これまで書かれた佐久間象山の評伝の中でもっとも詳しいと思われるのが、松本健一著『評伝 佐久間象山(上・下)』(中公叢書、2000年)である。この本のもとになった論文は『This is 読売』と『正論』に掲載されていたものである。『正論』と聞いて、「どうせ薩長中心史観でしょ」と、偏見をもって読んでいなかった。最近読んでみたところ、きわめて広い視野で時代状況を俯瞰し、正確な人物描写がなされているすばらしい本であることが分かった。偏見をもっていた自分を恥ずかしく思った次第である。
松本氏は象山暗殺について以下のように結論する。
松本健一氏の前掲書によれば、象山の暗殺団は二団から構成され、第一団は、よく知られる肥後の河上彦斎と、他には隠岐島出身の長州系尊攘志士・松浦虎太郎で構成されていた。
第二団は、同じく長州系尊攘志士の安藤源五郎と因幡の前田伊右衛門ら(他にも複数いた可能性あり)であった。松陰門下の山田顕義(のちに初代司法大臣)も第二団に所属して暗殺現場にいた可能性がある。
象山に初太刀を浴びせたのは松浦であり、河上ではなかった。のちに桂小五郎は松浦虎太郎を「象山を斃し候人」と対馬藩の大島友之丞(映画監督・大島渚の曾祖父)に紹介している。維新三傑の桂も暗殺団の背後にいたことは明らかなのだ。
象山の正妻の順子(勝海舟の妹)は、木戸孝允(桂小五郎)主犯説を明治になっても確信していたそうである。よほどの根拠があったに違いないのである。
松陰門下の品川弥二郎も象山暗殺団の中にいた可能性がある。松本氏の前掲書は、品川が明治になって伝記作家の川崎紫山に克明に語った象山暗殺の様子を紹介している。品川によれば当時の彼は天王山にいて象山暗殺の報告を受けた。品川は、「其時刺客として行ったものは肥後の人で河上彦斎他二人であったと覚えているが、三条上がる木屋町に於いて象山が西洋馬具を置いた馬に乗って来る所をば、突然脚を斬った。斬られて馬から落ちた処を殺した」と語っている。
品川は、天王山にいて象山を暗殺の報を聞き、「斬奸、斬奸、愉快、愉快」と叫んだという。悪魔の叫びである。しかしながら、品川がそう叫んだのは三条木屋町じゃないのか? 天王山にいて暗殺の報告を耳で聞いただけという品川が、馬の馬具や、馬の脚を斬って象山が落馬する様子までをもかくも生々しく述懐できるだろうか? 品川は最後に川崎に向かって、「実に今から追懐すると、つまらぬことをやったものです」とも述べている。そう、品川は現場にいて「やった」人間の一人なのだろう。
品川という、松陰が生んだ鬼子ともいえるテロリストは、佐久間象山という巨人が日本にとってどれだけかけがえのない知性だったか、象山の死がその後の日本にとってどれだけ大きな損失であったのかなど、認識する能力のかけらも持っていなかったのだろう。品川も、あの世で吉田松陰には会えていないだろう。
品川弥二郎は後に内務大臣となり、1891年の日本最初の衆院選挙において警察力を動員して自由民権派を落選させようという大選挙干渉を断行し、25人の死者まで発生させたことでよく知られている。元祖・ミスター不正選挙といえるだろう。
長州安倍政権も言論統制を敷いて舛添を当選させた先の都知事選に見られるように、やっていることは品川レベルである。
さて象山に最初の太刀を浴びせた松浦虎太郎は後に司法官僚となり、最後には大審院判事となっている。同じく安藤源五郎も後に大審院の検事になった。長州の元勲たちにしてみれば、汚い仕事をさんざんやらせた松浦や安藤などには、高官の位を与えて厚遇せざるを得なかったのだろう。
若干15歳で暗殺団に加わったという安藤などは、明治はじめに慶応義塾の学生になり、「俺は近日参議になる」と大言壮語して、寮の相部屋の学生に「ホラ吹き」呼ばわりされていたそうだ。安藤は、自身が行ったテロリズムは、それだけの報奨をもらうに値する「仕事」であると確信していたのだろう。
