今の小泉政治の経済政策の呼び方に関して、「新自由主義(ネオ・リベラリズム)」「小さな政府」「市場原理主義」・・・いろいろな呼び方が飛び交っています。私のブログでは「市場原理主義」という呼び方を使うようにしています。じつは、この呼び方は一番激しい言葉の使い方に思われるかも知れませんが、もっとも価値中立的な言葉だからです。
新自由主義(ネオ・リベラリズム)という言葉がどこで使われ始めたのかというと、中南米です。1980年代にメキシコ危機に端を発した中南米危機の結果、中南米諸国はIMFの構造調整という基本的に小泉改革と同じ内容の「改革」を強いられました。それで社会福祉のセーフティ・ネットを完全に破壊され、人々のあいだに怨嗟の声がこだまし、彼らが恨みをこめて「ネオ・リベラリズム」と呼び始めたのです。ちなみに、1980年代の中南米諸国はGDPも減少し10年前に逆戻りしたということで、「失われた10年」という言葉も生まれました。この言葉は、後に日本の90年代も指して使われるようになったのです。
ですから、「新自由主義」というのは、明確にそれを非難する側(主として左派)が使い始めた言葉なのです。ですから、あまり価値中立的とは言えません。
また、私がこの言葉を好まないのは、もちろん、その政策内容がリベラルでも何でもないからです。最初にこの政策をやり出したのは1973年、チリで民主的に選出された左派のアジェンデ大統領をクーデターで殺して(背後にはCIAがいました)、軍事独裁政権を樹立したピノチェト将軍です。
80年代に中南米でこの政策を実施した政権は、ほぼ軍事独裁政権でした。中南米の人々は、全くリベラルでないものが「リベラライゼーション」を標榜するという矛盾を、「ネオ」を付けることで風刺しようとしたのです。これは、ラテン系の人々特有のレトリックです。ただ、日本人の感覚とはちょっと異なります。
先進国でこの政策をやり出したのは、サッチャーやレーガンや中曽根でしたが、彼女と彼らは誰一人としてリベラルではありませんでした。好戦的で国家主義的な人々でした。ネオ・リベラルの政策をやり出すと、現実にはセーフティネットが破壊されて社会不安が高まりますので、結果としてナショナリズムが台頭して、社会は右翼的な雰囲気につつまれます。まさに日本がそうなっています。ですので、私は「リベラル」という誤解を与える表現はあまり使うべきでないと思うのです。
「小さいな政府」とは、小泉や竹中が喜んで使っているのを見れば分かりますが、それを擁護する側が使い始めた言葉です。経済学的には、フリードリッヒ・ハイエクやミルトン・フリードマンなどの経済学説(マネタリズム)を指す言葉なのです。ですので、これも価値中立的な言葉とは言えません。
後に、ハイエクを愛読していたマーガレット・サッチャーがこの言葉を多用しました。レーガンは、ハイエクを読むほどの教養はありませんでしたが、彼の取り巻きはフリードマンにかぶれた人々ばかりでした。
さて、「市場原理主義」という言葉を最初に使い始めたのは、私の知る限りではジョージ・ソロスです。ジョージ・ソロスは1999年に『グローバル資本主義の危機』(日本経済新聞社)を書いて、このままグローバルな金融自由化が進めば、世界規模で資本主義が崩壊しかねないと訴えました。
ジョージ・ソロスは「クォンタム・ファンド」を創設し、グローバルな金融自由化を推進し、投機的資金の流れを活発化させた張本人の一人です。1997年のアジア通貨危機の折、その戦犯として、マレーシアのマハティール首相がソロス氏を名指しで批判したのは記憶に新しいところです。
そのソロスが、「このままではグローバル資本主義はもたない」と悲鳴をあげながら書いたのがこの本でした。ソロスはその経済システムを支えるイデオロギーを「市場原理主義(Market Fundamentalism)」と呼びました。
