前回の記事で江戸城天守について書いた。江戸城続きで江戸城外堀について書く。以前、このブログ上で「江戸城の真田丸」という記事を書いた。(この記事)その続報。
だいぶ前だが、7月14日の東京新聞の特報面に「江戸城にも真田の守り」という記事が掲載された。紹介させていただきます。
じつは、東京新聞の特報部の篠ケ瀬記者と別件でやりとりしていた際に、私の書いたブログ記事を紹介したところ、「それは面白い」と興味をもってくださり、何人かの江戸城外堀研究者に独自に取材され、それを記事にして下さったのだ。すばらしい!!
まず私が前の記事で、江戸城の外堀の中で、工事を担当した大名の名が冠されているのは、真田濠だけであるが、これは何故なのだろうという疑問を書いた。
専門家ならその理由は分かるのではないかと思っていが、篠ケ瀬記者の取材によれば、専門家でもその確たる理由は分からないということであった。歴史史料も多く残っている近世のことだから、誰か知っているのではないかと思ったが、謎なのだという。
記事中に登場する、国立歴史民俗博物館の災害史研究の大家で、江戸城の外堀研究者でもある北原糸子元客員教授によれば、堀づくりには真田信之だけではなく、仙台の伊達政宗や米沢の上杉定勝(景勝の息子)など錚々たる大名が参加していたようである。私はてっきり「真田濠」と名がついているのだから、四谷見附から喰違見附の区間は真田家単独の工事だと思っていたのだが、そうではないらしいのである(それにしても真田、伊達、上杉で一緒に工事していたというのは、かなり因縁深い話しである)。であるにも関わらず、「真田」の名が冠されている確固たる理由は分からないようだ。北原先生は、「徳川家にとって大切な事業に真田家が本気で取り組んだことで、真田の名がついた可能性もある」と推測されている。
いずれにせよ、これは専門家でも分からない「謎」のようであり、一つの研究課題になりそうなのだ。
記事中では真田濠の軍事的重要性、防災面での重要性についても触れられている。真田濠は、外堀の中で最も高い位置にあるので、軍事的に攻められやすく防衛上の要であったこと、また、外堀の水の流れの起点でもあったことがふれられている。
「玉川上水の水を真田濠に引き入れ、高低差を利用して周囲の堀に水を流した。貯水池としても活用されていたようだ」という法政大学の岡本哲志教授のコメントも紹介されていた。外堀の中でも、防災対策の面でも、軍事的な面でも最重要地点だったといえるだろう。
真田濠は貯水池・・・。
下の図は明暦の大火の後の延焼地域の図である。外堀の内部はほぼ全焼している中で、不思議と真田濠周辺だけは焼けていない。風向きの関係で四ツ谷台地の上にまでは火の手が上がってこなかっただけかも知れないが、貯水池として消火活動や延焼防止にも寄与したのだろうか? ちなみに、明暦の大火が発生した四代将軍家綱の時代の1657年、堀を普請した当の真田信之は92歳でまだ存命だった。
PS 大河ドラマ「真田丸」の放映決定以来、真田関係のキーワードで検索してこのブログに来訪する方が多いようです。そこで、歴史のカテゴリーから真田関係の記事を一括りにして別カテゴリーとして独立させました。また赤松小三郎関係の記事も増えてきたので独立したカテゴリーにします。
明暦の大火 焼失区域(紫色の部分)
出所/『新編千代田区史 通史編』平成10年
http://token.or.jp/magazine/g200309/g200309_1.htm