こんな愚劣な男どもに象山先生を・・・と思うと、今更ながらに怒りで震える思いがする。
明治の長州藩閥政権において、殺人者が平然と内務大臣をやり、司法大臣をやり、最高裁の判事となり、検事になった。考えるだけでもおぞましい。長州藩閥支配の明治とは、じつに狂った世の中だったのだ。
長州藩閥・岸信介の思想を受け継ぐ清和会・安倍政権の日本も、同様になりつつある。
松本氏は象山暗殺について以下のように結論する。
品川弥二郎・山田顕義、そうして桂小五郎をはじめとして、おそらく久坂玄瑞や真木和泉といった象山の影響を大いに受けたものまでも、象山暗殺に同意するに至ったのである。(松本、前掲書、309頁)
松本健一氏の前掲書によれば、象山の暗殺団は二団から構成され、第一団は、よく知られる肥後の河上彦斎と、他には隠岐島出身の長州系尊攘志士・松浦虎太郎で構成されていた。
第二団は、同じく長州系尊攘志士の安藤源五郎と因幡の前田伊右衛門ら(他にも複数いた可能性あり)であった。松陰門下の山田顕義(のちに初代司法大臣)も第二団に所属して暗殺現場にいた可能性がある。
象山に初太刀を浴びせたのは松浦であり、河上ではなかった。のちに桂小五郎は松浦虎太郎を「象山を斃し候人」と対馬藩の大島友之丞(映画監督・大島渚の曾祖父)に紹介している。維新三傑の桂も暗殺団の背後にいたことは明らかなのだ。
象山の正妻の順子(勝海舟の妹)は、木戸孝允(桂小五郎)主犯説を明治になっても確信していたそうである。よほどの根拠があったに違いないのである。
松陰門下の品川弥二郎も象山暗殺団の中にいた可能性がある。松本氏の前掲書は、品川が明治になって伝記作家の川崎紫山に克明に語った象山暗殺の様子を紹介している。品川によれば当時の彼は天王山にいて象山暗殺の報告を受けた。品川は、「其時刺客として行ったものは肥後の人で河上彦斎他二人であったと覚えているが、三条上がる木屋町に於いて象山が西洋馬具を置いた馬に乗って来る所をば、突然脚を斬った。斬られて馬から落ちた処を殺した」と語っている。
品川は、天王山にいて象山を暗殺の報を聞き、「斬奸、斬奸、愉快、愉快」と叫んだという。悪魔の叫びである。しかしながら、品川がそう叫んだのは三条木屋町じゃないのか? 天王山にいて暗殺の報告を耳で聞いただけという品川が、馬の馬具や、馬の脚を斬って象山が落馬する様子までをもかくも生々しく述懐できるだろうか? 品川は最後に川崎に向かって、「実に今から追懐すると、つまらぬことをやったものです」とも述べている。そう、品川は現場にいて「やった」人間の一人なのだろう。
品川という、松陰が生んだ鬼子ともいえるテロリストは、佐久間象山という巨人が日本にとってどれだけかけがえのない知性だったか、象山の死がその後の日本にとってどれだけ大きな損失であったのかなど、認識する能力のかけらも持っていなかったのだろう。品川も、あの世で吉田松陰には会えていないだろう。
品川弥二郎は後に内務大臣となり、1891年の日本最初の衆院選挙において警察力を動員して自由民権派を落選させようという大選挙干渉を断行し、25人の死者まで発生させたことでよく知られている。元祖・ミスター不正選挙といえるだろう。
長州安倍政権も言論統制を敷いて舛添を当選させた先の都知事選に見られるように、やっていることは品川レベルである。
さて象山に最初の太刀を浴びせた松浦虎太郎は後に司法官僚となり、最後には大審院判事となっている。同じく安藤源五郎も後に大審院の検事になった。長州の元勲たちにしてみれば、汚い仕事をさんざんやらせた松浦や安藤などには、高官の位を与えて厚遇せざるを得なかったのだろう。