ちなみに榊原英資氏によれば、1998年に榊原氏(当時まだ大蔵省)がソロス氏と会談したときに、榊原氏の方が盛んにこの言葉を使ったのですが、ソロスにパクられたというように言っておられます。
とにかく言えることは、ソロス氏にせよ榊原氏にせよ、かつてはグローバルな金融自由化を進めた側の人々が、その結果の恐ろしさを見て、青くなって使い始めたというのが実態なのです。
一貫した批判側でも、一貫した擁護側でもない人々が使い始めたということで、もっとも価値中立的であることが分かるでしょう。
ですので、私はこの言葉を使っているというわけです。それに、本質を大変にうまく表現しているとも思います。
本当に、IMFの役人とビン・ラディンを比べて、「どっちが原理主義?」と言いたくなってきます。
新自由主義(ネオ・リベラリズム)という言葉がどこで使われ始めたのかというと、中南米です。1980年代にメキシコ危機に端を発した中南米危機の結果、中南米諸国はIMFの構造調整という基本的に小泉改革と同じ内容の「改革」を強いられました。それで社会福祉のセーフティ・ネットを完全に破壊され、人々のあいだに怨嗟の声がこだまし、彼らが恨みをこめて「ネオ・リベラリズム」と呼び始めたのです。ちなみに、1980年代の中南米諸国はGDPも減少し10年前に逆戻りしたということで、「失われた10年」という言葉も生まれました。この言葉は、後に日本の90年代も指して使われるようになったのです。
ですから、「新自由主義」というのは、明確にそれを非難する側(主として左派)が使い始めた言葉なのです。ですから、あまり価値中立的とは言えません。
また、私がこの言葉を好まないのは、もちろん、その政策内容がリベラルでも何でもないからです。最初にこの政策をやり出したのは1973年、チリで民主的に選出された左派のアジェンデ大統領をクーデターで殺して(背後にはCIAがいました)、軍事独裁政権を樹立したピノチェト将軍です。
80年代に中南米でこの政策を実施した政権は、ほぼ軍事独裁政権でした。中南米の人々は、全くリベラルでないものが「リベラライゼーション」を標榜するという矛盾を、「ネオ」を付けることで風刺しようとしたのです。これは、ラテン系の人々特有のレトリックです。ただ、日本人の感覚とはちょっと異なります。
先進国でこの政策をやり出したのは、サッチャーやレーガンや中曽根でしたが、彼女と彼らは誰一人としてリベラルではありませんでした。好戦的で国家主義的な人々でした。ネオ・リベラルの政策をやり出すと、現実にはセーフティネットが破壊されて社会不安が高まりますので、結果としてナショナリズムが台頭して、社会は右翼的な雰囲気につつまれます。まさに日本がそうなっています。ですので、私は「リベラル」という誤解を与える表現はあまり使うべきでないと思うのです。
「小さいな政府」とは、小泉や竹中が喜んで使っているのを見れば分かりますが、それを擁護する側が使い始めた言葉です。経済学的には、フリードリッヒ・ハイエクやミルトン・フリードマンなどの経済学説(マネタリズム)を指す言葉なのです。ですので、これも価値中立的な言葉とは言えません。
後に、ハイエクを愛読していたマーガレット・サッチャーがこの言葉を多用しました。レーガンは、ハイエクを読むほどの教養はありませんでしたが、彼の取り巻きはフリードマンにかぶれた人々ばかりでした。
さて、「市場原理主義」という言葉を最初に使い始めたのは、私の知る限りではジョージ・ソロスです。ジョージ・ソロスは1999年に『グローバル資本主義の危機』(日本経済新聞社)を書いて、このままグローバルな金融自由化が進めば、世界規模で資本主義が崩壊しかねないと訴えました。
