来年度の大河ドラマは「真田丸」。しかし、よりによってその年に八ッ場ダムの本体工事が進行し、真田幸隆・昌幸・信幸・信繁が愛した川原湯の温泉街と、忍びの技術ももった職能集団である吾妻衆が修行したであろう吾妻渓谷の景観が破壊される。
来年の大河ドラマでは、真田昌幸が執念を燃やした吾妻領・沼田領をめぐる抗争がドラマの序盤の焦点になろう。平山優氏の『天正壬午の乱』ならびに『武田遺領をめぐる動乱と秀吉の野望』は、吾妻・沼田領をめぐる真田=北条=徳川=上杉の抗争が戦国乱世を終わらせる要因となった事実を明らかにしたものである。その抗争の舞台であった歴史的景観を湖底に沈める国交省の罪は重い。国交省は、真田幸隆と昌幸のたたりを畏れるべきであろう。
私は、民主党政権が一時的に八ッ場ダムの中止を名言した際、中止後の地域再建策として、真田戦国の村としての八ッ場再生策を訴えた。民主党関係者にも訴えたが、全く広まらず、関心を持ってもらえなかったプランである。以下、そのプランを抜粋再掲したい。民主党があれほどの失政を繰り返すことがなかったら、来年の大河にもこのプランが活用できたかも知れなかった。
*****2010年12月17日の記事を抜粋再掲******
http://blog.goo.ne.jp/reforestation/e/e1c594a81caa64a4d9485f101593d508
展望のない「ダム観光」プランに代わる魅力的な観光開発プランが必要である。私は以前から、この地に「戦国村」を整備し、ロケ地としても活用する「時代劇版のハリウッド」にすべきと提起してきた。いま一度、そのプランを再論したい。
ダム湖に沈む面積は300ha以上もあるから、ダムが中止されれば広大な面積がさまざまな用途に使える。「八ッ場コモンズ」の一用途としてぜひ提起したいのが、「戦国村構想」なのだ。ダム計画によって移転していった集落の跡地に戦国時代の城下町や民家を再現する。八ッ場周辺に数多くある真田氏にゆかりの深い関連城郭を復元する。
戦国時代劇の撮影には金がかかり、NHK以外の民放では予算面の制約もあってなかなか制作できない。国有地であればロケ地として安価に提供できる。時代劇に必要な小道具も、ここに一式そろえて貸し出せるようにすればよい。NHKでも民放でも、映画会社でも、さまざまなクリエイター達が、誰でも使える時代劇村になる。とくにNHKの大河ドラマは、2~3年に1度の割合で戦国時代を舞台にするので、ロケ地として重宝されることになろう。「国有」というと、「民間活力を阻害する」などと言われるが、この場合は逆である。国有資産を広く民間に提供することにより、民間活力を引き出すのだ。
よい映像作品はまさに皆の共有財産として、子子孫孫まで語り伝えられることになる。名作は、日本のみならず海外にも広がり、地球人類にとっての「コモンズ」となる。名作は世代と国境の壁を超え、共有されるのだ。黒沢明監督の『七人の侍』などがそうなっているように。
これまで予算の制約から戦国時代劇にはなかなか手を出せなかった民放も、戦国村があれば戦国ドラマに挑戦可能となろう。もちろん、南北朝、鎌倉、平安など他の時代の時代劇も制作可能になろう。安い製作費で、良質な映像作品が生み出されることは、国民共通の利益となる。国有施設であるから、合戦シーンのエキストラなども全国のファンから募うことなども可能になろう。まさに皆でつくり、作品を共有するコモンズとなるのだ。
ダムができれば、その膨大な維持管理費は納税者への負担となり続ける。ダムに水を貯めることにより懸念されている地すべり災害が発生すれば、ダムの建設費用もさらに何千億円と上昇していくだろう。水道料金も上がる可能性が高い。
