「政治主導」「脱官僚」を掲げた民主党政権への期待が失望に変わり、気がつけば自民党以上に官僚と経団連の言いなりの「官財主導政治」が行われるようになった。残念ながらこの国では、「選挙」も「議会」も「内閣」も、官・財のインナーサークルによる閉じられた「ムラ政治」の本質を隠ぺいし、「近代的」「民主的」偽装を施すための外皮にすぎないのだ。そのことが、政権交代という実験の失敗を通していよいよハッキリとしてきた。
どうしてこうなったのだろうか? 明治維新は近代国民国家を目指した革命ではなかったのか? なぜ官僚ムラ政治がいまだにまかり通っているのだろう?
「近代官僚ムラ政治システム」の起源を考えるとき、私はどうしても、赤松小三郎と坂本龍馬という二人の人物の政治的暗殺事件に思いを馳せざるを得ないのである。
私は以前このブログにおいて、慶応三年に日本で初めて議会制民主主義を唱えた信州上田藩士・赤松小三郎の国家構想を紹介したことがある。(この記事から3回シリーズ)
赤松の「御改正口上書」に見る国家構想の要点をまとめれば以下の三点となる。
①上下両院の議会(議政局)が政治を行う。下院議員は各藩の選挙区から普通選挙によって選出し、上院議員は旗本・公卿・諸侯の中から英明な人物をやはり選挙によって選出する。
②議会は立法、予算の策定、条約の締結を行い、さらに首相以下の内閣閣僚および各省高官の任命権を持つ。
③議会は国権の最高機関であり、天皇といえども、議会の決定には従わねばならない。
まず「議会あれ」である。議会によって立法がなされ、首相と閣僚が任命され、官僚組織が形成される。
「新政府綱領八策」に見る坂本龍馬の国家構想も、まずは諸候会議という公的な場での決議を経て、上下両院議会の設置が決められ、議会が招集され、憲法の制定を行うというものであった。近代国家の大本に議会を置く構想である。
これらの構想に従って近代国家が始まっていたら、今日のように官僚が専横する事態には決してならなかったであろう。
しかしながら、赤松小三郎は薩摩藩によって暗殺されてしまった(暗殺の黒幕は西郷隆盛である可能性が濃厚である)。さらに龍馬の構想にあった諸侯会議は、やはり薩摩藩の西郷隆盛らの謀略によって潰されてしまった。そして「議会の開設」ではなく「王政復古」が宣言されてしまい、「王政」の名の下に官僚独裁政治がまかり通るようになったのだ。
こうして実際の歴史は、赤松や龍馬の構想した近代国家形成の順序とは真逆な方向で進んだのである。以下のように。
①薩長土肥の維新志士たちがその能力とは無関係にトップに据えられ非民主的な手法で官僚機構が誕生。維新志士たちが独断専横で法制度を整備。
②維新による官僚機構の誕生から17年を経て1885年に内閣制度が誕生し、さらにその5年後の1990年にようやく議会が招集される。
③国権の最高機関は天皇であり、内閣は天皇を輔弼するものでしかなく、議会は天皇の立法を協賛するものでしかなかった。
赤松の構想は、「議会→内閣→官僚」であったが、実際に起こったことは「官僚→内閣→議会」であった。順番が真逆なのである。はじめに官僚政治ありき。内閣や議会は、維新志士による官僚独裁政治の本質を隠し、近代を偽装するための外皮として後からとってつけたものなのだ。
議会のないまま維新志士たちが独走した23年の間に、官僚たちの「我は国家なり」の傲慢不遜な意識が形成され、その意識が後輩たちに連綿と引き継がれて現在にいたっている。後からできた内閣や国会なぞ、各省の官僚たちはそもそもお飾り程度にしか考えていなかった。今でもそうなのである。明治維新とは「裏切られた革命」であった。
次のような質問が出ることが当然に予想される。維新志士たちの官僚主導体制で、日本は大きく間違えなかったのではないか? 立派に近代国家を作り上げたではないか。維新志士たちの藩閥政治は、効率的な近代化をなし遂げるのに有用だったのではないか?
