この5年、八ッ場ダム問題にかかわる中で、国交省の官僚の方々とお付き合いをさせていただき、敗北を重ねてきた。負けおしみを言うようで潔くないのだが、事実関係の証明という次元においては、こちらが勝ってきたとしか思えない。しかし、国交省のダム推進政策を変えることができなかったという意味で、やはり負けは負けであった。もうこの国は、国権の最高機関であるはずの議会や、あるいは司法を通して、官僚をコントロールすることもできない、官僚独裁国家と化しているのだ。
前々回の記事で、元国交省官僚の宮本博司さんの講演を紹介した。宮本さんは、役人時代に住民参加の河川整備を実行しようと組織した淀川水系流域委員会が、巨大な圧力によって潰されたとき、新聞記者に向かって「いやー、国家権力って恐ろしいですねー」と語ったそうである。
宮本さん本人は、「自分が国交省の役人だった時代には国家権力が恐ろしいなんて思ったこともなかったが、辞めた後、市民として国交省と対峙してみて、本当に国家権力って恐ろしいと思った」とおっしゃっておられた。
霞が関官僚、外野からはほとんど喜劇的な存在にも見える。憲法に主権在民と書いてあるにも関わらず、市民からのコントロールを一切受け付けようとせず、意地でもテコでも変わろうとしない。この点は本当に、喜劇的だが恐ろしい。立憲民主主義など、安倍政権が破壊する以前に、日本にはそもそもなかったのかも知れない。
多分、宮本さんと同様、「国家権力の恐ろしさ」を、権力行使する側とされる側の双方に身を置いて熟知しているであろう佐藤優さん。最近出版された、佐藤優さんの『官僚階級論』を読んでみた。
佐藤優氏の『官僚階級論 ―霞が関といかに闘うか』(モナド新書、2015年)は、冒頭、霞が関官僚による鳩山政権の打倒は「静かなるクーデター」であったと説き起こされる。佐藤氏は、いまの日本の「官僚階級をこのまま放置すれば、戦争とそれによる国家的破滅は避けられないと思う」と冒頭に書き、強い危機意識でこの著作を世に問う姿勢を明らかにしている。私も佐藤氏と同じ危機意識を共有する。
官僚による「静かなクーデター」は、「政治主導」を掲げる民主党政権に対して、「日本国家を実質的に支配するのは官僚であることを思い知らせ」るための、官僚階級総体の「集合的無意識」によって成し遂げられたとする。その際に、米国の「ジャパン・ハンドラー」たちは、日本の官僚階級に全面協力したのだ、と。
クーデターの「主」は官僚であり、米国はそれに協力した「従」というのが佐藤氏の位置づけである。外務省に長年勤務し日本の外交の一線で活躍しながら、国家権力にとって煙たい存在になったときに容赦なく切って捨てられた佐藤氏の分析であるだけに、重みがある。
佐藤優氏の著作らしく、本の中にはマルクスの『資本論』からの引用が多い。『資本論』は、国家の介入がない、ブルジョアと地主とプロレタリアートの三つの階級からなる純粋資本主義社会を想定しているから、官僚は出てこない。佐藤氏は、官僚は、資本家階級(ブルジョアジー)から独立した「官僚階級」として認識すべきであると論じる。マルクス主義的な国家論では、資本主義社会における官僚は、ブルジョア階級の権力維持のための暴力装置の一部であるといった位置づけであるから、マルクスとは異なる国家論を提示しているわけだ。
佐藤氏の定義する官僚階級とは以下のような存在である。
官僚階級は、「国家を運営する官慮は、社会の外側にいて、社会から吸い上げる税金で生きている」「その暴力と収奪を組織的に行使する集団こそ、官僚階級です」と(35頁)。
そして、議会制民主主義の下では、主権者である国民が投票を通じて官僚階級をコントロールできることになっているが、それはフィクションにすぎないと喝破する。実態は、官僚階級自身が暴力を行使し国民からの収奪を貫徹しているのだ、と。
佐藤氏は、先進国はどこでもそうで、官僚階級はいざとなれば平気で国民を切り捨て、国民から収奪し、苦しみをもたらす存在であるとしている。
私は、地域ごと文化ごとに異なる歴史の発展径路があると思っているので、佐藤氏のように資本主義国家の官僚階級は一般的にすべて収奪機構・・・と各国の個性を超えて、国家一般を普遍化した上で、一刀両断に断罪する気にはなれない。
日本においても、60年代や70年代の官僚は、今に比べればよほどまともで、清廉で、国民を助けようとしていたと思う。また、ドイツやオランダやデンマークなどなどの官僚は、日本ほどひどくはなく、もっと市民が民主的にコントロールする余地があると思う。
しかし、現在の日本における「官僚階級」は佐藤氏の言う通りの存在であろう。この間の国交省の方々との不幸なお付き合いを通じて、強くそう思うようになった。先進資本主義国の官僚階級が一般的に悪だと言うつもりはない。ただ、日本の官僚の現状は度が過ぎてひどすぎるでしょう、と私は思うのだ。
ちなみに、この本における佐藤氏の解決策は、社会民主主義である。「な~んだ」とがっかりする声も聞こえそうだが、絶対的貧困化からファシズムと戦争へと向かう最悪の状況を阻止するためには、社会民主主義が可能な現実的選択であるという点に関して、私は佐藤氏の考えに同意する。ただし、その途の選択が可能か否かに関しては、甚だ心もとない。
ファシズムから戦争・・・・いまの現状を放置すればそうなるしかないわけだが、阻止できる可能性がわずかでもあるのなら、それを信じて各人がそれぞれの持ち場で抵抗するしかないだろう。
一つやらねばならないこと。官僚たちは、民意を無視しても自らの支配を貫徹することが正しいと信じ込んでいる。その思い込みが成立した起源を撃つことなのだ。
本年をふりかえって、わずかな光明があるとすれば、日本的官僚独裁制をつくりあげた根源にあるところの「明治維新神話」が解体過程に入ったことだろう。私は当ブログでそれを「長州史観の歴史的瓦解」と表現してきた。「明治維新の物語」の虚構が完全に崩れ落ちるとき、150年にわたって君臨し、かくも硬直してしまった官僚の独裁的支配と収奪の構造も、終わりの鐘が鳴るだろう。明治維新150周年は、官僚階級を支えてきた「明治維新物語」の支配を終わらせるチャンスである。