経済産業省によれば、3月9日の記事でも紹介した、中央環境審議会による「温暖化対策のための年間7000億円の追加対策費」という提案は、「バラマキ」になるのだそうです。
経済産業省までもがこんな愚かな主張をするとは、あっけにとられて言葉を失います。産業政策と行政指導によって日本の競争力の源を築いてきた、かつての通産省の栄光は何処にいったのでしょうか? 経済産業省まで市場原理主義に陥ってしまったら、もう日本もおしまいですね。
最近、「財政難」「バラマキ反対」という誤った「錦の御旗」が掲げられて、温暖化対策のための技術改革を支援するような、前向きの公共投資までもが阻害されています。
そこでこの記事では、政府の公共投資が「不効率」で「バラマキ」になるという、市場原理主義者たちの発する命題の真偽を、いま一度検証してみたいと思います。
市場原理主義者たちは、民間が行う投資は「善」で、政府が行う投資は「悪」であるかのようなことを平然と言います。彼らは、市場に基づく民間の活動こそが効率的なのであり、政府は不効率で必ず失敗すると、イデオロギー的に信じているからです。これは本当におかしな話です。民間が行おうが政府が行おうが、悪い投資は悪く、良い投資は良いのです。
日本のバブル経済期には、民間投資が非常に活発だったので、政府は赤字国債などほとんど出さずに済んでいました。銀行から資金を借りたのは、今とは逆に、政府ではなく民間だったのです。
それでは、その投資活動は正しかったのでしょうか? 市場原理主義者の言説によれば、その答えは「Yes」でなければならないはずです。
バブル時代に盛んに行われた民間投資は、地方だったらゴルフ場開発やリゾート開発、都市部でしたら町並みを破壊して行われるオフィスビル建設とかマンション建設などでした。いずれも、土地やゴルフ場会員券などの価格が上昇し続けるという「右肩上がり神話」を狂信して行われた投機活動であり、環境破壊活動でした。周知のようにバブルははじけて、銀行から資金を借りて投機活動を行っていた企業は大借金を抱えることになったのです。これが「失われた10年」を生み出した根本原因です。
バブル時代に行われた民間のバカげた投資活動に比べれば、その後の10年間に政府が景気対策として行ってきた「無駄」で「役に立たない」公共事業・公共投資の方が、まだしも犯罪性は少ないと、私は思います。バブル期に銀行に騙されてマンション建設などに投資した個人は、バブル崩壊で破産に追い込まれました。銀行に無理矢理に資金を貸しつけられて破産した個人は100万人とも言われております。その中のどれだけが一家離散、精神障害、さらには自殺などに追い込まれているのか知れません。
それに比してバブル後における日本政府の「ヒグマよりも車の交通量の方が少ないような道路」への投資の場合、少なくともそれによって罪のない人々が自殺に追い込まれるようなことはないし、むしろそれがなければ路頭に迷っていたはずの人々を救ってきたという側面の方が強いでしょう。
バブル期のゴルフ場建設も、バブル崩壊後に行われた無駄な道路建設も、不良債権を生み出しているという点においては何ら変わらないのです。民間も政府も両方が間違える可能性もあるし、成功する可能性もあるのです。
しかし政府のために弁護するならば、バブル崩壊後の「無駄な」公共事業は、バブル期に土地転がしを行って莫大な借金を抱えたゼネコンを救済するために行っているという側面が強いので、元を正せばバブル期の誤まった民間投資が諸悪の根源ということになります。政府は、「市場の失敗」によって大借金を抱えたゼネコンを救おうと、強引な公共事業を行って、ゼネコンの借金を肩代わりしているともいえます。
新古典派経済学者(=市場原理主義者)たちは、その後の10年の公共事業を「政府の失敗」といって批判の槍玉に上げます。その大元には、バブル期の「市場の失敗」「民間の失敗」があるにも関わらず、彼らの視界にはそうしたものは入ってこないのでしょう。
私は、日本政府の肩を持つわけではありませんが、マスコミが、バブル期における銀行の社会的犯罪という不良債権の根本原因を棚にあげたまま、その後の尻拭いとして行われている政府の借金のみを糾弾し続けるのは、どう考えてもバランスを欠いた不当な世論だと思います。
今の日本の惨状は、「政府の失敗」が生み出したものではありません。バブル経済という「市場の失敗」によって生み出されたものなのです。政府は、その後の事態の修復に確かに失敗はしました。しかしそれは「市場の失敗」の規模が、とてつもなく大きいものだったので、従来のやり方が通用しなかったからです。
