前々回の記事で書いた赤松小三郎についてもう少し論じたい。
赤松小三郎暗殺事件の真相を明らかにし、赤松の業績を正当に評価し、その名誉を回復することは、単に、歴史オタクの「埋もれた人物発掘」というような次元の話にはとどまらない。日本という国の近代の「始まりの始まり」を問い直し、近代日本が原罪として背負ったもの ―それは結局のところ、靖国神社の建設と愚かな15年戦争へとつながってしまうところの原罪であった― を明らかにすることにもつながると思うからだ。そしてその原罪は、今に至るまで、住民を排除しながら行われる密室政治や、目ざわりな異論は恫喝によって黙らせるといった、永田町や霞が関の「文化」となって引き続いている。
新しい「維新」を起こすためには、前の「維新」の、そもそものつまづきの元を明らかにする必要があるだろう。
私の中には、赤松の「無念の想い」が宿っている。まず以下のことをどうしても書かずにはいられなくなった。
今から22年前。私が、京都に移り住んだ当初、ヒマがあれば史跡めぐりをしていた。下宿をはじめて2~3日後だったと思う、少し身の回りが落ち着いてきたので、夕暮れどきに、下宿の近くの黒谷の金戒光明寺を訪ねてみた。
山門脇の参道に立派な石積みが連なっているのを見て圧倒される。「これが会津藩の本陣があった金戒光明寺かぁ。さすがに、これは『寺』というよりはちょっとした城郭だなぁ」と感心しながら、城の大手門のように立派な山門をくぐり抜け、境内に入った。
「あ、あんなところに三重塔がある」。境内の一番高いところには文殊塔という重文の塔があり、そこに自然に引き寄せられていた。夕焼けを浴びて三重塔は紅く染まっていた。幻想的な光景だった。次いで、鳥羽伏見の戦いで戦死した会津藩士たちの墓地を見つけたので、そこに足を運び、黙祷を捧げた。
その帰路のことである。会津藩墓地からの下り坂を下りてくると、何か磁場のような、私を呼びとめるような何かを、確かに感じた。その、何かを感じた方向を見たら、そこには何と「赤松小三郎墓」と書いてあったのである。
「えーっ、何でこんなところに赤松小三郎の墓があるんだ!」
びっくりしたなんてもんじゃなかった。私は赤松と同郷の上田の人間なので当然、中村半次郎(桐野利秋)に斬殺され、無念の最期を遂げた郷土の偉人を知っていた。しかし赤松の墓が金戒光明寺にあるという知識は全くなかった。自然に引き寄せられて、気がついたら墓石の前に立っていたのだった。
私は合掌して墓石を拝んだ。すると、「無念だ、無念だ」という赤松の声が聞こえたような気がした。
墓石の壁面に書いてあった墓誌を読んだ。判読しにくかったし、私の能力では、全文を理解することはできなかった。しかし、赤松を暗殺した当の薩摩藩がこの墓石を建て、赤松の業績をたたえ、「赤松が暗殺されて残念で仕方ありません」といった破廉恥きわまりない弁明をしていることは容易にわかった。「こいつら、しらじらしいなー」と怒りがこみあげてきた。
それにしても、何でこんなところに赤松の墓があるのだろう? ここは会津藩の本陣。ということは、薩摩にとっては敵の陣営ではないか。何で敵の本陣の中に、薩摩が墓を建てられたんだ??