確かにそう見える。しかし、それは自分でモノゴトを決める必要がなかったからだ。彼らがやったことは、フランスであれドイツであれ、西洋の制度を翻訳して日本に導入するだけのことだったのである。所詮必要なのは模倣能力のみであった。
単に模倣すればよかったのだから、議会なぞなくても、官僚独裁政治でも大きな間違いは生じなかったのだ。日本の不幸は、その官僚主導体制を改めることのできぬまま戦争に突入し、さらに日本を占領した米国すらが、軍閥や財閥や大地主制度は解体できても、官僚政治の構造を温存してしまったことなのだ。
かくして赤松小三郎と坂本龍馬の理想はいまだ果たされぬままとなっている。
おまけに、なんでも外国のマネをすればよいのだという、「自分で決められない」悪癖までが現在にまで引き継がれている。それ故、現在でも重要な意志決定はアメリカ任せになるのである。ウィキリークスでも暴露されているように、官僚は首相の意志ではなく、アメリカの意向に従って政治をするのである。
いまは模倣の時代ではない。寄らば大樹の時代でもない。先例のない道を、自らの力で切り開かねばならないのだ。
最後に、赤松小三郎、坂本龍馬、西郷隆盛の関係について、さらに詳しく知りたい方のために、最近出た本を一冊推薦したい。
鏡川伊一郎『司馬さん、そこは違います! “龍馬”が勝たせた日露戦争』(日本文芸社、2010年)である。目から鱗が何枚も落ちると思う。この本は、まず「日本海軍を強くした二人の龍馬」にスポットを当てるのだが、鏡川氏の言う「もう一人の龍馬」とは、赤松小三郎のことである。
小三郎や龍馬の暗殺の真相についての鏡川説は非常に説得力がある。王政復古が宣言された小御所会議は、龍馬の公議政体論(=議会政治)を葬るためのクーデターだったのであり、そのクーデターを首謀した西郷隆盛という人物の真相についてもじつに興味深い。
どうしてこうなったのだろうか? 明治維新は近代国民国家を目指した革命ではなかったのか? なぜ官僚ムラ政治がいまだにまかり通っているのだろう?
「近代官僚ムラ政治システム」の起源を考えるとき、私はどうしても、赤松小三郎と坂本龍馬という二人の人物の政治的暗殺事件に思いを馳せざるを得ないのである。
私は以前このブログにおいて、慶応三年に日本で初めて議会制民主主義を唱えた信州上田藩士・赤松小三郎の国家構想を紹介したことがある。(この記事から3回シリーズ)
赤松の「御改正口上書」に見る国家構想の要点をまとめれば以下の三点となる。
①上下両院の議会(議政局)が政治を行う。下院議員は各藩の選挙区から普通選挙によって選出し、上院議員は旗本・公卿・諸侯の中から英明な人物をやはり選挙によって選出する。
②議会は立法、予算の策定、条約の締結を行い、さらに首相以下の内閣閣僚および各省高官の任命権を持つ。
③議会は国権の最高機関であり、天皇といえども、議会の決定には従わねばならない。
まず「議会あれ」である。議会によって立法がなされ、首相と閣僚が任命され、官僚組織が形成される。
「新政府綱領八策」に見る坂本龍馬の国家構想も、まずは諸候会議という公的な場での決議を経て、上下両院議会の設置が決められ、議会が招集され、憲法の制定を行うというものであった。近代国家の大本に議会を置く構想である。
これらの構想に従って近代国家が始まっていたら、今日のように官僚が専横する事態には決してならなかったであろう。
しかしながら、赤松小三郎は薩摩藩によって暗殺されてしまった(暗殺の黒幕は西郷隆盛である可能性が濃厚である)。さらに龍馬の構想にあった諸侯会議は、やはり薩摩藩の西郷隆盛らの謀略によって潰されてしまった。そして「議会の開設」ではなく「王政復古」が宣言されてしまい、「王政」の名の下に官僚独裁政治がまかり通るようになったのだ。
こうして実際の歴史は、赤松や龍馬の構想した近代国家形成の順序とは真逆な方向で進んだのである。以下のように。
①薩長土肥の維新志士たちがその能力とは無関係にトップに据えられ非民主的な手法で官僚機構が誕生。維新志士たちが独断専横で法制度を整備。
②維新による官僚機構の誕生から17年を経て1885年に内閣制度が誕生し、さらにその5年後の1990年にようやく議会が招集される。
③国権の最高機関は天皇であり、内閣は天皇を輔弼するものでしかなく、議会は天皇の立法を協賛するものでしかなかった。
赤松の構想は、「議会→内閣→官僚」であったが、実際に起こったことは「官僚→内閣→議会」であった。順番が真逆なのである。はじめに官僚政治ありき。内閣や議会は、維新志士による官僚独裁政治の本質を隠し、近代を偽装するための外皮として後からとってつけたものなのだ。
議会のないまま維新志士たちが独走した23年の間に、官僚たちの「我は国家なり」の傲慢不遜な意識が形成され、その意識が後輩たちに連綿と引き継がれて現在にいたっている。後からできた内閣や国会なぞ、各省の官僚たちはそもそもお飾り程度にしか考えていなかった。今でもそうなのである。明治維新とは「裏切られた革命」であった。
次のような質問が出ることが当然に予想される。維新志士たちの官僚主導体制で、日本は大きく間違えなかったのではないか? 立派に近代国家を作り上げたではないか。維新志士たちの藩閥政治は、効率的な近代化をなし遂げるのに有用だったのではないか?