「政府が国債を発行して公共投資を行うのは、将来の増税を招くので、次世代に迷惑をかける。であるから赤字国債による公共投資・公共事業は行うべきではない」と言われます。
これも全くおかしな議論です。社会に迷惑をかけるのは、その投資が長期的に意味を持たなかったときなのであり、民間投資か政府投資かは関係ありません。
民間投資だって、バブル期の投機活動のようなものなのであれば、結局は銀行の不良債権になるだけです。ここで政府が個人の預金を保護しようと思えば、公的資金(=税金)を投入しても救済せざるを得ないのであり、結局、増税につながります。政府が個人の預金を保護しないのであれば増税は発生しなくても、預金者が自分の資産をみすみす失うことになり、不特定多数の人々にとんでもない迷惑をかけます。それによって被害を受ける罪のない人々の痛手は、増税などの比ではないでしょう。
バブル時代には民間が700兆円借金しても褒められていたのに、民間の資金需要がなくなった結果、仕方なく政府が700兆円借金したら糾弾されるなんて、こんなにおかしな話はございません。国全体で700兆円の借金があるという事実には何ら変わりなのです。しかもその借金の質は、明らかにバブル時代の民間の借金の方が「より誤っていた」のです。
誤って使われれば罪のない人々に多大な負担を強いる可能性があるという点においては、「政府の借金」も「民間の借金」も質的に何も変わりはないのです。銀行に山のような貯蓄がある以上、誰かがそれを引き出して投資活動に使わねばならないのですから、潜在的なリスクは必然的に存在するのです。
繰り返し言いますが、民間投資でも政府の公共投資でも、それが将来の増税につながるとしたら、その投資が長期的に役に立たなかったときです。赤字国債で必要もないダムや道路を今後も建設し続けるならば、それは必ずや将来の増税につながるでしょう。
しかし、このブログで論じているように、エコテクノロジー革命を引き起こすための戦略的分野に公共投資を重点投入するならば、コンドラチェフの長期循環を引き起こし、増税などなくても、将来的には新しい環境保全型産業から上がってくる税収の自然増加によって十二分に借金は返済できるのです。
経済産業省までもがこんな愚かな主張をするとは、あっけにとられて言葉を失います。産業政策と行政指導によって日本の競争力の源を築いてきた、かつての通産省の栄光は何処にいったのでしょうか? 経済産業省まで市場原理主義に陥ってしまったら、もう日本もおしまいですね。
最近、「財政難」「バラマキ反対」という誤った「錦の御旗」が掲げられて、温暖化対策のための技術改革を支援するような、前向きの公共投資までもが阻害されています。
そこでこの記事では、政府の公共投資が「不効率」で「バラマキ」になるという、市場原理主義者たちの発する命題の真偽を、いま一度検証してみたいと思います。
市場原理主義者たちは、民間が行う投資は「善」で、政府が行う投資は「悪」であるかのようなことを平然と言います。彼らは、市場に基づく民間の活動こそが効率的なのであり、政府は不効率で必ず失敗すると、イデオロギー的に信じているからです。これは本当におかしな話です。民間が行おうが政府が行おうが、悪い投資は悪く、良い投資は良いのです。
日本のバブル経済期には、民間投資が非常に活発だったので、政府は赤字国債などほとんど出さずに済んでいました。銀行から資金を借りたのは、今とは逆に、政府ではなく民間だったのです。
それでは、その投資活動は正しかったのでしょうか? 市場原理主義者の言説によれば、その答えは「Yes」でなければならないはずです。
バブル時代に盛んに行われた民間投資は、地方だったらゴルフ場開発やリゾート開発、都市部でしたら町並みを破壊して行われるオフィスビル建設とかマンション建設などでした。いずれも、土地やゴルフ場会員券などの価格が上昇し続けるという「右肩上がり神話」を狂信して行われた投機活動であり、環境破壊活動でした。周知のようにバブルははじけて、銀行から資金を借りて投機活動を行っていた企業は大借金を抱えることになったのです。これが「失われた10年」を生み出した根本原因です。
バブル時代に行われた民間のバカげた投資活動に比べれば、その後の10年間に政府が景気対策として行ってきた「無駄」で「役に立たない」公共事業・公共投資の方が、まだしも犯罪性は少ないと、私は思います。バブル期に銀行に騙されてマンション建設などに投資した個人は、バブル崩壊で破産に追い込まれました。銀行に無理矢理に資金を貸しつけられて破産した個人は100万人とも言われております。その中のどれだけが一家離散、精神障害、さらには自殺などに追い込まれているのか知れません。