若干15歳で暗殺団に加わったという安藤などは、明治はじめに慶応義塾の学生になり、「俺は近日参議になる」と大言壮語して、寮の相部屋の学生に「ホラ吹き」呼ばわりされていたそうだ。安藤は、自身が行ったテロリズムは、それだけの報奨をもらうに値する「仕事」であると確信していたのだろう。
こんな愚劣な男どもに象山先生を・・・と思うと、今更ながらに怒りで震える思いがする。
明治の長州藩閥政権において、殺人者が平然と内務大臣をやり、司法大臣をやり、最高裁の判事となり、検事になった。考えるだけでもおぞましい。長州藩閥支配の明治とは、じつに狂った世の中だったのだ。
長州藩閥・岸信介の思想を受け継ぐ清和会・安倍政権の日本も、同様になりつつある。
だいぶ前に入手した『坂本龍馬と朝鮮』(備仲臣道 かもがわ出版)に勝海舟の「征韓論」がでてきます。文久3年の4月27日の日記には桂小五郎が大島友之允を連れて訪ねてきたとあります。この記事に大島が登場したのを見て気になっていたのですが今日まで放置してしまいました。この日は勝がヨーロッパと対抗するために、わが国から軍艦を出してアジア各国に呼びかけ、横縦連合してともに海軍を盛んにし、学術を盛んにしてヨーロッパ人と対等に付き合おう、といったことを述べます。「軍艦を出して横縦連合」とは砲艦外交に他ならないのですが。そこへ大島友之允の『征韓の建白書』を受けてあからさまな征韓に傾いていきます。韓桂玉『「征韓論」の系譜』からの孫引きになりますが
幕末の軍艦奉行として、当初は「アジア連合論」を唱えたこともある勝海舟も、やがて征韓論へと一転する。彼は『海防意見書』で、海軍力を強化して防備を固め、対馬を貿易地として朝鮮、中国と交易し、さらに進んでアジア各国との横縦連合を主張した。しかしロシア艦隊の対馬侵入事件(1861年)後は砲艦外交に傾く。その転機は対馬藩・大島友之允の『征韓建白書』といわれる。この建白書は「外夷朝鮮国への渡来、屋宇を設け候聞こえも之れ有り候処、同国の儀は、年来の御信義も之れ有り候間、援助の為出張、外夷根拠の策を破り、時宜により兵威を以って服従致た為すべき処……」というものである(『勝海舟日記』)
つまり、「援助」の名目で朝鮮に乗り出し、時機を見て兵威をもって服従させようというもので、勝海舟はこれを承認した。神戸に基地を設けて対馬に延長し朝鮮と連結させるという当初の「交易線」構想から「武力威圧線」へと変転するのである。この構想は、後の山懸有朋らの「利益線」政策へとつながっていく。(引用終わり)
その後勝のアジア観がどう変化していったかはこの本では触れていません。
そういえば文久元年に対馬をロシア艦が占領するという事件がありました。だから幕府海軍が対馬の守りを固めてくれることに期待するのはわかりますが、ここでついでに征韓論とはどういうことなのでしょう。外交に携わる対馬藩士は釜山に近い草梁に詰めていましたが、朝鮮の役人がこちらを下に見て横柄なのが不快なのか、それとも長崎出島には遊郭があって外国人も利用できるのに、草梁の役所には全く女っ気がないのが不満なのか分かりません。ご要望があれば図書館で草梁倭館の本を確認してまいります。
この本では「勝の征韓論が坂本龍馬に影響を与えなかったか」を検討していますが、なんだか大島が幕末征韓論の元凶に思えて仕方ありません。桂小五郎とはずっと仲が良かったようで、桂は「朝鮮は無礼」と決めつけていたようです。長州の朝鮮密貿易があるとしたらこの二人、あやしいです。大島は明治になってから外交官となって朝鮮を訪れています。朝鮮高官を当惑させた「皇」「勅」の字のある国書を携えて、してやったりだったのではと嫌な想像をしてしまいます。
河上彦斎はまじめな攘夷原理主義者だったから後に暗殺されそのうえ象山暗殺の「主犯」にされるんですよね。
『八重の桜』以来、幕末・明治期の熊本が気になっています。いい本があれば教えていただきたいのですが、やっぱり渡辺京二さん?