ジョージ・ソロスは「クォンタム・ファンド」を創設し、グローバルな金融自由化を推進し、投機的資金の流れを活発化させた張本人の一人です。1997年のアジア通貨危機の折、その戦犯として、マレーシアのマハティール首相がソロス氏を名指しで批判したのは記憶に新しいところです。
そのソロスが、「このままではグローバル資本主義はもたない」と悲鳴をあげながら書いたのがこの本でした。ソロスはその経済システムを支えるイデオロギーを「市場原理主義(Market Fundamentalism)」と呼びました。
ちなみに榊原英資氏によれば、1998年に榊原氏(当時まだ大蔵省)がソロス氏と会談したときに、榊原氏の方が盛んにこの言葉を使ったのですが、ソロスにパクられたというように言っておられます。
とにかく言えることは、ソロス氏にせよ榊原氏にせよ、かつてはグローバルな金融自由化を進めた側の人々が、その結果の恐ろしさを見て、青くなって使い始めたというのが実態なのです。
一貫した批判側でも、一貫した擁護側でもない人々が使い始めたということで、もっとも価値中立的であることが分かるでしょう。
ですので、私はこの言葉を使っているというわけです。それに、本質を大変にうまく表現しているとも思います。
本当に、IMFの役人とビン・ラディンを比べて、「どっちが原理主義?」と言いたくなってきます。
また、ネオリベと言った場合は、経済政策だけを指すのではなく、その全体の政策の特徴として語っているような気もします。この言い方が、細部にわたってまで正確かどうかは分かりませんが、ネオリベという言葉は、元々ネガティブに使われるような本質を持っているのか、それとも、そんなに悪くはないと弁護出来るものなのか。そのあたりを理解したいと思います。
小泉さんの支持者も、小泉さんをネオリベだと理解して、なお支持しているのか。それとも、小泉さんがネオリベだと言われているのは間違いだと感じているのか。そのあたりはどうなのかな、というのが関心があるところです。
ただ、学者のあいだだけで使うのならよいですが、一般の人々には分かりにくい言葉であることは確かかと思います。左派的知識人が好んで使うのは、一般の人に分かりにくい難しい言葉をわざわざ使って、ちょっとアカデミックに格好よく見せたいというのはあると思います。
だから、小泉支持者は、小泉が「ネオリベ」と揶揄されていても、「ふーん、いいんじゃない?」という感じだと思います。もっとも、印象ですので正確なことは分かりません。小泉支持者にアンケートをとって学問的に調査すべき課題かも知れません。
私は、この点に関しては板倉聖宣氏と同様、できるだけ、難しいことでも分かりやすく表現し、書くことを心がけています。なので、一般の使い方から見ると違和感のあるジャーゴンは使わないという方針です。
「市場原理主義」というのは、誰が聞いても、その本質を言葉から捉えることができます。言葉がそのイデオロギーの本質をきわめて的確に物語っています。
もっとも、言葉をめぐって争うのは全く不毛なので、「ネオリベ」と呼ぶ人たちがそう呼ぶのを批判したり論争したりしようとは思いません。巨大な敵が目の前にいるのに、そんなことに時間を費やすのは全く不毛ですから・・・・。
ネットで、特別会計について検索していてたどり着きました。
「小さな政府」と「市場原理主義」が、ほぼ同じ事を別の言葉で言い表しているということをこちらで読ませていただくまで気付いておりませんでした。
ありがとうございます。
2005年度の政府特別会計が205兆円ということで、一般会計支出や地方自治体の予算をあわせると総額いくらになるのか調べようとしたのですが、MOFのページでも良くわからず、あきらめてしまいました。
現状の日本は、非常に不健全な形での「大きな政府」ではないでしょうか?