確かにそう見える。しかし、それは自分でモノゴトを決める必要がなかったからだ。彼らがやったことは、フランスであれドイツであれ、西洋の制度を翻訳して日本に導入するだけのことだったのである。所詮必要なのは模倣能力のみであった。
単に模倣すればよかったのだから、議会なぞなくても、官僚独裁政治でも大きな間違いは生じなかったのだ。日本の不幸は、その官僚主導体制を改めることのできぬまま戦争に突入し、さらに日本を占領した米国すらが、軍閥や財閥や大地主制度は解体できても、官僚政治の構造を温存してしまったことなのだ。
かくして赤松小三郎と坂本龍馬の理想はいまだ果たされぬままとなっている。
おまけに、なんでも外国のマネをすればよいのだという、「自分で決められない」悪癖までが現在にまで引き継がれている。それ故、現在でも重要な意志決定はアメリカ任せになるのである。ウィキリークスでも暴露されているように、官僚は首相の意志ではなく、アメリカの意向に従って政治をするのである。
いまは模倣の時代ではない。寄らば大樹の時代でもない。先例のない道を、自らの力で切り開かねばならないのだ。
最後に、赤松小三郎、坂本龍馬、西郷隆盛の関係について、さらに詳しく知りたい方のために、最近出た本を一冊推薦したい。
鏡川伊一郎『司馬さん、そこは違います! “龍馬”が勝たせた日露戦争』(日本文芸社、2010年)である。目から鱗が何枚も落ちると思う。この本は、まず「日本海軍を強くした二人の龍馬」にスポットを当てるのだが、鏡川氏の言う「もう一人の龍馬」とは、赤松小三郎のことである。
小三郎や龍馬の暗殺の真相についての鏡川説は非常に説得力がある。王政復古が宣言された小御所会議は、龍馬の公議政体論(=議会政治)を葬るためのクーデターだったのであり、そのクーデターを首謀した西郷隆盛という人物の真相についてもじつに興味深い。
議会政治の遅れについて、西郷の意思が働いて云々とありますが、明治政府は初期の段階で30年計画というものを持っていたそうです。そもそも典型的な官僚タイプである大久保利通はその計画にそって政治を進めてゆきたいという意向をもっており、西郷もこの点については同意していたと思われます。最初の10年は国内の反対勢力の鎮圧、次の10年は内治の充実そしてその次が議会の制定というふうに暫時進行させる計画をもっていましたが、それが急に速まって計画が中途半端に進行してしまったというのが実情であったようです。ですから必ずしも西郷に責任を問うべきではないのではないでしょうか。
たしかに日本型官僚主義形成の多くの部分は大久保利通に起因すると思います。
赤松小三郎の暗殺も、西郷のみならず大久保も関与しているのかも知れません。この辺は歴史学者の方々に真相を究明してほしいと思います。
西郷は激情的革命家の典型で、怜悧な官僚主義的な人間とは対極に位置するタイプなのでしょう。しかしながら激情に任せ、テロで公議政体論を潰していった事に対する責任は負っていると思います。