ほとんど誰も認識していないとことであるが、本日(2017年5月17日)は、日本で初めて議会制民主主義の憲法構想が提唱されて150周年記念日になる。旧暦と新暦の違いはあるが、ちょうど150年前の慶応3年(1867年)5月17日、信州上田の松平伊賀守家中の下級武士・赤松小三郎が、先の越前侯にして公儀・政事総裁職でもあった松平春嶽に「御改正口上書」を提出した。
松平春嶽の政治記録書である『続再夢紀事』の慶応3年5月17日の記録として、「同日赤松小三郎来り意見書を出す 赤松ハ松平伊賀守殿の臣なり 今左にこれを附記す」と記され、小三郎建白書の全文が転記されている。
正確な日付は不明であるが、同じく5月に、赤松小三郎は薩摩の国父・島津久光と徳川政権にたいしても、ほぼ同じ内容の建白書を提出している。
赤松小三郎の建白書は、普通選挙で選出された議会が、「国事のすべてを議論し、決定する」という議会を国権の最高機関とする統治機構論、さらに、法の下の平等、国民一人ひとりの個性の尊重、職業選択の自由などの人権条項をも含む内容であり、日本最初の民主的な憲法構想といってよい内容であった。
日本において、財産制限のない成人男子の普通選挙権(=男性選挙権)が認められたのが1925年、女性も含む完全な普通選挙権が認められたのは1945年を待たねばならない。赤松小三郎は、それより78年前に、財産制限のない男女普通選挙権を構想していた。
しかも、赤松小三郎が構想した「議政局」は、首相のみならず、全閣僚と各省の事務次官レベルの高官の任命権を持つなど、現行憲法と比べても、立法府の権限が行政府に対して優越することを明確に規定する内容であった。
じつはこの幻の憲法構想は、実現一歩手前の段階まで来ていたのである。明治に出現した祭政一致の専制体制は、歴史の必然ではなく、日本近代には「別の道」があり得たのだ。その実証を試みたのが、拙著『赤松小三郎ともう一つの明治維新』(作品社)。
手前ミソで恐縮ですが、「幕末における幻の民主憲法構想」、興味のある方はぜひ読んでみてください。
松平春嶽の政治記録書である『続再夢紀事』の慶応3年5月17日の記録として、「同日赤松小三郎来り意見書を出す 赤松ハ松平伊賀守殿の臣なり 今左にこれを附記す」と記され、小三郎建白書の全文が転記されている。
正確な日付は不明であるが、同じく5月に、赤松小三郎は薩摩の国父・島津久光と徳川政権にたいしても、ほぼ同じ内容の建白書を提出している。
赤松小三郎の建白書は、普通選挙で選出された議会が、「国事のすべてを議論し、決定する」という議会を国権の最高機関とする統治機構論、さらに、法の下の平等、国民一人ひとりの個性の尊重、職業選択の自由などの人権条項をも含む内容であり、日本最初の民主的な憲法構想といってよい内容であった。
日本において、財産制限のない成人男子の普通選挙権(=男性選挙権)が認められたのが1925年、女性も含む完全な普通選挙権が認められたのは1945年を待たねばならない。赤松小三郎は、それより78年前に、財産制限のない男女普通選挙権を構想していた。
しかも、赤松小三郎が構想した「議政局」は、首相のみならず、全閣僚と各省の事務次官レベルの高官の任命権を持つなど、現行憲法と比べても、立法府の権限が行政府に対して優越することを明確に規定する内容であった。
じつはこの幻の憲法構想は、実現一歩手前の段階まで来ていたのである。明治に出現した祭政一致の専制体制は、歴史の必然ではなく、日本近代には「別の道」があり得たのだ。その実証を試みたのが、拙著『赤松小三郎ともう一つの明治維新』(作品社)。
手前ミソで恐縮ですが、「幕末における幻の民主憲法構想」、興味のある方はぜひ読んでみてください。
この間、あまりにも多忙で返信が遅れてしまい申し訳ございませんでした。真田丸ブームが一段落した中で、赤松小三郎目当てで上田に行ってくださったとのこと感謝の念にたえません。
ご旅行はいかがだったでしょうか? 小三郎関係の史跡はあまり多くないので、行ってがっかりされていないかと心配でもあります。
本当にありがとうございました。
案内板やのぼり、
石碑は、市からの補助金で何とか作ることができたとのことでした。地元でも赤松小三郎を知っている人がまだ少数のようですが、以前から小三郎の生誕地をたずねて来る方が結構いるそうですので、関さんのような方の研究が進むことで、これから少しづつ多くの人たちの知るところとなると思います。そうなることを私は心から願っています。息子が自分の旅ブログに書いてましたが、赤松小三郎のことを知るには、関さんの著書「赤松小三郎ともう一つの明治維新」を読むのが一番だと、私もその通りだと思っています。もしまたチャンスが出来たら、上田に行ってみたいと思います。
>招魂社の敷地に小三郎記念館があるのか
私もこの経緯はよくわかりません。上田招魂社は、上田城址の広大な敷地を占拠していまして・・・・。これも戊辰戦争当事の長州官軍の威光のなせる技だったのでしょう。
全国どこの招魂社もそうだと思いますが、戦没者遺族が少なくなって、維持困難になりつつあるようです。いずれ、戦争と戦死を招き寄せる「招魂」社の歴史に幕を引かねばらないと思います。