あ、そうか赤松が暗殺された時点では、薩長同盟はまだ極秘であり、薩摩も表面的には会津とは敵対していないことになっていたのか・・・・。しかし、会津藩の側は薩摩の様子がおかしいとは感じなかったのだろうか? だとしたらノンキなものだなあ。
それにしても薩摩藩め、しらじらしいなあ。再度、怒りがこみあげてきた。やはり、こんな破廉恥なことを平気でできる連中がつくった「新政府」なんて、最初からろくなもんじゃなかったのではないか、そう思わざるを得なかった。
墓石は剥離しかかっていて、それを抑えるためか、何重にも鉄線が巻かれていた。痛々しいなんてもんじゃなかった。まるで誰かが、赤松の無念の魂が解き放たれないように、鉄線で巻いて封じ込めようとしているかの如くであった。
墓石の下の赤松が「ここから出してくれ」と訴えているような気がして、自然に涙があふれてきていた。死してなお、鉄鎖によって呪縛されている。何てかわいそうなのだろう。
私は、地下の赤松小三郎に呼び寄せられてここに来たのだ。 ――そうとしか解釈しようのない不思議な感覚だった。
「赤松小三郎の名誉を回復するために、自分に何ができるのだろう?」
自分は理系だったので歴史学者になどなれるわけもないし、赤松を主人公にした小説を書こうと思っても文才は全くないし・・・・・。
目の前で「無念だ」と叫んでいる赤松の霊を前にして、私は何をしてあげることもできない・・・そう思って途方にくれた。日はドップリと暮れて、あたりはもう暗くなっていた。私は赤松の墓石に向かって30分以上も対話をしていた。
「私はあなた様のような優れた才能を持たないけれども、あなた様の同郷人として恥ずかしくないよう、精一杯学問に励みます。今の私では何もできません。学成り、何がしかの人間になったら、あなた様の名誉を回復するために何かができるかも知れません。それまでどうか待って下さい。今はお許しください」
心の中で、墓石にそう語りかけて、その場を辞したのだった。
ああ、できることならば、薩摩が造った欺瞞の固まりのような墓石の中から、赤松の遺骨を救い出してあげたい。赤松の遺骨を取り出し、あらためて供養し、故郷の上田の月窓寺にある赤松の遺髪墓へ再埋葬してあげたい・・・・・。薩摩の汚らしい陰謀で塗り固められた墓石の中では、いつまでたっても小三郎の霊は成仏できないだろう。
あれから22年。作家の江宮隆之氏が赤松小三郎を主人公とした小説『龍馬の影 -悲劇の志士・赤松小三郎-』を出版したのを書店で見つけ、手にとるなり涙があふれてきたのは、このような原体験があったからだった。
何故か、プロの歴史学者たちは赤松小三郎に冷たいように見える。いまだに、上田地方の郷土史家を除けば、歴史学者は赤松を題材にした論文もろくに書いてくれないし、いわんや赤松小三郎の評伝が書かれることなどないのである。
ネットで赤松小三郎について検索すると、非歴史学者の在野の方々で、事件の真相をつかみ、赤松の業績を評価し、その死を惜しんでいる方々が多いことがわかる。やはり、分かる人には分かるのである。今回と次回にかけて、いくつかネットで見つけた記事を紹介してみたい。
私はネットで赤松小三郎に関する記事を検索しながら、以下の記事を見つけたときには本当に驚いた。以下は、演劇家の岡村宏懇氏のブログ記事からの引用である。なんと、黒谷で、ほぼ私と同じような体験をしていたのである。
以下下記サイトより引用
http://mopokamura.exblog.jp/5009710/
***引用開始*****
(前略)
薩摩は赤松が邪魔になったんで自分んとこで赤松を始末しておきながら、対外的には左幕派のやつらに赤松は殺されたんだと被害者面を決め込んで、赤松の死をカモフラージュしたんだ。なぜそうする必要があったのかという俺なりの推理もここでは省くけど、そんなことどもが、赤松の墓石の背面に刻まれた“刻文”を読んでたら、だんだん手に取るように読み取れてきて、ゾッとしたな……、赤松の無念さが俺にそれを訴え、読み取らせたような気も……考えすぎか。墓と対話してしまった“瞬間”というのを感じたな、その時。ミステリーというべきか。
