加藤がくさん(民主党長野5区支部長)から、「信州分割論が動き始めているが皆さんの意見をお聞かせください」というトラックバックを受け取りました。村井新知事も既に道州制の導入に伴う長野県の「分割容認論」をほのめかしているとのことでした。あまり道州制導入の問題を真剣に考えたことがなかったので、適切なコメントにはならないと思いますが、加藤さんに答える形で、日ごろ考えていることを徒然なるままに述べさせていただきます。
私の基本的な立場はじつは「廃県置藩論」です。「県」という統治単位にはあまり意味があるとは思えません。ピークオイルを迎え、エネルギー供給も分散型になるであろうポスト近代社会においては、江戸時代の旧藩を復活させて自治の基礎単位とするのがちょうど良い大きさではないかと思うのです。
江戸時代、ちょうど日本には300余の藩がありました。江戸時代の日本は300の独立主権国家の連合体だったわけです。加藤さんによれば「民主党は全国を300の広域連合自治体を中心とした分権化を進める方針を出している」そうです。これですとちょうど江戸時代の藩の数と同じになりますね。私としては、なるべく旧藩の領域に合わせるように300にするのが良いプランだと思います。地域の一体感という点で歴史的にもっとも無理がない形だと思うのです。
最近の広域合併で、わけのわからない怪しげな地名も誕生していますが、旧藩を復活させて、その名称に戻してしまうのが歴史的に無理がないように思えます。
もちろん加賀や薩摩や土佐のように、旧藩の大きさがちょうど現在の県の大きさに等しいという地域もあるのですが、それはそれで良いのではないかと思います。
藩は自然の流域や地形に規定されたまとまりを単位としているので、大きい藩もあれば小さい藩もあるのは仕方ないことです。広い平野を擁する藩は大きくなってしまいますし、小さい盆地や谷筋の藩は小さくなってしまいます。しかし、それが自然の地形に規定された地域のまとまりだから仕方ない。
もちろん江戸時代の旧藩にも、幕府の策略で地理的にかなり無理な線引きがされているものもありますから、そうしたものはより自然のまとまりに修正する必要があります。
信濃の場合、江戸時代は11の小藩に分かれていました。自然の地形に応じて盆地ごとに藩がある感じで、盆地と盆地のあいだに山があってつながっていないので、どうしても小藩に分かれざるを得なかったのです。信濃では、最大が真田家・松代藩で10万石、次いで松本藩の6万石、三番目が上田藩の5万3000石・・・・となります。小さな藩ばかりでした。それぞれの盆地にそれだけの生産力しかないから仕方なかったわけです。そして今でも信州人は、盆地ごとに文化的な違いがあり、お互いに仲も悪いのです。
「道州制」というのは、私には何故必要なのかよく分かりません。藩の上にくる統治単位は国でよいのであって、道とか州とかいった名称の中間的統治単位が何故必要なのか疑問に思います。
もちろん藩と藩のあいだには大きさや工場の立地などに応じて貧富の格差が生じるでしょうから、広域的に再分配を行う必要があります。しかし、それは国がやればよいのであって、道とか州という単位は必要なのでしょうか。道・州がどのような機能を果たすのか、イマイチよく分からないのです。
藩を自治の基礎として、さらに「信濃」というアルプスの山々に囲まれた地理的まとまりの概念が共有されていればよいのではないかと私は思います。
道州制にあわせて「信濃」という概念が抹殺されてしまうような事態には私は断固として反対です。加藤さんも、道州制の導入は新たな辺境を生み出すだけだと批判していましたが、同感です。伊那谷の人々は、明治維新によって「長野県」という行政単位が導入されたことにより、辺境の地位に押しやられてしまったという不満がかなりあるようです。何せ、長野に行くよりも名古屋に行く方が早いという場所ですから。しかし、伊那谷が名古屋圏に入ったとしても、やはり名古屋圏の中の辺境として扱われるだけだし、辺境として扱われる地域は今よりも増えてしまうだろう、というのが加藤さんの懸念でした。
