白井聡氏の『永続敗戦論』(太田出版、2013)は、戦後の日本を規定してきたレジームを「永続敗戦レジーム」と名付けている。敗戦を認めることを潔しとせず、対アジア関係ではきわめて尊大にふるまいながら、米国には卑屈なまでに屈服して従属することを指向するレジームである。慰安婦問題で安倍政権が「軍の関与」を認めて「おわびと反省」を表明したことは、日韓関係の改善を迫る米国の指令に屈従することが、アジアにおいて尊大にふるまうということを不可能にしているという点において、「永続敗戦レジーム」の崩壊を運命づけている。右翼政権にとっては「譲れない一線」であったはずのものを、宗主国に指令されるがままにやすやすと放棄したのだから。
白井氏は、前掲書において、「支配体制の歴史と記憶に対する支配の実効性」が揺らぎ、歴史の記憶が支配できなくなるとき、現実的な支配も実行不可能になると論じている。白井氏によれば、このレジームが成立したのは敗戦によってである。しかしながら、卑屈なまでに覇権国に従属する官僚支配のレジームが成立したのは第二次大戦後のことであろうか?
覇権国に従属しながら、国民や近隣諸国に対してはきわめて尊大で抑圧的にふるまうのは明治維新以来の長州レジームの特質である。1945年の太平洋戦争の敗戦によって生じたものではなく、1864年の下関戦争の敗戦によって発生したレジームであろう。
長州過激派は、1863年、英国公使館を焼き討ちし、ついで下関海峡を通過する外国商船を無差別砲撃するというIS顔負けのテロリズムを実行した。その翌年には天皇を拉致せんと京都御所を襲撃し、京都を火の海にするという禁門の変を引き起こした。しかるに、排外主義の長州が、下関戦争で四か国連合艦隊に惨敗し、屈服すると、あっというまに宗旨替えをして、イギリスの軍事的支援を受け、薩摩と手を結んで政権を奪取した。
その後、長薩は東北地方を蹂躙し、長州神社を創建し、アジア諸国には侵略的に、日本国民にはきわめて尊大に抑圧的に振る舞い、明治憲法と教育勅語を国民に押し付けた。そして覇権国である英国には卑屈なまでに屈従しながら、英国の言いなりに日露戦争へと突き進んでいったのである。
しかし排外主義の地金は消えないのか、長州閥の松岡洋右は国際連盟から脱退、次の覇権国と期待したナチス・ドイツと手を組んで大東亜共栄圏構想を掲げつつ、対米戦争に突き進んでいった。
同じく長州閥の岸信介は、東條英機内閣の商工大臣ついで実質的な軍需大臣として米英と戦い、敗戦後はA級戦犯となって巣鴨監獄に収監された。
しかるに岸信介は、獄中でCIAと悪魔の取引を実行して釈放され、あろうことか首相の座にまで登りつめた。米英と戦った戦時閣僚の岸が豹変してCIAの手先になって首相にまで登りつめたという事象は、イギリス公使館を焼き討ちし、排外主義的攘夷戦争を行った長州がいつのまにかイギリスと手を組んで政権を奪取した歴史の再現であった。そして岸派の流れである清和会は、自民党をのっとり、日本を支配している。これが長州レジームだ。つまり永続敗戦レジームを、より深層の部分で規定しているのは長州レジームなのである。
米国にとって、いくら岸の存在が都合がよかったからといって、ナチスの軍需大臣を戦後釈放して首相にするなどということがあり得ただろうか? 長州閥の政権回帰を許してしまったことが、戦後の米国の対日政策の最大の瑕疵であった。下関戦争を起こしたテロリストを許して、テロリストに武器を供与し、武力討幕を支援したことが、幕末イギリスの対日政策最大の瑕疵であったのと同様である。
現在、覇権国の指令が、長州神社への参拝を否定し、慰安婦問題での韓国への謝罪を促している。今日の日本にとって考えられる限り最悪の事態は、長州レジームが、永続敗戦レジームから脱して、松岡洋右的な転換を図ろうとすることだろう。
今年は敗戦70年であると同時に、大坂の陣で戦国が終焉した元和偃武400年であった。元和偃武400年に関しては本年ほとんど語られることがなかったのは遺憾であった。今後日本が長州レジームから脱却して目指すべき姿は、松岡洋右的転回ではなく、元和偃武後の徳川政権が志向した内需志向型経済への転回であろう。長州レジームから日本を取り戻さなければならない。
白井氏は、前掲書において、「支配体制の歴史と記憶に対する支配の実効性」が揺らぎ、歴史の記憶が支配できなくなるとき、現実的な支配も実行不可能になると論じている。白井氏によれば、このレジームが成立したのは敗戦によってである。しかしながら、卑屈なまでに覇権国に従属する官僚支配のレジームが成立したのは第二次大戦後のことであろうか?