それに比してバブル後における日本政府の「ヒグマよりも車の交通量の方が少ないような道路」への投資の場合、少なくともそれによって罪のない人々が自殺に追い込まれるようなことはないし、むしろそれがなければ路頭に迷っていたはずの人々を救ってきたという側面の方が強いでしょう。
バブル期のゴルフ場建設も、バブル崩壊後に行われた無駄な道路建設も、不良債権を生み出しているという点においては何ら変わらないのです。民間も政府も両方が間違える可能性もあるし、成功する可能性もあるのです。
しかし政府のために弁護するならば、バブル崩壊後の「無駄な」公共事業は、バブル期に土地転がしを行って莫大な借金を抱えたゼネコンを救済するために行っているという側面が強いので、元を正せばバブル期の誤まった民間投資が諸悪の根源ということになります。政府は、「市場の失敗」によって大借金を抱えたゼネコンを救おうと、強引な公共事業を行って、ゼネコンの借金を肩代わりしているともいえます。
新古典派経済学者(=市場原理主義者)たちは、その後の10年の公共事業を「政府の失敗」といって批判の槍玉に上げます。その大元には、バブル期の「市場の失敗」「民間の失敗」があるにも関わらず、彼らの視界にはそうしたものは入ってこないのでしょう。
私は、日本政府の肩を持つわけではありませんが、マスコミが、バブル期における銀行の社会的犯罪という不良債権の根本原因を棚にあげたまま、その後の尻拭いとして行われている政府の借金のみを糾弾し続けるのは、どう考えてもバランスを欠いた不当な世論だと思います。
今の日本の惨状は、「政府の失敗」が生み出したものではありません。バブル経済という「市場の失敗」によって生み出されたものなのです。政府は、その後の事態の修復に確かに失敗はしました。しかしそれは「市場の失敗」の規模が、とてつもなく大きいものだったので、従来のやり方が通用しなかったからです。
「政府が国債を発行して公共投資を行うのは、将来の増税を招くので、次世代に迷惑をかける。であるから赤字国債による公共投資・公共事業は行うべきではない」と言われます。
これも全くおかしな議論です。社会に迷惑をかけるのは、その投資が長期的に意味を持たなかったときなのであり、民間投資か政府投資かは関係ありません。
民間投資だって、バブル期の投機活動のようなものなのであれば、結局は銀行の不良債権になるだけです。ここで政府が個人の預金を保護しようと思えば、公的資金(=税金)を投入しても救済せざるを得ないのであり、結局、増税につながります。政府が個人の預金を保護しないのであれば増税は発生しなくても、預金者が自分の資産をみすみす失うことになり、不特定多数の人々にとんでもない迷惑をかけます。それによって被害を受ける罪のない人々の痛手は、増税などの比ではないでしょう。
バブル時代には民間が700兆円借金しても褒められていたのに、民間の資金需要がなくなった結果、仕方なく政府が700兆円借金したら糾弾されるなんて、こんなにおかしな話はございません。国全体で700兆円の借金があるという事実には何ら変わりなのです。しかもその借金の質は、明らかにバブル時代の民間の借金の方が「より誤っていた」のです。
誤って使われれば罪のない人々に多大な負担を強いる可能性があるという点においては、「政府の借金」も「民間の借金」も質的に何も変わりはないのです。銀行に山のような貯蓄がある以上、誰かがそれを引き出して投資活動に使わねばならないのですから、潜在的なリスクは必然的に存在するのです。
繰り返し言いますが、民間投資でも政府の公共投資でも、それが将来の増税につながるとしたら、その投資が長期的に役に立たなかったときです。赤字国債で必要もないダムや道路を今後も建設し続けるならば、それは必ずや将来の増税につながるでしょう。
しかし、このブログで論じているように、エコテクノロジー革命を引き起こすための戦略的分野に公共投資を重点投入するならば、コンドラチェフの長期循環を引き起こし、増税などなくても、将来的には新しい環境保全型産業から上がってくる税収の自然増加によって十二分に借金は返済できるのです。
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身辺雑記が多い日本語のブログの中で異彩!