私も同感です。道や州は自治の基本単位としては大きすぎ、「辺境」の地位で疎外された地域が多く出るでしょう。藩の大きさならば、顔の見える範囲の自治が実現し、誰もが主役になれ、地域は活性化すると思います。
私の基本的な立場はじつは「廃県置藩論」です。「県」という統治単位にはあまり意味があるとは思えません。ピークオイルを迎え、エネルギー供給も分散型になるであろうポスト近代社会においては、江戸時代の旧藩を復活させて自治の基礎単位とするのがちょうど良い大きさではないかと思うのです。
江戸時代、ちょうど日本には300余の藩がありました。江戸時代の日本は300の独立主権国家の連合体だったわけです。加藤さんによれば「民主党は全国を300の広域連合自治体を中心とした分権化を進める方針を出している」そうです。これですとちょうど江戸時代の藩の数と同じになりますね。私としては、なるべく旧藩の領域に合わせるように300にするのが良いプランだと思います。地域の一体感という点で歴史的にもっとも無理がない形だと思うのです。
最近の広域合併で、わけのわからない怪しげな地名も誕生していますが、旧藩を復活させて、その名称に戻してしまうのが歴史的に無理がないように思えます。
もちろん加賀や薩摩や土佐のように、旧藩の大きさがちょうど現在の県の大きさに等しいという地域もあるのですが、それはそれで良いのではないかと思います。
藩は自然の流域や地形に規定されたまとまりを単位としているので、大きい藩もあれば小さい藩もあるのは仕方ないことです。広い平野を擁する藩は大きくなってしまいますし、小さい盆地や谷筋の藩は小さくなってしまいます。しかし、それが自然の地形に規定された地域のまとまりだから仕方ない。
もちろん江戸時代の旧藩にも、幕府の策略で地理的にかなり無理な線引きがされているものもありますから、そうしたものはより自然のまとまりに修正する必要があります。
信濃の場合、江戸時代は11の小藩に分かれていました。自然の地形に応じて盆地ごとに藩がある感じで、盆地と盆地のあいだに山があってつながっていないので、どうしても小藩に分かれざるを得なかったのです。信濃では、最大が真田家・松代藩で10万石、次いで松本藩の6万石、三番目が上田藩の5万3000石・・・・となります。小さな藩ばかりでした。それぞれの盆地にそれだけの生産力しかないから仕方なかったわけです。そして今でも信州人は、盆地ごとに文化的な違いがあり、お互いに仲も悪いのです。
「道州制」というのは、私には何故必要なのかよく分かりません。藩の上にくる統治単位は国でよいのであって、道とか州とかいった名称の中間的統治単位が何故必要なのか疑問に思います。
もちろん藩と藩のあいだには大きさや工場の立地などに応じて貧富の格差が生じるでしょうから、広域的に再分配を行う必要があります。しかし、それは国がやればよいのであって、道とか州という単位は必要なのでしょうか。道・州がどのような機能を果たすのか、イマイチよく分からないのです。
藩を自治の基礎として、さらに「信濃」というアルプスの山々に囲まれた地理的まとまりの概念が共有されていればよいのではないかと私は思います。
道州制にあわせて「信濃」という概念が抹殺されてしまうような事態には私は断固として反対です。加藤さんも、道州制の導入は新たな辺境を生み出すだけだと批判していましたが、同感です。伊那谷の人々は、明治維新によって「長野県」という行政単位が導入されたことにより、辺境の地位に押しやられてしまったという不満がかなりあるようです。何せ、長野に行くよりも名古屋に行く方が早いという場所ですから。しかし、伊那谷が名古屋圏に入ったとしても、やはり名古屋圏の中の辺境として扱われるだけだし、辺境として扱われる地域は今よりも増えてしまうだろう、というのが加藤さんの懸念でした。
私も同感です。道や州は自治の基本単位としては大きすぎ、「辺境」の地位で疎外された地域が多く出るでしょう。藩の大きさならば、顔の見える範囲の自治が実現し、誰もが主役になれ、地域は活性化すると思います。
昔のくにざかいに戻しても自治体面積がさほど変わらんのですが、むしろ岩手県は郡単位の独立性が高いですね。方言も違うし。いまだに商圏も郡単位の影響が残ってる。
