文書なのだが、何故か無視されている。坂本龍馬の「船中八策」は、この要約版のレジュメのようなものである。
赤松小三郎がこの建白書を松平春嶽に提出したのが慶応3年(1867年)5月17日、そして長崎から船で上洛の途上、龍馬が後藤象二郎に提示したとされる船中八策は、文書化されたのは上洛の後、6月15日の京都の酢屋においてであった。この間に、誰かの手によって小三郎の建白書は龍馬に見せられていたのではないか? 著者は断定していないが、そのような推測が成り立つと言っている。その理由は、「上下議政局」という訳語を含めて、あまりにも両者が似ているからである。
赤松小三郎を幕末維新史の中に正当に位置付けようとすることは、幕末維新史の書き換えにもつながろう。「船中八策」の由来といったレベルに留まる問題ではない。
例えば、薩摩閥が主導した日本海軍の合理主義的精神の由来である。幕末の段階では、長州藩の方が自由闊達でリベラルな雰囲気が支配しており、薩摩藩の方は頑迷・固陋な保守的な性格が濃厚である。しかし明治になると、長州閥が支配した陸軍が次第に非合理な精神主義と形式主義に毒されていくのに対し、薩摩閥が支配した海軍は、陸軍に比べればはるかに近代的で合理的な思考が支配するようになっている。これは幕末における薩長両藩の性格を知る者にとっては、ある種の奇妙な逆転現象に思える。
赤松小三郎の存在は、その理由の一端を説明するかも知れない。東郷平八郎、樺山資紀、上村彦之丞など明治海軍の重鎮たちは、いずれも京都の薩摩藩邸において赤松小三郎から英国式兵学を叩き込まれた赤松の門弟なのである。卓越した数学的能力に裏打ちされた、徹底的に合理的で計算づくの戦術論を、前途有為な若き薩摩藩士たちに教え込んだのは赤松小三郎だったのだ。そして、薩摩の恩人である赤松を暗殺したのも薩摩であった。
小三郎暗殺の黒幕
江宮氏は、赤松小三郎にまつわるいくつかの謎を解こうとしている。まずは暗殺の黒幕である。実行犯は「人斬り半次郎」こと中村半次郎(後の桐野利秋)である。これは歴史学的に異論のない史実である。しかし江宮氏は「人斬り半次郎単独犯行説」を明確に否定する。黒幕はいたのである。薩摩藩・家老の小松帯刀は最後まで赤松小三郎を守ろうとしたと、著者は解釈している。中村半次郎を手足のように動かすことができた大物となると・・・、そう、あの方しかいない。著者も、「そうだ」と言明はしていないが、本書を読み進めれば「あの方」が黒幕であるということが暗黙の了解事項になる。私も著者の推理に同意するものである。
暗殺の動機
薩摩が小三郎を粛清した「真の動機」に関して、私が以前にこのブログで書いた内容と近い「動機」が本書でも指摘されていた。私は以前の記事で以下のように書いた。「薩摩藩が赤松を暗殺した真の動機はおそらく、武力討幕に反対し、出身にとらわれない機会平等な代議制の早期確立を主張した赤松のような開明学者の存在は、薩長の藩閥独裁権力を樹立する上で邪魔だと感じたからでしょう」と(この記事)。
東郷平八郎は知っていたのか?
赤松の門弟で、日本海軍の提督となった東郷平八郎と上村彦之丞は、日露戦争後の明治39年、信州上田を訪れ、師である赤松小三郎に弔意を表明した。その後、東郷平八郎の筆による赤松小三郎の顕彰碑が上田城の二の丸に建立されている。ちなみに私は高校時代、毎日その東郷の書いた赤松の碑の前を自転車で通学していたものだった・・・・。そして大学時代は、数奇なことに、暗殺された小三郎が埋葬された京都黒谷の金戒光明寺のすぐ近くで暮らした。
著者の江宮氏は、東郷平八郎は赤松を暗殺したのが薩摩藩であることを「知らなかったのだろう」と推測している。私は、先のブログ記事で、東郷は当然知っていて謝罪の意味も含めて赤松小三郎の顕彰碑を建てたのではないか、そう書いていた。これは実際のところはどうなのだろう。謎として残る。
勝海舟と赤松小三郎の師弟関係
これも謎が多い。著者の江宮氏は海舟には好意的な書き方をしている。勝海舟と赤松小三郎は共に長崎海軍伝習所の設立から閉鎖までの4年を、そこで学び、苦楽を共にした。龍馬と海舟の比ではないくらい、海舟と小三郎の師弟関係は深いのである。身分の低かった小三郎は、正規の伝習生(学生)にはなれず、「組外従士」、つまり師である勝海舟の従者のような形で、ようやく参加できたのである。
著者によれば、勝海舟のオランダ語能力では、とても海軍伝習所のオランダ人教授たちとの議論を単独で十分にこなすことはできず、卓抜した語学能力を持つ赤松の通訳を必要とした。また航海術や測量術などの授業も海舟の知識ではついていけず、赤松の数学や科学の知識による補佐があってはじめて理解することができた。海舟は実際に、長崎に行くまで掛け算、割り算も満足にできなかったというから、この著者の小説上での解釈には、「さもありなん」と思うのである。この説にも、真剣な歴史学的検討が必要であろう。