ブログで言論の広場ができるかも?
私もここで環境問題の勉強をさせて頂きます。
今日は怪獣つき環境のため、長居できず残念。
また寄らせていただきます。
自分の専門分野の話(森林)は活字論文にしてメシの種にせねばなりませんので(苦笑)、ここではなるべく一納税者、一生活者の立場として「どうしても言わねば」と思うことを書いていきたいと思っています。
小泉と竹中という、生活感覚が皆無な人間たちに政治を牛耳られることは、どうしても耐えられないので・・・。
わたしのブログ、「理想の力」にコメントをいただきました。ありがとうございます。
ベンチャー振興政策については、わたしも結構長い間考えてきました。その結論として、政府の政策が不要だなどとは思っていません。ときには、非常に有効な政策があるということもむ知っています。たとえば、経済産業大臣が「大学発ベンチャーを1000社作る」といったとき、なにをとんでもない話をとおもったのですが、質とか中身を問わなければ、結構、1000社に近づいてきていますね。しかし、この政策は、現実にいくつの大学発ベンチャーを生み出したかというよりも、大学教員の意識を大きく変える意味では非常に有効な政策だったとおもいます。これには、もちろん、異論があるでしょう。しかし、影響の大きかった政策提示であったことはたしかと考えています。
ただ、ベンチャー振興で重要なことは、それがいくら重要な課題としても、そんなことを政府にたよらなければならないことが問題だとおもいます。なんでもかんでも政府の責任という考え方には、もうそろそろおさらばすべきではないでしょうか。
これはいつかe-dmocracyのこblogにも書きたいことですが、ケインズ政策のために、おおくの国民の多くの人たちが、景気をよくするのは政府の責任だ、実業があまれたのは政府の責任だ、と考えるようになったこと、そしてかなりの数の経済学者もそれに正直に答えようとしていることは、よいことだったとは思えません。
わたしの学生時代のことばでいえば、「ものとり民主主義」がはびこらせてしまいました。民主主義の基礎は個人の自立でしょう。エコロジーのために、政府が介入すべきことがあるというのは、それはそれでいいとおもいます。ベンチャー振興も、すぐやれ減税だ、やれ補助金だ、やり相続税引き下げといった話になります。しかし、ベンチャー振興で一番重要なことは独立して起業しようという精神を変えることだと思っています。
本当に私ごときのブログを訪ねてきて下さいまして、心より御礼申し上げます。
ベンチャー振興のためには、政府の支援も必要であるが、起業家の精神の方がより重要というお考えには全く賛同いたします。その精神が消えてしまったら、社会そのものに火が消えたように面白みがないものになってしまうでしょう。
「ものとり民主主義」が発生するという問題にどう対処するか、どう回避するか、私もこれから一生懸命考えていきたいと存じます。レントシーキングと結びつかない、本当の意味での民主主義的な産業政策はいかにあるべきか、そのシステムを構築するのは21世紀に残された一つの課題であるようにも思えます。
塩沢先生と並んで、進化経済学に関して世界的に先駆的な業績をあげた村上泰亮氏は、費用逓減(収穫逓増)の経済学という反新古典派理論の構築から、アジア諸国における「開発主義」モデルの正当性を証明するという政策的インプリケーションを行いました。(私の場合、熱帯林を研究してきた関係で、東南アジアの「開発主義」というと、あの恐るべき熱帯林破壊のイメージとダブってしまって、なかなか素直に擁護できないのですが、それでも熱帯林問題を別にすれば、私はマハティールを尊敬しています)。
私も、このブログの3月2日の記事「新しい社会資本整備のあり方」で書いたのですが、新産業の費用逓減の側面を考慮すると、どうしても初期投資や初期需要を政府が支援せねば、その産業の芽は伸びてこないと思うのです。例えば、市場に任せたら結実までに30年かかるかも知れない革新的アイディアが、政府が支援すれば5年で可能というようなことが実際には多いと思います。
ベンチャー精神を鼓吹するような、政府というものもあるのかなと思います。
今後とも何卒、よろしくお願いいたします。
PS 専門分野で、熱帯林と開拓コミュニティーの相互作用関係と進化を複雑適応系の枠組みで捉えた論文などを書いています。塩沢先生の論文も大きく引用させていただいています。なかなか審査にパスしないのですが(苦笑)、そういうものが活字になったら先生にお送りいたします。