戦国村ならば、利用料金の徴収によって独立採算が可能であるから、納税者への負担になり続けることはない。そして何よりも、ここで名作が生み出されれば、自然と観光客も増え、ダム湖などよりはるかに大きく、地元の利益になり続けるのである。
丸岩城
八ッ場の地は、「戦国最強」の呼び声も高い真田家の領地の中核に位置し、真田を中心に、武田・上杉・北条の群雄割拠の攻防の舞台だった。この歴史的景観を湖底に沈めてはならない。
ダム予定地には、丸い奇岩の上に本丸が築かれた丸岩城が存在する(上の写真)。
丸岩城は、岩櫃城の支城である。岩櫃城は「知る人ぞ知る」、戦国期の山岳城郭の白眉ともいえる難攻不落の名城だ。下の写真が岩櫃城である。この断崖絶壁の裏側に本丸がある。
この二つの山城の個性豊かな風貌を見てほしい。天然の要害を徹底的に実戦のために活用しようした戦国期の日本人の精神性を見事に表象しているといえるだろう。
岩櫃城
ゆえに、この地ほど戦国村として妥当な場所も少ないだろうと思われるのである。何よりも、地元の人々に多大な迷惑をかけた上で収用の終わった広大な国有地がある。せめてこの土地を、子孫に迷惑を及ぼす構造物の建設のためにではなく、世界人類にとって有用な用途に使うことを考えるべきなのである。
岩櫃城は、戦国期に真田幸隆・昌幸が二代にわたって本城とした。「戦国武将人気ナンバー1」の呼び声も高い真田幸村(信繁)も、青春時代は吾妻の岩櫃城下ですごしたのだ。今も、この地を訪れる人は、この城を称賛してやまない。
武田家滅亡の折、城主・真田昌幸はこの城に武田勝頼を迎え入れ、織田・徳川連合軍に籠城戦で対抗しようとした。「織田vs真田」の合戦は幻となったが、「もし実際に行われていたら、やはり真田昌幸が勝ったのではないか?」 戦国ファンたちが、今でもそのような妄想をしてネットで意見をたたかわせている。それほど、この城は見事なのである。実際、真田昌幸はその3年後に徳川家康の大軍に勝利している。その真田昌幸が、最大の防御力を持つ城として最も頼りにしたのが、この岩櫃城なのである。
ダム湖は、この岩櫃城と丸岩城のあいだを分断するようにして造られる。何とも興ざめである。ダム湖予定地は古戦場でもあるのだ。
武田と織田が滅亡すると、ふたたび真田と上杉の間の戦闘が激しくなり、丸岩城は上杉方の手に落ちる。上州の沼田城から岩櫃城を経て信州の戸石城・上田城に行くには、この丸岩城の前を通過せねばならない。丸岩城を奪取すれば、上信二州にまたがる真田家の勢力を分断し、互いの交通を妨げることが可能になるのだ。上杉としては丸岩城は、真田を攻略するための橋頭堡としての戦略的意味を持ったのである。
真田以前の吾妻の旧領主は、羽尾氏や斉藤氏などであった。今も長野原には羽尾城跡が残る。武田信虎に攻め滅ぼされて上州に落ち延びた真田幸隆を助けたのが、吾妻の羽尾幸全であり、上州の名将・箕輪城主の長野業政であった。歴史は数奇である。のちに幸隆は、宿敵・武田信虎の子の晴信(信玄)に仕え、信玄の命を受け、大恩ある羽尾幸全や長野業政と戦うことになるのだ。
真田に敗れた羽尾の残党は、上杉謙信を頼って越後に落ち延びたが、吾妻奪還の執念を燃やし続けた。武田家が滅びたのを好機と見て、上杉景勝の援軍を得て丸岩城を奪い、岩櫃城の真田昌幸に戦いを挑んだのである。この羽尾=真田の戦いは、吾妻渓谷を挟んでその両岸で繰り広げられた(まさにダムサイトの地!)。この合戦の顛末は池波正太郎の『真田太平記』にも取り上げられている(文庫版2巻参照)。
国交省は、八ッ場ダム建設にあたって、こうした歴史を一切語らない。この地が「真田の史跡である」という事実は徹底的に隠ぺいされている。真田の「サ」の字でも出せば、全国の真田ファンから抗議が殺到すると思って恐れているからかも知れない。