まず、元治元年の「征韓の上書」ですが、大島に力添えして上書を提出し、公儀が対馬藩に「朝鮮に来た外夷を払うために海軍を持つ、朝鮮交易の埋め合わせに毎年3万石を与える」という回答をしました。この侵略性のない回答は実は勝が望んでいたものでした。この回答を得てからは勝の日記から「征韓」の文字は見られなくなるのですが、上書を出すまでは結構本気で「征韓」を考察していたようです。
勝海舟が文治元年に征韓論に傾き、その後征韓反対に転向したらそれはそれで面白いのですが、そんなことはなさそうですね。
その後勝は何度か対馬に行こうとするのですが、行かずじまいになってしまいます。
ここで文久3年の桂・大島訪問に戻りますが、対馬貿易に先行き不安というのもあったらしい。
『新・倭館』は18世紀の「平時」の倭館しか描かれていませんが、重要な輸入品が朝鮮人参と生糸と書かれています。諸藩の財政改革の目玉になった品ですね。これらが国産化されることで朝鮮からの輸入が減ったからでしょうか。手元に数字がないので当て推量ですが。
それから、「朝鮮人参往古銀」というのもありました。国内向けの銀貨の品位を落とした時にも朝鮮交易のために高品位の銀貨を作っていたのです。これの存在を知るものは幕府と銀座と対馬の関係者だけです。「朝鮮王宮は金銀を持っている」根拠はこれだったのでは。
さて、桂と大島は別ルートで幕閣に朝鮮問題を持ち込んでおり、このとき山田方谷から征韓論のアドバイスを受けた、というのが「定説」だそうです。
朝鮮半島への進出には反対だった勝ですが、明治6年の台湾出兵には「行ってみろ」と言ったそうです。朝鮮に進出するとロシアと敵対することになるだろうとのこどですが、実際に1866年にフランス艦隊が上陸したときには朝鮮が自力で撃退してますが。
彼の基本的考えは「戦争にしてはいけないが、紛争大歓迎」のようです。軍を預かるものとして、ほどほどに実戦経験を積みたかったらしい。実は文久2年にも「(どうせ負けるけど)ロシアと戦争してみろ」と言っていたそうです。
もう一つ基本的な考え方として、「侵略戦争を過去の偉い人の遺志だと言う」傾向に反対、と言えるかもしれません。ずっとのちの明治20年ごろから、勝は「明治6年の西郷隆盛は征韓論ではなかった」と言い始め、最後まで言い通しました。松浦氏は西郷は紛れもなく征韓論だったと述べています。
ついでだから嘉永6年の勝の意見書のなかみを紹介しますと、軍艦を作るための資金は貿易に求めるべきで、堅艦を活用して清国、ロシア辺境、朝鮮などへこちらから出てゆき、積極的に交易を計れば利益も大きく艦船運用の訓練にもなる、というものでした。あくまで国防案の一環。他には政治のこと、江戸の防御案、旗本救済と軍制改革、火薬と武器の製造体制の確立も盛り込んでいます。日本側としては大いに結構ですが、損害を相手国に押しつける結果になるような気がします。
これに文久3年のアジア連合論を無理やりくっつけますと、清や朝鮮は貿易赤字を押し付けられた上に軍艦や武器を買わされることになるので大変なのでは。
とくに朝鮮では水戸藩以上にものづくりが軽視されてきたので、いきなり軍艦と大砲は無理でしょう。それに朝鮮は外交や交易の形態が変わるのを嫌がりますので結局砲艦外交になりそうな気がします。
最後に脱線になりますが、明治6年に大蔵卿兼初代内務卿になった大久保利通は、はたして「権勢家」だったのでしょうか。
維新での活躍と「内務省」の強権的なイメージが、大久保を怪物めいた存在にしていると思います。
しかし大蔵省と民部省が統合されたり分離したりした背景には何らかの暗闘があり、大久保は大蔵省の圧制に抗議する側だったようです。統合したがる側には大隈重信と伊藤博文がいました。
これが長州対薩摩なのか、中央対地方(といっても、官選の地方官たち)なのかまだわかりません。「長州史観」によって大久保は悪者にされたのでしょうか。
勝海舟の征韓論についての詳細なご報告、まことにありがとうございました。知らないことばかりでした。
勝を折伏してしまったのでしたら、大島友之允って大したオルガナイザーだったのですね。桂=大島のラインは本当に怪しいですね。
その大島の子孫が親アジア的感情の持ち主であった大島渚監督というのも、数奇なことです。
幕末の熊本藩に関する知識は私もないのですが、横井小楠の本は最近たくさん出ていますよね。