そんなたわいもない俺のちょっとした発見話が、歴史家の目にとまって『坂本龍馬101の謎』という本の中で、文献として引用されたこともある(写真は、同書180ページのその箇所)。ある意味、このことの方がミステリーか…f(^_^;)
(後略)
***引用終わり******
岡村氏も、赤松の墓石に向かって、私と同じような対話をしていたのだ。やはり赤松小三郎は今でも墓石の中で、「無念だ、無念だ」と近くを通る人々に訴えかけているのだ。
しかし岡村氏のケースはすごい。岡村氏が赤松の墓石と対話して得た結論が、歴史家の目にとまって『坂本龍馬101の謎』という本で引用されたというのである。
この記事を読んで、さっそく、菊池明他著『坂本龍馬101の謎』(新人物文庫)を買ってきて読んでみた。わずか3ページではあったが、確かに赤松の記述はあった。そして、菊池明氏は、薩摩が赤松を暗殺した「真の動機」に関して、私と同様の見方をしていてくれた。しかし、私が買った文庫版には岡村氏の文章からの引用はなかった。ただ、原本にはあったようである。
菊池明氏は次のように書く。
「赤松の建白書に述べられた持論が、彼の塾ではもちろん、教授先の薩摩藩士らにも示されていたことは疑えない。この赤松の論を薩摩は斬って捨てたのだ」と。
(菊池明他、前掲書、261ページ)
「建白書」の内容は、先にも書いたとおり、天皇家と幕府の合体(天幕一和)による、武力討幕ではない平和的な新政権の樹立、そして上下二院制議会の開設などの提案であった。上院(定数30)は、朝廷と幕府と諸藩の融合の象徴として、公卿と諸侯と旗本の代表で構成される。そして、下院(定数130)は、各藩を選挙区として、身分を問わずだれでも立候補でき、投票で議員を選ぶ。
それは、誰かが勝者で、誰かが敗者となるような悲劇の起こらないような、そしてもちろん、特定の藩の出自の者たちに日本が支配されることのないような、民主的な統一国家の建設構想だった。薩摩は、この構想の実現を恐れ、赤松を斬って捨てたのである。
それにしても、岡村氏のこのエピソードはすごい。死せる赤松の無念が、岡村氏に宿り、それがプロの歴史家をも動かして、事件の真相を本の中にまで書かせたことになる。何かミステリー小説のような話だが、これは実際に起こったことなのだ。
(つづく)
赤松小三郎暗殺事件の真相を明らかにし、赤松の業績を正当に評価し、その名誉を回復することは、単に、歴史オタクの「埋もれた人物発掘」というような次元の話にはとどまらない。日本という国の近代の「始まりの始まり」を問い直し、近代日本が原罪として背負ったもの ―それは結局のところ、靖国神社の建設と愚かな15年戦争へとつながってしまうところの原罪であった― を明らかにすることにもつながると思うからだ。そしてその原罪は、今に至るまで、住民を排除しながら行われる密室政治や、目ざわりな異論は恫喝によって黙らせるといった、永田町や霞が関の「文化」となって引き続いている。
新しい「維新」を起こすためには、前の「維新」の、そもそものつまづきの元を明らかにする必要があるだろう。
私の中には、赤松の「無念の想い」が宿っている。まず以下のことをどうしても書かずにはいられなくなった。
今から22年前。私が、京都に移り住んだ当初、ヒマがあれば史跡めぐりをしていた。下宿をはじめて2~3日後だったと思う、少し身の回りが落ち着いてきたので、夕暮れどきに、下宿の近くの黒谷の金戒光明寺を訪ねてみた。
山門脇の参道に立派な石積みが連なっているのを見て圧倒される。「これが会津藩の本陣があった金戒光明寺かぁ。さすがに、これは『寺』というよりはちょっとした城郭だなぁ」と感心しながら、城の大手門のように立派な山門をくぐり抜け、境内に入った。
「あ、あんなところに三重塔がある」。境内の一番高いところには文殊塔という重文の塔があり、そこに自然に引き寄せられていた。夕焼けを浴びて三重塔は紅く染まっていた。幻想的な光景だった。次いで、鳥羽伏見の戦いで戦死した会津藩士たちの墓地を見つけたので、そこに足を運び、黙祷を捧げた。
