代替案のための弁証法的空間  Dialectical Space for Alternatives

批判するだけでは未来は見えてこない。代替案を提示し、討論と実践を通して未来社会のあるべき姿を探りたい。

各省の事務次官は内閣ではなく国会が任命すべき

2017年09月02日 | 政治経済(日本)

 官僚が安倍政権に「忖度」し、内閣の暴走を許してしまった諸悪の根源として、「内閣人事局」の存在を指摘する声は大きい。

 最近、古賀茂明氏(元経済産業省・内閣審議官)の以下の記事を読んで、内閣人事局の創設を提案したのは、古賀氏だということを知った。安倍政権批判の代表的論客の一人である古賀氏が、安倍政権の暴走を許すことになった制度の提唱者だとしたら、なんとも皮肉な、残酷ともいえる歴史の巡り合わせである。

アエラの古賀氏の記事参照
https://headlines.yahoo.co.jp/article?a=20170827-00000021-sasahi-pol&p=1



★内閣人事局批判と反批判

 古賀氏は、内閣人事局批判の多くは、官僚が反安倍の記者などをうまく活用しながら行っているとし、ツイッター上で以下のように反批判しておられた。 

 「安倍政権が国民のために仕事をしていれば、内閣人事局が官僚人事に関与しても何の問題もない。
  安倍政権が自分のお友達のために仕事をしているのが問題なのだ。
  官僚たちの内閣人事局批判は、政治主導を止めて昔の「官僚主導]に戻すためのものだ。


 文科省VS安倍官邸バトルが始まったとき、私は「どちらも支持できない。泥沼のバトルをして、共倒れしてくれるのが国民にとって最善である」と書いた。安倍政権の「内閣主導」の暴走も、元来の「官僚主導」、天下りパラダイスの復活も、双方が悪夢でしかないからだ。

 しかし、古賀氏の主張に同調することもできない。「お友達ファースト」の内閣ではなく、国民ファーストの内閣ができれば、内閣人事局に何ら問題はないという主張は、実際そうなのであるが、危ういものがある。
 選挙は万能ではなく、選挙民が間違うと、ヒトラーや麻生のような、間違った「動機」をもつ人物が内閣を組織してしまうことがあり、取り返しのつかないヒサンな「結果」につながることもある。(正しい動機で、間違った結果になるということは滅多にない)
 
★赤松小三郎の憲法構想で各省事務次官は国会が任命

 内閣人事局は、国民の目に触れない密室の中でで人事を行う。それが問題なのだ。国民の目に触れないところで人事を行えば、安倍政権ならずとも、国民のための政治ではなく、お友達に利権を供与するクローニー政治に堕してしまう可能性は、どの内閣であっても否定できない。

 慶応3年に日本ではじめて民主的な憲法構想を提案した赤松小三郎の統治プランを紹介しよう。赤松小三郎の構想では、国会は、首相のみならず、全ての閣僚と各省の事務次官級の高官にまで任命責任を負うことになっていた。彼は、江戸時代に、現行憲法以上に議会の権限が強い制度を提案していたのである。
 気が付けば、明日2017年9月3日は赤松小三郎が暗殺されて150年目の命日である。

 赤松小三郎の言うように、国会が、各省の事務次官にまで任命責任を負えば、その人事はすべてオープンになり、国民の監視が行き届くことになる。そうなれば、お友達のためでもなく、省益のためでもない、国民のための行政の実現に一歩近づくだろう。
 内閣が任命した場合、国民に対して不透明になり、それゆえ恣意性で選ばれかねない。国会が行政の人事を審査し、最終的な任命責任を負えば、お友達を優先するような人事はできなくなる。

★荒井達夫氏の公務員制度改革案

 150年前に赤松小三郎が提案した憲法構想を高く評価してくださっている荒井達夫先生(元参議院憲法審査会事務局、現千葉経済大学特任教授)は、以下のように述べておられる。

・各省ごとに一人の事務次官をつくり出すために職員が生涯を懸けて競争するキャリアシステムは、出世意欲という私益追求が不可避的に国家レベルでの反公益となってしまう宿命を持つ人事の仕組みである。
・弱い内閣では官僚による政府の支配となり、強い内閣では、官僚は政治家に迎合し、政府との共生を図る。国民に対し直接責任を持たない巨大な権力機構である官僚機構が公共の利益に反する無責任な行政をつくり出してしまう。(2016.2.17参議院憲法審査会・荒井氏の意見陳述より)


 荒井先生の提案は以下の二つである。赤松小三郎の問題意識と通底するものがある。

・事務次官を特別職の公募任用制に(キャリアシステムの廃止)
・参議院行政監視調査局を創設する(行政の組織・人事の監視)



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