来年の大河ドラマでは、真田昌幸が執念を燃やした吾妻領・沼田領をめぐる抗争がドラマの序盤の焦点になろう。平山優氏の『天正壬午の乱』ならびに『武田遺領をめぐる動乱と秀吉の野望』は、吾妻・沼田領をめぐる真田=北条=徳川=上杉の抗争が戦国乱世を終わらせる要因となった事実を明らかにしたものである。その抗争の舞台であった歴史的景観を湖底に沈める国交省の罪は重い。国交省は、真田幸隆と昌幸のたたりを畏れるべきであろう。
私は、民主党政権が一時的に八ッ場ダムの中止を名言した際、中止後の地域再建策として、真田戦国の村としての八ッ場再生策を訴えた。民主党関係者にも訴えたが、全く広まらず、関心を持ってもらえなかったプランである。以下、そのプランを抜粋再掲したい。民主党があれほどの失政を繰り返すことがなかったら、来年の大河にもこのプランが活用できたかも知れなかった。
*****2010年12月17日の記事を抜粋再掲******
http://blog.goo.ne.jp/reforestation/e/e1c594a81caa64a4d9485f101593d508
展望のない「ダム観光」プランに代わる魅力的な観光開発プランが必要である。私は以前から、この地に「戦国村」を整備し、ロケ地としても活用する「時代劇版のハリウッド」にすべきと提起してきた。いま一度、そのプランを再論したい。
ダム湖に沈む面積は300ha以上もあるから、ダムが中止されれば広大な面積がさまざまな用途に使える。「八ッ場コモンズ」の一用途としてぜひ提起したいのが、「戦国村構想」なのだ。ダム計画によって移転していった集落の跡地に戦国時代の城下町や民家を再現する。八ッ場周辺に数多くある真田氏にゆかりの深い関連城郭を復元する。
戦国時代劇の撮影には金がかかり、NHK以外の民放では予算面の制約もあってなかなか制作できない。国有地であればロケ地として安価に提供できる。時代劇に必要な小道具も、ここに一式そろえて貸し出せるようにすればよい。NHKでも民放でも、映画会社でも、さまざまなクリエイター達が、誰でも使える時代劇村になる。とくにNHKの大河ドラマは、2~3年に1度の割合で戦国時代を舞台にするので、ロケ地として重宝されることになろう。「国有」というと、「民間活力を阻害する」などと言われるが、この場合は逆である。国有資産を広く民間に提供することにより、民間活力を引き出すのだ。
よい映像作品はまさに皆の共有財産として、子子孫孫まで語り伝えられることになる。名作は、日本のみならず海外にも広がり、地球人類にとっての「コモンズ」となる。名作は世代と国境の壁を超え、共有されるのだ。黒沢明監督の『七人の侍』などがそうなっているように。
これまで予算の制約から戦国時代劇にはなかなか手を出せなかった民放も、戦国村があれば戦国ドラマに挑戦可能となろう。もちろん、南北朝、鎌倉、平安など他の時代の時代劇も制作可能になろう。安い製作費で、良質な映像作品が生み出されることは、国民共通の利益となる。国有施設であるから、合戦シーンのエキストラなども全国のファンから募うことなども可能になろう。まさに皆でつくり、作品を共有するコモンズとなるのだ。
ダムができれば、その膨大な維持管理費は納税者への負担となり続ける。ダムに水を貯めることにより懸念されている地すべり災害が発生すれば、ダムの建設費用もさらに何千億円と上昇していくだろう。水道料金も上がる可能性が高い。
戦国村ならば、利用料金の徴収によって独立採算が可能であるから、納税者への負担になり続けることはない。そして何よりも、ここで名作が生み出されれば、自然と観光客も増え、ダム湖などよりはるかに大きく、地元の利益になり続けるのである。
丸岩城
八ッ場の地は、「戦国最強」の呼び声も高い真田家の領地の中核に位置し、真田を中心に、武田・上杉・北条の群雄割拠の攻防の舞台だった。この歴史的景観を湖底に沈めてはならない。