その帰路のことである。会津藩墓地からの下り坂を下りてくると、何か磁場のような、私を呼びとめるような何かを、確かに感じた。その、何かを感じた方向を見たら、そこには何と「赤松小三郎墓」と書いてあったのである。
「えーっ、何でこんなところに赤松小三郎の墓があるんだ!」
びっくりしたなんてもんじゃなかった。私は赤松と同郷の上田の人間なので当然、中村半次郎(桐野利秋)に斬殺され、無念の最期を遂げた郷土の偉人を知っていた。しかし赤松の墓が金戒光明寺にあるという知識は全くなかった。自然に引き寄せられて、気がついたら墓石の前に立っていたのだった。
私は合掌して墓石を拝んだ。すると、「無念だ、無念だ」という赤松の声が聞こえたような気がした。
墓石の壁面に書いてあった墓誌を読んだ。判読しにくかったし、私の能力では、全文を理解することはできなかった。しかし、赤松を暗殺した当の薩摩藩がこの墓石を建て、赤松の業績をたたえ、「赤松が暗殺されて残念で仕方ありません」といった破廉恥きわまりない弁明をしていることは容易にわかった。「こいつら、しらじらしいなー」と怒りがこみあげてきた。
それにしても、何でこんなところに赤松の墓があるのだろう? ここは会津藩の本陣。ということは、薩摩にとっては敵の陣営ではないか。何で敵の本陣の中に、薩摩が墓を建てられたんだ??
あ、そうか赤松が暗殺された時点では、薩長同盟はまだ極秘であり、薩摩も表面的には会津とは敵対していないことになっていたのか・・・・。しかし、会津藩の側は薩摩の様子がおかしいとは感じなかったのだろうか? だとしたらノンキなものだなあ。
それにしても薩摩藩め、しらじらしいなあ。再度、怒りがこみあげてきた。やはり、こんな破廉恥なことを平気でできる連中がつくった「新政府」なんて、最初からろくなもんじゃなかったのではないか、そう思わざるを得なかった。
墓石は剥離しかかっていて、それを抑えるためか、何重にも鉄線が巻かれていた。痛々しいなんてもんじゃなかった。まるで誰かが、赤松の無念の魂が解き放たれないように、鉄線で巻いて封じ込めようとしているかの如くであった。
墓石の下の赤松が「ここから出してくれ」と訴えているような気がして、自然に涙があふれてきていた。死してなお、鉄鎖によって呪縛されている。何てかわいそうなのだろう。
私は、地下の赤松小三郎に呼び寄せられてここに来たのだ。 ――そうとしか解釈しようのない不思議な感覚だった。
「赤松小三郎の名誉を回復するために、自分に何ができるのだろう?」
自分は理系だったので歴史学者になどなれるわけもないし、赤松を主人公にした小説を書こうと思っても文才は全くないし・・・・・。
目の前で「無念だ」と叫んでいる赤松の霊を前にして、私は何をしてあげることもできない・・・そう思って途方にくれた。日はドップリと暮れて、あたりはもう暗くなっていた。私は赤松の墓石に向かって30分以上も対話をしていた。
「私はあなた様のような優れた才能を持たないけれども、あなた様の同郷人として恥ずかしくないよう、精一杯学問に励みます。今の私では何もできません。学成り、何がしかの人間になったら、あなた様の名誉を回復するために何かができるかも知れません。それまでどうか待って下さい。今はお許しください」
心の中で、墓石にそう語りかけて、その場を辞したのだった。
ああ、できることならば、薩摩が造った欺瞞の固まりのような墓石の中から、赤松の遺骨を救い出してあげたい。赤松の遺骨を取り出し、あらためて供養し、故郷の上田の月窓寺にある赤松の遺髪墓へ再埋葬してあげたい・・・・・。薩摩の汚らしい陰謀で塗り固められた墓石の中では、いつまでたっても小三郎の霊は成仏できないだろう。
あれから22年。作家の江宮隆之氏が赤松小三郎を主人公とした小説『龍馬の影 -悲劇の志士・赤松小三郎-』を出版したのを書店で見つけ、手にとるなり涙があふれてきたのは、このような原体験があったからだった。