中央部の譜代や天領が多い地域とは(領域単位が)やはり違うというか。
道州制は規模の利益を残しつつ地方の多様性による強みを生かしたいということなのでしょう。
直接自治からは逆に遠ざかりそうですが…。
青森「南部」(八戸藩)ってのは地域的には青森東部の南部藩の分家です。(「南部」って言葉が混乱の元になりそうな書き方をしちゃった気がするんで補足)。
岩手県沿岸部は、旧伊達領と旧南部領の間には長い間、鉄道が敷かれていませんでした。
一方、旧閉伊郡は明治以降に分割されましたが、分割の歴史が新しいとはいっても、伊達藩に接する釜石市を中心とする上閉伊郡と宮古市を中心とする下閉伊郡の間では、バスが通ってない。郡境で引き返します。方言の境であり、商圏の境でもある。
関東周辺はわりと自治の基本単位として適当な大きさの小藩が多いですが、東北や西日本に行くと、津軽にしても南部にしても伊達にしても外様の大藩が多くて、ちょっと自治単位としては大きすぎるようですね。信濃のことを念頭において「廃県置藩」といってみたのですが、旧外様の大藩にはそのまま当てはめるのは難しいようです。
私は岩手の事情はよく分からないのですが、廃県置藩をするにしても、旧南部藩の場合は、群単位の独自性を重視して細かく藩割りをする必要があるのでしょう。
また道州制の弊害は、東北や西日本にはあまり感じられないのかも知れません。多分、それをやられるといちばん問題があるのが長野県です。県そのものが名古屋圏、北陸県、関東圏に分割されてしまいますから・・・・。
賛成とはいえません。しかし道州制で都道府県が
合併されて消滅させられるくらいなら、藩に戻す
方がまだ賛同できますね。その方が土地の文化や
歴史、住民性を守ることができますからね。
とりあえず、道州制や市町村合併による広域的な
行政には反対ですね。地域のためとは言いますが、
逆に広域的になり住民の声を無視しやすくなりますからね。
中央州=三重県、岐阜県、滋賀県、福井県の四県による州設立を訴えているものですから、この種の話は、気に掛るところが多いです。
地域性というのはグラデーションのようにして少しずつ遷移していくのですから、境界は、もともと恣意的なのでないでしょうか。
長野の場合も、無理に、東京圏、中京圏、北信越……と切り分けようとするから、この種の分割案が出てくるのだろうと思います。
よく似た例では、福井県の嶺北(北陸)、嶺南(近畿)の分割があり、特に若狭の人が強硬に主張していますが、
考え方を変えると、江・若・越の(戦国時代の浅井朝倉同盟とか、継体天皇の后が近江から出ているような)古くからの強い結びつきもあるわけで、
「なにも、大都市の都合に合わせる必要はない」
私は、反植民地経済主義者ですので(爆)、余計思うのですが、辺境,衛星都市という共通項で、意外な結びつきあいで、道州を訴えても、必然性があると思いますよ。
例えば……山梨、長野で1つの州といった運動もありますよね?
「州」に対する評価なのですが、徴税と予算の執行を州が執行するようになるのであれば、現在の中央集権制よりは百倍ましかとは思います。
藩が徴税権を持つのが理想とは思いますが、ちょっと小さすぎるのがネックで、大きな工場を持つ藩とそうでない藩の格差が出るのが気がかりです。
近江・若狭・越前の浅井・朝倉同盟は歴史の流れからしてもけっこう行けるかも知れませんね。甲斐・信濃同盟も武田時代のよしみでいけるかも。
でも広域的に同盟するにしても、各藩の自治が基礎にしっかりしている必要があると思います。
生活文化の多様性は藩毎の自治に起源があります。
貧しい治世を強いられた藩は、活力に乏しく、祭り
を見れば、その差異は明確となります。 お山の大
将が徒党を組んで無茶をしでかすリスクに対処すべ
く、水戸黄門の巡察を制度化して加えるなら、大人
の考えと言えましょう。 とまれ備中松山の再評価
を願う一人として、また、美作の発展を祈る者とし
て、藩復活は大歓迎。
私は山岳城郭を歩くのが大好きなので、いちどは日本屈指の山城である備中松山城に行きたいと思いつつ、いまだに行けていません。生きているうちに必ず参りたいと思います。