大島友之允についてはもっと調べる気でいたのですが、なんとなく放置しています。対馬問題は軍艦がないと手も足も出ませんから、勝がこの話に乗るのはわからないでもないですが、山田方谷のラインはどういうことなのでしょう。
松浦玲『勝海舟』に大蔵省と民部省のことが出るのは、勝の日記の裏を取るために大久保の日記を参照したためで、彼がこの問題に首を突っ込んだからではなかったのです。かねてから気になっていたのですが。
それで、この本にはあまり有名ではない幕府海軍の関係者も出てきますが、赤松小三郎は登場しません。会っていなかったのか、松浦氏が無視したのか『勝海舟日記』を参照してないのでわかりません。
松浦玲氏は、じつは私が学生時代に住んでいた寮の先輩にあたる方です。彼ほどの学者にして、なぜ赤松小三郎を無視するのか私には分かりません。敢えて無視しているのか、知っていて本当に取り上げる必要がないと考えているのか分かりませんが・・・・。
能力的に、勝海舟は赤松小三郎の足元にも及びませんので、 勝は意識的に赤松に冷や飯を食わせようとしたきらいはあると思います。しかし、研究者である松浦氏までそれを踏襲しなくてもよいのに・・・・・。
人気のある話として長州のある集落から出た集団が、明治天皇をすり替えて政権を握り日清・日露戦争を起こし…というのがあります。私はまだ納得していないのですが、日本列島以外の場所をホームランドにする集団にこの国が牛耳られていると考えることですっきりすることがいくつかあります。
秀吉が朝鮮に出兵したのも、やはり「神功皇后」が根拠になっています。しかも天皇を唐入りさせると言っている。関白になって公家との付き合いが増えたから公家から朝鮮征伐を吹き込まれたのだ、とこの頃思います。
また、平安時代に武家が台頭して律令支配が緩んできたのを公家たちが容認したのも、いつか失地回復ができるともくろんでいたからかもしれません。家康によって朝鮮との対等な交流が実現しますがそれはかの勢力の容認するところではありません。時代が進むにつれて朝鮮使節の扱いは「将軍の威光を示すため」軽くなってゆきます。方広寺の耳塚の近くで使節をもてなすのもその一環と思えます。関白など朝廷要職は徳川家の意向に沿った人が選ばれていたと思いますので、岩倉具視が討幕の折りに摂関家を排したのも当然の成り行きでしょう。
で、討幕が成って海外侵略が可能になると政府は朝鮮を守ることを国民を豊かにすることより優先したように見えます。われわれ「東えびす」は多分物の数に入っていないのです。彼らにとって朝鮮がホームランドであり、「東えびす」はホームランド建設のための道具であったのかもしれません。ネトウヨが「韓国は歴史をねつ造している」といいますが、それは韓国人が儒教など何らかの世界観に従って自国の歴史を書き換えている、という意味ではなく、そもそも今の韓国と北朝鮮が「偽韓国」「偽朝鮮」であるという認識(中国人が「偽満州国」と言うのと同様)で流された情報でしょう。そして最近の北海道議の発言の「アイヌ民族はいない」のと同様、かれらにとって「日本民族はいない」のでしょう。
「彼ら」には応神天皇以降の支配階層が入れられるのではないかと考えています。まるでシオニズム運動ですが、藤原不比等あたりが「易姓革命」が起こらないように天皇家から姓をなくしてしまったあたりでダメになってしまったと私は考えています。
既にご存知かもしれませんが「明治天皇すり変えと朝鮮人被差別」が出てくる話は鬼塚英昭氏が始めたもので、いろいろな人がweb上にのせていますが、こちらが簡潔で読みやすいと思います。
本澤二郎の「日本の風景」(1740)
http://blog.livedoor.jp/jlj001/archives/52079255.html
この話で不満なのは①多数派の日本人を免罪していること②現在の韓国や在日コリアンへの心証が悪くなること、です。(下手するとソ連によってカザフスタンへ移された朝鮮人コミュニティーもよからぬことをたくらんでいる、という話も読んだことがある。デニス・テン選手好きなのに)もしかすると鬼塚氏はこの点をよくご存じで読者が自分でその結論に達するだろうと信じて①「シオニズム」を推進しているのは焼肉屋やパチンコ屋を営んでいる在日韓国人ではなく、古い古い在日の親分であること②日本人の多くが神功皇后神話を信じていたために征韓が可能だったこと。(多くの人は「征韓」を「朝鮮半島に攻め入り領土にすること」と考えたと思うが、その真意は「朝鮮半島に戻ること」だった)などを本の上に書かなかったのではないかと思います。「明治天皇すり替え」からは鬼塚氏の皇室に対する考えが透けて見える気がしますがご迷惑と思うので言わないことにします。