ダム予定地には、丸い奇岩の上に本丸が築かれた丸岩城が存在する(上の写真)。
丸岩城は、岩櫃城の支城である。岩櫃城は「知る人ぞ知る」、戦国期の山岳城郭の白眉ともいえる難攻不落の名城だ。下の写真が岩櫃城である。この断崖絶壁の裏側に本丸がある。
この二つの山城の個性豊かな風貌を見てほしい。天然の要害を徹底的に実戦のために活用しようした戦国期の日本人の精神性を見事に表象しているといえるだろう。
岩櫃城
ゆえに、この地ほど戦国村として妥当な場所も少ないだろうと思われるのである。何よりも、地元の人々に多大な迷惑をかけた上で収用の終わった広大な国有地がある。せめてこの土地を、子孫に迷惑を及ぼす構造物の建設のためにではなく、世界人類にとって有用な用途に使うことを考えるべきなのである。
岩櫃城は、戦国期に真田幸隆・昌幸が二代にわたって本城とした。「戦国武将人気ナンバー1」の呼び声も高い真田幸村(信繁)も、青春時代は吾妻の岩櫃城下ですごしたのだ。今も、この地を訪れる人は、この城を称賛してやまない。
武田家滅亡の折、城主・真田昌幸はこの城に武田勝頼を迎え入れ、織田・徳川連合軍に籠城戦で対抗しようとした。「織田vs真田」の合戦は幻となったが、「もし実際に行われていたら、やはり真田昌幸が勝ったのではないか?」 戦国ファンたちが、今でもそのような妄想をしてネットで意見をたたかわせている。それほど、この城は見事なのである。実際、真田昌幸はその3年後に徳川家康の大軍に勝利している。その真田昌幸が、最大の防御力を持つ城として最も頼りにしたのが、この岩櫃城なのである。
ダム湖は、この岩櫃城と丸岩城のあいだを分断するようにして造られる。何とも興ざめである。ダム湖予定地は古戦場でもあるのだ。
武田と織田が滅亡すると、ふたたび真田と上杉の間の戦闘が激しくなり、丸岩城は上杉方の手に落ちる。上州の沼田城から岩櫃城を経て信州の戸石城・上田城に行くには、この丸岩城の前を通過せねばならない。丸岩城を奪取すれば、上信二州にまたがる真田家の勢力を分断し、互いの交通を妨げることが可能になるのだ。上杉としては丸岩城は、真田を攻略するための橋頭堡としての戦略的意味を持ったのである。
真田以前の吾妻の旧領主は、羽尾氏や斉藤氏などであった。今も長野原には羽尾城跡が残る。武田信虎に攻め滅ぼされて上州に落ち延びた真田幸隆を助けたのが、吾妻の羽尾幸全であり、上州の名将・箕輪城主の長野業政であった。歴史は数奇である。のちに幸隆は、宿敵・武田信虎の子の晴信(信玄)に仕え、信玄の命を受け、大恩ある羽尾幸全や長野業政と戦うことになるのだ。
真田に敗れた羽尾の残党は、上杉謙信を頼って越後に落ち延びたが、吾妻奪還の執念を燃やし続けた。武田家が滅びたのを好機と見て、上杉景勝の援軍を得て丸岩城を奪い、岩櫃城の真田昌幸に戦いを挑んだのである。この羽尾=真田の戦いは、吾妻渓谷を挟んでその両岸で繰り広げられた(まさにダムサイトの地!)。この合戦の顛末は池波正太郎の『真田太平記』にも取り上げられている(文庫版2巻参照)。
国交省は、八ッ場ダム建設にあたって、こうした歴史を一切語らない。この地が「真田の史跡である」という事実は徹底的に隠ぺいされている。真田の「サ」の字でも出せば、全国の真田ファンから抗議が殺到すると思って恐れているからかも知れない。
あの時に関さんの提案が受け入れられていたら・・・。
もう、工事が進んで往時の姿を想像するのも難しくなりましたね。子供の頃から通った景色の思い出を終生大事にして行こうと思います。
こちらの記事、BOTの方でも紹介させていただきました。
この国の巨大公共事業は、いちど動き出したら、不要になっても止まらないという状況がいまだ続いており、暗澹たる思いです。