ネットでは誰も指摘していないようなので、私の勘違いかもしれませんが…。
マネタリスト批判以前に、この不健全な状態に切り込めるリーダーが必要なのかなと思っております…。
私自身は素人ながら、心情的に「大きい政府」を支持しておりますし、貿易や国際金融は制御されるべきだと考えております。
駄文、失礼しました。
他にも、例えば日本が米国にいったい総額いくら貸しているのかという数字もなかなか表に出てきません。
不健全な「大きな政府」を「健全で機能的な政府」に変えるための方策として、このブログではエコロジカル・ニューディール政策を訴えています。よろしければ、そちらの記事もご笑覧ください。
今後ともよろしくお願いいたします。
ここにたどり着きました。
康江さんのご意見、読ませていただきましたが、
ハイエクなどの新古典派に関する解釈がいまいち
しっくりこないのです。
ハイエクが高く評価していたというフレデリック・
バスティアという人が書いたこの論文がいわゆる
古典派リベラリストの主張するリベラリズムについて
最も正しくかつ簡潔に述べられているので参考に
なされてはいかがでしょうか。
新自由主義は決して経済活動の自由だけについて
述べている概念ではありません。
経済的自由が政府(少数派だろうが多数派だろうが
あらゆる専制的政府)からの支配からの自由を担保
するのだというのが彼らの主張です。
ハイエクへの「隷属への道」を読むのも彼らの主張
を正しく理解する助けになるでしょう。
斯く言う私は、最近は「大きな政府」派です。
いまだに新古典派の主張のほうが原理原則としては
正しいと思っていますが・・・・。
コメントつけているとき、なんかひどい勘違いをしていました。
申し訳ありません>関良基さん
内容のほうは勘違いはしていないつもりです。
なお、先にあげた「論文」のURLは下記の通りです。
http://www.geocities.jp/kyuurinona/FB/law.html
私は、政府による福祉政策・セーフティネットの整備、科学的知見に基づいた未来社会へのビジョンの提示と計画性というものは、それが民意に基づいてなされている限り、官僚主義の弊害にも陥らないし、個人的自由とは衝突しないと思っています。
むしろ、そのような社民的リベラリズムは、個人的リベラリズムを積極的に擁護し、促進するでしょう。
市場原理主義で、労働者の権利が破壊されると、人間は企業の奴隷のようになってしまいます。官僚による隷属化に反対する新自由主義者は、企業による労働者の隷属化の弊害にはあまり目を向けていないようにも思えます。
また、セーフティネットが破壊され、生活不安が高まると人間の精神も殺伐としてきて犯罪も多発します。それらは、逆に警察国家への道につながると思います。それは個人の自由をかえって侵害しますし、官僚主義の弊害もむしろ高まるでしょう。また安心できない社会になると人々はどうしても排他的・好戦的になってしまいます。個人の精神の安寧もなくなってしまうでしょう。
ハイエクの求めた「自由」の哲学には共鳴できる部分もあるのですが、それを擁護する経済政策は、ハイエクが敵視したケインズ政策の発展の中にあると思っています。
もともと階級対立の激しかったヨーローッパで資本家に対して市民を解放する意味で、左側が自らを「リベラル」や「進歩派」などと自称し、右側を「保守」と位置付けた感じだと思います。
しかし、今の日本などはむしろ逆で、「小さな政府」への移行や、また、憲法や教育制度の改正などにおいても、現在の制度を「変えよう」としているのは「保守」の側ですね。「進歩派」の方が現在の制度に対して実際には保守的で、「保守」の方が改革に積極的、進歩的な印象を受けます。例えば、小さな政府への移行のみならず、憲法改正や教育基本法の改正などにおいても、現在の制度を「変えよう」としているのは「保守」の側ですね。
そしてまた、「リベラル」な立場の人が本当に自由を尊重しているのか、「他人に迷惑をかけない限り何をやってもいい」という状況(100%実現することは不可能ですが、また、ひょっとするとあってはならないことかも知れませんが)を自由とするならば、雇用者と被雇用者の雇用契約の自由(いい悪いは置いておいて)や、市場競争の自由を重視するのは「保守」の側です。
そういうことを踏まえると、(言葉の成り立ちはともかく)「ネオリベラリズム」という言葉は「リベラル」だの、「保守」だのの言葉の誤解を解くためには、かえっていい言葉だと思います。
「リベラル」については、私は社会的公正と富の再分配を重視する政治的立場として理解していますので、それを根底から破壊しようとしている人々に「リベラル」という概念を冠するのには抵抗を覚えます。