覇権国に従属しながら、国民や近隣諸国に対してはきわめて尊大で抑圧的にふるまうのは明治維新以来の長州レジームの特質である。1945年の太平洋戦争の敗戦によって生じたものではなく、1864年の下関戦争の敗戦によって発生したレジームであろう。
長州過激派は、1863年、英国公使館を焼き討ちし、ついで下関海峡を通過する外国商船を無差別砲撃するというIS顔負けのテロリズムを実行した。その翌年には天皇を拉致せんと京都御所を襲撃し、京都を火の海にするという禁門の変を引き起こした。しかるに、排外主義の長州が、下関戦争で四か国連合艦隊に惨敗し、屈服すると、あっというまに宗旨替えをして、イギリスの軍事的支援を受け、薩摩と手を結んで政権を奪取した。
その後、長薩は東北地方を蹂躙し、長州神社を創建し、アジア諸国には侵略的に、日本国民にはきわめて尊大に抑圧的に振る舞い、明治憲法と教育勅語を国民に押し付けた。そして覇権国である英国には卑屈なまでに屈従しながら、英国の言いなりに日露戦争へと突き進んでいったのである。
しかし排外主義の地金は消えないのか、長州閥の松岡洋右は国際連盟から脱退、次の覇権国と期待したナチス・ドイツと手を組んで大東亜共栄圏構想を掲げつつ、対米戦争に突き進んでいった。
同じく長州閥の岸信介は、東條英機内閣の商工大臣ついで実質的な軍需大臣として米英と戦い、敗戦後はA級戦犯となって巣鴨監獄に収監された。
しかるに岸信介は、獄中でCIAと悪魔の取引を実行して釈放され、あろうことか首相の座にまで登りつめた。米英と戦った戦時閣僚の岸が豹変してCIAの手先になって首相にまで登りつめたという事象は、イギリス公使館を焼き討ちし、排外主義的攘夷戦争を行った長州がいつのまにかイギリスと手を組んで政権を奪取した歴史の再現であった。そして岸派の流れである清和会は、自民党をのっとり、日本を支配している。これが長州レジームだ。つまり永続敗戦レジームを、より深層の部分で規定しているのは長州レジームなのである。
米国にとって、いくら岸の存在が都合がよかったからといって、ナチスの軍需大臣を戦後釈放して首相にするなどということがあり得ただろうか? 長州閥の政権回帰を許してしまったことが、戦後の米国の対日政策の最大の瑕疵であった。下関戦争を起こしたテロリストを許して、テロリストに武器を供与し、武力討幕を支援したことが、幕末イギリスの対日政策最大の瑕疵であったのと同様である。
現在、覇権国の指令が、長州神社への参拝を否定し、慰安婦問題での韓国への謝罪を促している。今日の日本にとって考えられる限り最悪の事態は、長州レジームが、永続敗戦レジームから脱して、松岡洋右的な転換を図ろうとすることだろう。
今年は敗戦70年であると同時に、大坂の陣で戦国が終焉した元和偃武400年であった。元和偃武400年に関しては本年ほとんど語られることがなかったのは遺憾であった。今後日本が長州レジームから脱却して目指すべき姿は、松岡洋右的転回ではなく、元和偃武後の徳川政権が志向した内需志向型経済への転回であろう。長州レジームから日本を取り戻さなければならない。
悪名高い宗教カルト「統一協会」の文鮮明は経典『原理講論』に、日本は朝鮮に仕えるべきエバ国家である(英語版には「滅ぼすべき国家である」と書いてあるらしい)と書きながら、岸信介などと交流したりして、かつての大日本帝国の枠組みで自分の帝国を築きたかったのではないかと思われる節があります。
その彼がアメリカに入り浸っていたのはなぜなのでしょうね。
ハードディスククラッシュをきっかけに見つけた、以前ブックマークしておいた記事をご紹介したかったのですが、URLを記入すると受け付けてもらえないようなのでタイトルだけ記します。
「晴耕雨読」より「戦前・戦中に八紘一宇を掲げた超国家主義者が、なぜ戦後に平和憲法を礼賛したのか:中島岳志氏」
平和憲法を礼賛した元国家主義者は戦争に懲りたのでも武装放棄に賛同したのでもなく、超大国アメリカまたは国連という枠組みの一部になることで「最強」になったと満足した、ということでしょうか。
つまり「自分らしくありたい」「日本人らしくありたい」よりも「最強の日本でありたい」を優先する人々がアメリカべったりになり、アメリカの言うまま韓国に謝罪したりアメリカへの軍事奉仕がしやすいように伝統をねつ造したりしている、としか思えません。
