大河ドラマ真田丸で描かれた第一次上田合戦の様子を記述した史料を二点紹介します。徳川方の記録と真田方の記録の比較をしてみます。
合戦の一次史料としてもっとも信頼のおける記述は、いうまでもなく合戦に参加した当事者が書き残したものです。
第一次上田合戦に関しては、合戦に参加した当事者の記録として最も信頼のおけるものとされるのが、のちに「天下の御意見番」として知られることになる徳川方の大久保彦左衛門が書き残した『三河物語』です。
三河物語に登場する合戦の記述の中で、なぜか負け戦である第一次上田合戦の記録がもっとも詳細です。命からがら逃げかえった苦い経験が、おそらく大久保彦左衛門の晩年に至るまで、もっとも鮮烈な記憶として残ったからではないかと思います。
合戦の当事者の記録、ややもすると自分の戦果を誇張しようとウソも混ざるきらいがありますが、この完全な負け戦に関しては、子孫にまで教訓を残そうと、どうして負けたのか戦術ミスを含めて記述していますので、いちばん信頼がおけると思われます。
『三河物語』の上田合戦を記述した部分をコピーしておきます。
『三河物語』より(国会図書館近代デジタルライブラリー)
(出所)http://kindai.ndl.go.jp/info:ndljp/pid/992777/103
右側の頁の赤線の部分では、家康が「ぬまた(沼田)を小田原(北条)へ渡せと仰せになったところ、さなだ(真田昌幸)は、ぬまたの城は上様よりいただいたものではなく、我らの手柄で取り立取った城なので筋違いの話です」と拒絶したことが書かれています。
左ページの赤線部分では、「上田之城へ押し寄せ、二の丸まで乱入」したと書かれています。二の丸まで乱入した様子、ドラマで描かれた通りです。このとき彦左衛門は「城に火をかけろ」と叫んだが、「火にまかれたら城内に突入した者が出てこれなくなる」と反論され、火をかけることを止めてしまったと悔しそうに書かれています。彦左衛門は、火をかけて城を裸にしてしまうことを優先すべきなのに、この判断の誤りが敗戦の原因になったと分析しています。
合戦に参加した当事者の記録ですから、確実な事実だと思います。ドラマの中でも大久保彦左衛門を登場させて、実際に火をかけようとするシーンなどがあったら、さらに盛り上がったかも知れません。大久保彦左衛門は大坂夏の陣でふたたび真田幸村と干戈を交えることになる因縁もあります。登場しなかったのはちょっと残念。
『三河物語』のその後の展開は、だいたいドラマに描かれた通りで、砥石城から打って出た真田の別動隊に追撃され、神川まで追い込まれて大打撃を受けます。「300余打ち取らる」とあり、戦死者は300人ほどと記されており、真田側の史料より少なくなっています。兄の大久保忠世が河原まで退却したことろで、彦左衛門本人は単騎で引き返して敵を防いだと書かれています。
味方の将兵たちは腰が抜けて立てなくなってしまって、まるで「下戸に酒を飲ませたようだった」とさんざんだった様子を隠さずに書いています。
敵の面前で高砂を踊るというエピソードは、真田方の史料である『加沢記』の記述でした。『三河物語』には高砂踊りは出てきません。
『加沢記』は1680年代に、改易された沼田真田家の元家臣で、浪人になっていた加沢平次左衛門が、おそらく失意のどん底の中で記した史書です。すべてを失った加沢が、歴史の研究を生き甲斐にして書いた記録と思われます。『史記』を書いた司馬遷の境遇とも重なるものがあるかも知れません。物語としての脚色もありますが、手紙などが正確に引用されていることから、相当に信頼できる史料と考えられています。おそらく、それで三谷さんも、『加沢記』のエピソードをドラマで多く用いているのだと思います。
1680年代のこのとき、93歳まで生きた真田信幸ですらさすがに他界していますので、すべて伝聞を元に書かれていると思われます。ですので、さすがに高砂踊りの話は本当かどうか・・・・。
しかし徳川方の合戦当事者である大久保彦左衛門の記述と、真田方の記述とは一致する部分も多いので興味深いです。加沢記も貼りつけておきます。『加沢記』では、合戦の直接の原因になったのは、室賀正武による暗殺未遂事件だと書かれています。
『加沢記』(国会図書館近代デジタルライブラリーより)
(出所)http://kindai.ndl.go.jp/info:ndljp/pid/1020961/42?tocOpened=1
真ん中あたりに「八千余騎の寄せ手轡(くつわ)を並べて旗をあげたりければ、昌幸公いざはやしをせよとて、若侍衆に申しつけられて、高砂をぞ初められける」と書かれています。ドラマで描かれた高砂踊りです。
そこから左へ3行飛ぶと、女・童も石つぶてを投げて抗戦した様子が書かれています。
歴史学者の中には、「真田信繁は、上杉に人質になっていたので第一次上田合戦に参戦できないはずだ」と考える方が多いのですが、ドラマの時代考証の平山優氏は、信繁も参戦していると考えています。
なぜかというと、ドラマでは描かれていませんでしたが、山之手殿(薫)が人質になって海津城に入っている記録があることから、平山氏は山之手殿は、信繁の代わりとなったのではないかと考えておられます。
『加沢記』でも、信繁は参戦したと記されています。左ページに、敵が二の丸に入ってきたところ、「藤蔵信為、舎弟隠岐守昌君」も三尺五寸の大太刀を引っ提げて、昌幸と共に討って出たと書かれています。この「藤蔵」が信繁の別名です。また隠岐守昌君とは、真田信伊のことです。ドラマでは、信伊は浜松城で捕われていましたが、『加沢記』では信伊も参戦したことになっています。
感動してしまうのが、『加沢記』では敵の大久保彦左衛門がすごくかっこよく登場することです。左ページの赤線部分に注目ください。本丸から昌幸父子が討って出て、徳川軍が総崩れになったところ、「やがて大久保彦左衛門、芦田右衛門が取って返してきて、昌幸父子に一文字に突き掛りたり」とあります。彦左衛門は、味方を逃がすため、自分が敵を引き付けようと、昌幸と信繁に果敢に挑んでいったというのです。カッコイイ!! このシーン、ドラマで再現して欲しかった・・・。
敵である真田方の史料にも、彦左衛門がかっこよく描かれているということに感動を覚えます。これはまことに微笑ましいです。
『加沢記』ではその後、伊勢山(砥石城の出城)にこもっていた真田信幸と出浦上野之介(昌相)が打って出て、敗走する徳川軍を神川に追い込んでいます。当日のうちに合戦は終わらず、徳川軍は追い込まれた状態で一夜を明かし、翌日再起を図るも再び神川に追い込まれて1000人が討ち死にしたと書かれ、「神川の流れは三日三夜赤く染まった」と書かれています。この辺は凄惨です。
史料によっては徳川軍を城まで誘い込むのは信幸がやったことになっていますが、『加沢記』の信幸は、砥石城から打って出て、徳川軍に止めをさす役割になっています。