磯田道史氏の『「司馬遼太郎」で学ぶ日本史』(NHK出版新書)を読んだ。私は、いわゆる「司馬史観」の最大の問題点は、明治維新から日露戦争までの40年間を、坂の上の雲を目指して駆け上がっていくような、日本史上でも栄光に満ちた時代であったと解釈していることだと思う。司馬の解釈では、日露戦争の戦勝に酔い、明治維新がつくった近代的合理主義は駆逐され、精神主義や形式主義に毒されていって、ついに昭和の「鬼胎の時代」に行き着いた。つまり明治と昭和の間には不連続な断絶があるという解釈だ。
しかし、両者の間に断絶をもたらすようなシステム上の変化はない。明治憲法の法体系は、明治は栄光の時代を作ったが、昭和になって同じ法体系が鬼胎の時代を産んだと解釈するのには無理がある。
「国体の変革」を目指したものを容赦なく死刑にするという、イスラム原理主義国家の如き、希代の悪法「治安維持法」すらも、「天皇は神聖にして侵すべからず」という明治憲法の条文から連続した法制度であり、不連続なものではない。
磯田氏は、本書においてこの司馬史観の矛盾を指摘して、次のように修正を促している。(145-147頁)
「社会の病というのは、現実の病気に似て潜伏期間があり、昭和に入ってとんでもない戦争に突入してしまう菌や病根は、やはり明治に生じていたのではなかったか。明治という時代は、まだそれが発症していない『幸せな潜伏期間』だったのではないか。
(中略)
『明るいリアリズムと合理主義の体現者』として触れた秋山真之ですら、日本の軍には天の助けがある、あるいは天皇の率いる軍は天佑を保有している、といった超自然的な考え方から完全に抜け出ることはありませんでした。
(中略)
国家をあげて超自然的なことがらを信じ教えているのは、その国家がある種の宗教団体であり、宗教国家に近い色彩を帯びていることを意味します」
この点、まったく正しい指摘である。「さすが磯田道史」と言いたいところであるが、その次がいただけない。
なぜ日本という国家は「ある種の宗教団体」のようになってしまったのかという点に関して、磯田氏は、「私は、明治14年の政変ごろ、日本が国家モデルの目標を急速にプロイセン・ドイツへと移した時期に、病魔のもととなる菌が植え付けられたと考えています。明治14年の政変とは、1881年にイギリス流の国会を開設し、憲法制定を急いだ大隈重信らを、対立する伊藤博文らが追放した事件です」と書く。
分岐点をどこに置くのかは論者によってさまざまであっても、明治維新以降の日本は順調に発展していたが、どこか途中でおかしくなったという説には、いまだ大多数の日本人が賛同するのではないかと思う。
最近、「大日本帝国が本当の意味で変調をきたしたのは1943年から」という三浦瑠麗氏の「すごい」(としか言いようがない)新説まで飛び出し、さすがのネトウヨですら三浦説は擁護できないようであった。しかし、大日本帝国が変調をきたしたのは日露戦争の戦勝に酔ってからという司馬説や、明治14年政変からという磯田説などには賛同者が多いのではないかと思う。
磯田氏は明治14年(1881年)の政変を、歴史の分岐点と見る。司馬遼太郎は日露戦争の明治38年(1905年)を分岐点を見る。司馬氏よりも、病魔の根源が植え付けられたのを24年早めているわけだが、苦しい説明であると言わざるを得ない。長薩が主導した明治維新の時点で、「宗教国家」の種が撒かれ、根が張ってしまっていたが故に、肥前の大隈は、長州の伊藤に敗れざるを得なかったのであり、伊藤が勝ったから宗教国家の根が植え付けられたわけではない。説明の因果関係が逆転しているのだ。
磯田氏が、明治14年の政変という中途半端なところに苦しい線を引かざるを得ない理由は、国民的物語としての「明治維新神話」を救いたいが故であろう。明治維新は正しかったが、その後におかしくなったと主張しないと、歴史学者としての自分の地位が危うくなるからだろう。それ故、どうしても明治維新そのものを批判するという一線は、超えることができないのであろう。
私たちが明治維新を批判できない以上、明治維新が日本に植え付けた病根はいつまでも日本を呪縛し続け、「鬼胎の時代」を再来させるであろう。日本人はそのことに気付かねばならない。
磯田氏は、司馬遼太郎作品の最高傑作として長州の大村益次郎を主人公とした『花神』を挙げる。司馬は、大村を、近代合理主義の体現者として捉え、大村を取り上げることで明治の近代合理主義的側面を浮き彫りにしようとしたのだ、と。
ならば何故、大村益次郎は、東京招魂社(長州神社)なる宗教原理主義国家の根幹的な「装置」の建設に手を貸してしまったのか。先の秋山真之同様、大村ですら、長州の神国思想、楠木正成的な「七生報国」思想に感化されてしまっていたからであろう。
司馬遼太郎は、明治維新の合理的精神を代表する人物として大村益次郎を選ばざるを得なかった時点で、大日本帝国がいずれ鬼胎の時代に至る必然性を持っていたことに気付かねばならなかったはずなのである。