今朝の新聞の週刊誌の広告に「韓国のミサイルが日本を狙っている」とありましたが、安倍首相が取り返したいと思っているのが「大日本帝国」であることが次第にはっきりしてきたので当然の反応でしょう。
明治天皇すり換え説に関しては、証拠が不十分のようで、私もそれに与することはできません。当時の薩長は何でもアリだったので、そのくらいの事はやりかねない人々だったとは思いますが、証拠が、、、、、。
岸信介といった自民党指導者から宮本顕治という共産党の指導者まですべて田布施村出身というのは事実なので、確かに偶然以上の何かがありそうに思えます。
それは事実としても、田布施陰謀説を語る人々がなんだかんだと朝鮮人差別の片棒を担いでしまっているように見えるのは私も遺憾に思います。
話は変わりますが、共産党ってなんだかんだと長州正当史観ですよね。吉田松陰の思想の右の部分が自民党に引き継がれ、左の革命家の部分が共産党に引き継がれているようにも見えます。自共対決しながらともに長州レジームを支えているという構図、、、、、、ああ。
竹田氏は天皇に取って代わる気らしい、と言われたことがあるので、伊藤博文が下忍だったなんて言っている落合莞爾氏よりも鬼塚氏の考えをわかっているのかもしれません。
ついでだから、気になっていることを少し書いておきます。
「被差別の人とも平等に付き合っていた」という吉田松陰ですが、浄土真宗が背後にあったのではないか、という指摘が『日本人はいつから働きすぎになったのか』(礫川全次 平凡社新書)にされています。第5章がまるまる「吉田松陰と福沢諭吉」になっています。(ちなみにこの本は川口雅昭氏のペリー暗殺未遂説を採用)前半は浄土真宗、後半は明治の修身と戦後の「産業戦士」の話でした。
ついでに言うと江戸時代かなりの数の切支丹が公儀のお目こぼしという形で生存しており表向きは浄土真宗だったそうです。これが「九代将軍は女だった」という古川愛哲氏の本なので信じようかどうか迷います。
もうひとつ陰謀話にからめてですが、ラルフ・イーザウの長編ファンタジー小説『暁の円卓』に伊藤博文暗殺が出ています。主人公は昭和天皇と幼馴染で伊藤公とは親しい間柄、なぜ伊藤が殺されるほど恨まれるのかは全く説明しません。主人公はひょんなことから秘密結社「暁の円卓」の至宝である指輪を手に入れたために彼らと戦うことになります。つまり安重根は円卓のメンバーである。イーザウは作品の中でユダヤ人であることを隠していないので「いかにも」な感じです。ファンタジー業界は10年もすると入れ替わるので図書館で探すときは職員さんの手を煩わさないと出てこないかもしれません。
変な話ばかりですみません。
山田方谷は出てこなかったけど、どの人もどの人もみんな征韓なので、めげます。
特に薩摩では、誰もが先祖が島津義弘と戦った話を聞かされて育ったみたいです。気になる人物として西郷も目をかけていた横山正太郎がいます。『「征韓論」の系譜』には登場しませんが、征韓に慎重または反対といえる建白書を残して自刃します。しかし名分が立てば派兵してもいい、と解釈できなくもない。
さて、赤松小三郎ですが、少なくとも「当面は征韓反対」であると思えるので暗殺理由はそのへんにあったのかもしれません。その一月後に坂本龍馬が殺されます。犯人は幕府側だという人は薩摩藩なら龍馬を怪しまれずに呼び出せるはずだ、というのですが、当時の人なら「また薩摩がやった」と思うので、押し込み強盗みたいに宿舎にいるところを襲った、とも言えてしまう。
そして戦後ですが、赤松小三郎を抹殺したのは再軍備を押し付けようとしているアメリカかもと思ってしまいます。あるいは「大日本帝国」の夢よもう一度と思っていた政府首脳のせいかもしれません。
朝鮮戦争に日本軍が参加した場合はどうなっていたのでしょう。
佐久間象山の国防策は申し訳ないけど不勉強なのでわかりません。