小説の中で、勝海舟はオランダ人教師のカッテンディーケを夜な夜な訪れて、「国民国家とは何か」などヨーロッパの政体と歴史について聞きとっていく。この際も、いつも勝の傍らにいて逐一通訳したのは小三郎であった。
小三郎は長崎にいた4年間でオランダ語の原書を74冊も読破し、さらには他の伝習生たちの学習を助けるために何冊もの翻訳も手がけている。疑う余地なく、幕府が派遣した正規の伝習生たちに比べ、勝の従者でしかない赤松の能力の方が卓越していたのだ。正規のエリート伝習生たちが、授業のあまりの難解さに根をあげて、長崎の遊郭に入り浸るようになる中、小三郎は黙々と航海術の習得と蘭学研究に打ち込むのである。
小説では、長崎海軍伝習所が閉鎖された際に、小三郎と海舟の師弟関係は、ある一点において思想的に相いれなくなり、いったんは断絶に近い状態になった。小三郎から見れば、長崎時代にはさんざん利用するだけ利用されて、勝からお払い箱にされた感じなのである。咸臨丸の渡米の際も、咸臨丸の操縦にもっとも熟達していたのが小三郎であるにも関わらず、そして小三郎は蘭語のみならず英語も理解するという稀有な能力を持っているにも関わらず、海舟は小三郎を咸臨丸に乗船させてくれなかった。小説では、咸臨丸への赤松の同乗を、勝が幕府に必死に懇願したにも関わらず、幕府から拒絶されたことになっている。この辺も実際の真相は分からない。
小説では、その後、神戸海軍塾が閉鎖され、龍馬たちと別れて失意のうちに海舟が江戸に蟄居していた際、小三郎が海舟の自宅を訪れて関係が修復されたことになっている。しかし、この辺の真相は実際のところどうなのであろう? 小三郎が海舟を訪れたことは、海舟の日記に現れるので事実であるが、両者の関係は本当に修復されたのだろうか?
海舟は、明治になってから、龍馬に関しては比較的多く語っている。しかし小三郎に関しては黙して語らずであった。卓越した頭脳の持ち主であった小三郎について語ることは、自分の恥の部分をさらすことにもなり、あまり語りたくはなかったのではなかろうか。海舟が小三郎について語らないこともあって、松浦玲氏のような非常に優れた勝海舟研究の第一人者でさえ、赤松小三郎の存在には注目していないのである。そして、小三郎は歴史の闇に葬られたままとなってきた。
この本はあくまでフィクションも交えた一般向けの小説であるが、著者が突き付けた問題提起は奥深いのではないだろうか。今後は、歴史学者の手による本格的な赤松小三郎の研究書の出版も期待したい。
死後142年がたっても、まだ赤松小三郎が日本史上に正当に位置づけられることはない。赤松の悲劇は、死後もなお続いている。著者は次のように言う。「小三郎は、龍馬の二歩も三歩も先を歩いた。しかし、歴史の神は、龍馬にはスポットライトを当てるが、小三郎にはピンライトさえ当ててはくれない」
スポットライトでなくともよい、せめて過不足のない、ささやかな明るさの光を、このあまりにも薄幸な学者かつ志士に注いで欲しいと願うのである。
午後6時から
須坂市『福寿荘』で
最新刊「龍馬の影」を
題材に小さな講演会が
開催されます。
詳しくは『福寿荘』へ
お問い合わせ下さい。
須坂といえば、幕末の須坂藩主にして若年寄も務めた堀直虎公は、赤松小三郎から砲術を学んだそうですね。
鳥羽・伏見の戦いの後、薩長の攻撃を受ける中で、直虎公は自刃してしまうのですが、彼も「赤松が生きていれば・・・・」と悔やんだのではないでしょうか。
5月16日、上田市で赤松小三郎を偲ぶイベントが開催されるとのこと。
江宮氏の作品を読んだ小三郎関係者からの依頼で、式典?後に江宮氏の講演があるとか。
詳しい内容はまだはっきりしませんが、開催は確実です。
堀直虎公は実に興味深いですね。
自刃の真実もいまだ謎とされているし、何より資料があまり世に出ていないので、想像は膨らむばかり。
新資料が出てくることを期待しつつ、細々須坂で調査継続中です。
私は直虎公を調べていて小三郎に出会いました。歴史は作られているところがあるから、伝えられていることも見直しが必要です。
まさに直虎公も小三郎もきちんと位置づけ再評価されるべき人物です。
直虎公は、今は地元須坂でも認知度は決して高くないです。それが私にはとっても寂しく感じます。
小三郎は、江宮氏の作品がきっかけで多くの人が知るところとなりました。やっと、という思いと何かしら大切に温めていたものをとられた時のような不思議な気持ちの両方があって、ちょっと複雑です。
コメントありがとうございました。管理人です。ブログを放置しており返信遅れてしまい申し訳ございませんでした。「西郷どん」本編には赤松小三郎は絶対に出ないと思われます(出演すると主人公が悪役に代わってしまうため・・・)。
「英雄たちの選択」(2018年1月3日放送)で赤松小三郎がちょっと紹介されるそうです。少しづつですが、赤松小三郎が復権しつつあります。