何故か、プロの歴史学者たちは赤松小三郎に冷たいように見える。いまだに、上田地方の郷土史家を除けば、歴史学者は赤松を題材にした論文もろくに書いてくれないし、いわんや赤松小三郎の評伝が書かれることなどないのである。
ネットで赤松小三郎について検索すると、非歴史学者の在野の方々で、事件の真相をつかみ、赤松の業績を評価し、その死を惜しんでいる方々が多いことがわかる。やはり、分かる人には分かるのである。今回と次回にかけて、いくつかネットで見つけた記事を紹介してみたい。
私はネットで赤松小三郎に関する記事を検索しながら、以下の記事を見つけたときには本当に驚いた。以下は、演劇家の岡村宏懇氏のブログ記事からの引用である。なんと、黒谷で、ほぼ私と同じような体験をしていたのである。
以下下記サイトより引用
http://mopokamura.exblog.jp/5009710/
***引用開始*****
(前略)
薩摩は赤松が邪魔になったんで自分んとこで赤松を始末しておきながら、対外的には左幕派のやつらに赤松は殺されたんだと被害者面を決め込んで、赤松の死をカモフラージュしたんだ。なぜそうする必要があったのかという俺なりの推理もここでは省くけど、そんなことどもが、赤松の墓石の背面に刻まれた“刻文”を読んでたら、だんだん手に取るように読み取れてきて、ゾッとしたな……、赤松の無念さが俺にそれを訴え、読み取らせたような気も……考えすぎか。墓と対話してしまった“瞬間”というのを感じたな、その時。ミステリーというべきか。
そんなたわいもない俺のちょっとした発見話が、歴史家の目にとまって『坂本龍馬101の謎』という本の中で、文献として引用されたこともある(写真は、同書180ページのその箇所)。ある意味、このことの方がミステリーか…f(^_^;)
(後略)
***引用終わり******
岡村氏も、赤松の墓石に向かって、私と同じような対話をしていたのだ。やはり赤松小三郎は今でも墓石の中で、「無念だ、無念だ」と近くを通る人々に訴えかけているのだ。
しかし岡村氏のケースはすごい。岡村氏が赤松の墓石と対話して得た結論が、歴史家の目にとまって『坂本龍馬101の謎』という本で引用されたというのである。
この記事を読んで、さっそく、菊池明他著『坂本龍馬101の謎』(新人物文庫)を買ってきて読んでみた。わずか3ページではあったが、確かに赤松の記述はあった。そして、菊池明氏は、薩摩が赤松を暗殺した「真の動機」に関して、私と同様の見方をしていてくれた。しかし、私が買った文庫版には岡村氏の文章からの引用はなかった。ただ、原本にはあったようである。
菊池明氏は次のように書く。
「赤松の建白書に述べられた持論が、彼の塾ではもちろん、教授先の薩摩藩士らにも示されていたことは疑えない。この赤松の論を薩摩は斬って捨てたのだ」と。
(菊池明他、前掲書、261ページ)
「建白書」の内容は、先にも書いたとおり、天皇家と幕府の合体(天幕一和)による、武力討幕ではない平和的な新政権の樹立、そして上下二院制議会の開設などの提案であった。上院(定数30)は、朝廷と幕府と諸藩の融合の象徴として、公卿と諸侯と旗本の代表で構成される。そして、下院(定数130)は、各藩を選挙区として、身分を問わずだれでも立候補でき、投票で議員を選ぶ。
それは、誰かが勝者で、誰かが敗者となるような悲劇の起こらないような、そしてもちろん、特定の藩の出自の者たちに日本が支配されることのないような、民主的な統一国家の建設構想だった。薩摩は、この構想の実現を恐れ、赤松を斬って捨てたのである。
それにしても、岡村氏のこのエピソードはすごい。死せる赤松の無念が、岡村氏に宿り、それがプロの歴史家をも動かして、事件の真相を本の中にまで書かせたことになる。何かミステリー小説のような話だが、これは実際に起こったことなのだ。
(つづく)
その作品を今年10月再演するそうです。
まぁ、ちょっと風変わりな作品ですが・・・。