福沢諭吉は明治維新の最後まで「幕臣」だった人ですが、礫川全次の『攘夷と憂国』によるとフランスと組んで長州勢を打倒しようとし、代償に国土の一部を譲渡することまで考えていたそうです。その福沢がヨーロッパを視察した時の船旅を回想して「圧政もまた愉快なり」と題して中国人を顎でこき使うイギリス人のようになりたい、できることならイギリス人もこき使えるようになれたらいいなという文章を書いています。さすがにイギリスを制圧してイギリス人をこき使うのは無理と見たのか、福沢は欧米側に媚びてアジアに植民地を勝ち取ることを選択します。そして憂国の士たちのあいだではそれはありふれた考えでした。
「強いものに媚びて弱いものを苛め抜く」のが卑しい人間像であるのはネトウヨ諸氏も承知していると思うのですが、そういう卑しい生き方を余儀なくされるほど現実は厳しいのでしょうか。
アメリカが岸信介を重宝したのは、日本政府を傀儡にすれば手駒として便利に使えるからではないでしょうか。天皇や日本政府へのレジスタンスが見られたら話は違っていたのかもしれません。
喪中にて新年のあいさつは失礼します。今年もよろしくお願いいたします。
>礫川全次の『攘夷と憂国』
私もこの本、拝読させていただきました。吉田松陰の密航目的はペリー暗殺計画にあったという説はどうも同意できなくて・・・。私は、密航計画時点での松陰と萩に幽閉されてからの松陰とでは考え方が変わったと考えています。
>福沢がヨーロッパを視察した時の船旅を回想して「圧政もまた愉快なり」と題して中国人を顎でこき使うイギリス人のようになりたい
本当に、あまりの愚かさにあきれかえります。彼を「偉人」として顕彰し、一万円札にして崇めているうちは、日本人は救われそうにありませんね。
>欧米側に媚びてアジアに植民地を勝ち取ることを選択します。そして憂国の士たちのあいだではそれはありふれた考えでした。
尊攘派の志士(=排外主義テロリスト)はそうだったと思います。しかし、幕臣や江戸で漢学・蘭学の素養のあるまともな知識人たちはそうではなかったと思えます。
いつか、りくにすさんは、佐久間象山も暗殺されなければ征韓論を唱えていたのではないかとおっしゃっていました。
最近、松代幽閉中の佐久間象山が、萩幽閉中の吉田松陰が象山に送りつけてきた『幽囚録』で、「カムチャツカから朝鮮からルソンまで征服せよ」みたいなことを書いているのを読んで、「この憎悪に満ちた言を反省すべきだ」という趣旨の朱書きしていることを知りました。
象山は、まるで最近のネトウヨみたいになってしまった弟子(松陰)の短慮を深く憂慮して、自省を促していたのです。井出孫六『石橋湛山と小国主義』岩波ブックレット、にそのことが書いてありました。
やはり漢学と儒学の素養の深い象山は、中国・朝鮮に対する差別意識をもっておらず、同じ東洋道徳をもつ同胞と考えていたのだと思います。
その考えは、同じ弟子の勝海舟には伝わり、吉田松陰には残念ながら伝わらなかったのでしょう。
>アメリカが岸信介を重宝したのは、日本政府を傀儡にすれば手駒として便利に使える
アメリカはそう考えたのでしょうね。まともな指導者を葬るためにテロリストを支援したり、軍部にクーデターを起こさせたりして、独裁者を政権につけるというのは英米のお家芸ですね。イランのパーレビとかインドネシアのスハルトとかチリのピノチェトとか枚挙にいとまがありません。薩長政権の成立も、その文脈の中で捉えればよいのでしょうか。
参院選で少しでもよい結果がでることを祈念します。
また、アメリカの大統領選でも、ウォール街や軍産複合体の操り人形ではない、清廉な候補が当選するというミラクルが起こることを夢みましょう。
投下をされております。
一発は広島、一発は長崎。
(長州過激派テロリストが)
パクストクガワーナ
を誹謗した報いです。
(広島は長州テロリストの先祖代々の
主の本拠地、長崎は長州過激派
テロリストの支援者
トーマス・グラバーの拠点である)
私の世代には非常に懐かしいハンドルネームをありがとうございます。
パクストクガワーナ250年の平和を破壊し、いままた戦後70年の平和を破壊しようとしている長州テロリスト。皮肉な因果です。
ドクターヘルより悪いテロ集団は、マジンガーZにやっつけていただきたいものです。