宗教原理主義国家の種が撒かれたのは明治維新である。明治維新の時点で、それが「鬼胎の時代」を経て滅亡することは運命づけられていたのだ。手前ミソで恐縮であるが、拙著『赤松小三郎ともう一つの明治維新 ーテロに葬られた立憲主義の夢』(作品社)では、そのことを明確に展開した。
しかし、両者の間に断絶をもたらすようなシステム上の変化はない。明治憲法の法体系は、明治は栄光の時代を作ったが、昭和になって同じ法体系が鬼胎の時代を産んだと解釈するのには無理がある。
「国体の変革」を目指したものを容赦なく死刑にするという、イスラム原理主義国家の如き、希代の悪法「治安維持法」すらも、「天皇は神聖にして侵すべからず」という明治憲法の条文から連続した法制度であり、不連続なものではない。
磯田氏は、本書においてこの司馬史観の矛盾を指摘して、次のように修正を促している。(145-147頁)
「社会の病というのは、現実の病気に似て潜伏期間があり、昭和に入ってとんでもない戦争に突入してしまう菌や病根は、やはり明治に生じていたのではなかったか。明治という時代は、まだそれが発症していない『幸せな潜伏期間』だったのではないか。
(中略)
『明るいリアリズムと合理主義の体現者』として触れた秋山真之ですら、日本の軍には天の助けがある、あるいは天皇の率いる軍は天佑を保有している、といった超自然的な考え方から完全に抜け出ることはありませんでした。
(中略)
国家をあげて超自然的なことがらを信じ教えているのは、その国家がある種の宗教団体であり、宗教国家に近い色彩を帯びていることを意味します」
この点、まったく正しい指摘である。「さすが磯田道史」と言いたいところであるが、その次がいただけない。
なぜ日本という国家は「ある種の宗教団体」のようになってしまったのかという点に関して、磯田氏は、「私は、明治14年の政変ごろ、日本が国家モデルの目標を急速にプロイセン・ドイツへと移した時期に、病魔のもととなる菌が植え付けられたと考えています。明治14年の政変とは、1881年にイギリス流の国会を開設し、憲法制定を急いだ大隈重信らを、対立する伊藤博文らが追放した事件です」と書く。
分岐点をどこに置くのかは論者によってさまざまであっても、明治維新以降の日本は順調に発展していたが、どこか途中でおかしくなったという説には、いまだ大多数の日本人が賛同するのではないかと思う。
最近、「大日本帝国が本当の意味で変調をきたしたのは1943年から」という三浦瑠麗氏の「すごい」(としか言いようがない)新説まで飛び出し、さすがのネトウヨですら三浦説は擁護できないようであった。しかし、大日本帝国が変調をきたしたのは日露戦争の戦勝に酔ってからという司馬説や、明治14年政変からという磯田説などには賛同者が多いのではないかと思う。
磯田氏は明治14年(1881年)の政変を、歴史の分岐点と見る。司馬遼太郎は日露戦争の明治38年(1905年)を分岐点を見る。司馬氏よりも、病魔の根源が植え付けられたのを24年早めているわけだが、苦しい説明であると言わざるを得ない。長薩が主導した明治維新の時点で、「宗教国家」の種が撒かれ、根が張ってしまっていたが故に、肥前の大隈は、長州の伊藤に敗れざるを得なかったのであり、伊藤が勝ったから宗教国家の根が植え付けられたわけではない。説明の因果関係が逆転しているのだ。
磯田氏が、明治14年の政変という中途半端なところに苦しい線を引かざるを得ない理由は、国民的物語としての「明治維新神話」を救いたいが故であろう。明治維新は正しかったが、その後におかしくなったと主張しないと、歴史学者としての自分の地位が危うくなるからだろう。それ故、どうしても明治維新そのものを批判するという一線は、超えることができないのであろう。
私たちが明治維新を批判できない以上、明治維新が日本に植え付けた病根はいつまでも日本を呪縛し続け、「鬼胎の時代」を再来させるであろう。日本人はそのことに気付かねばならない。
磯田氏は、司馬遼太郎作品の最高傑作として長州の大村益次郎を主人公とした『花神』を挙げる。司馬は、大村を、近代合理主義の体現者として捉え、大村を取り上げることで明治の近代合理主義的側面を浮き彫りにしようとしたのだ、と。
ならば何故、大村益次郎は、東京招魂社(長州神社)なる宗教原理主義国家の根幹的な「装置」の建設に手を貸してしまったのか。先の秋山真之同様、大村ですら、長州の神国思想、楠木正成的な「七生報国」思想に感化されてしまっていたからであろう。
司馬遼太郎は、明治維新の合理的精神を代表する人物として大村益次郎を選ばざるを得なかった時点で、大日本帝国がいずれ鬼胎の時代に至る必然性を持っていたことに気付かねばならなかったはずなのである。
宗教原理主義国家の種が撒かれたのは明治維新である。明治維新の時点で、それが「鬼胎の時代」を経て滅亡することは運命づけられていたのだ。手前ミソで恐縮であるが、拙著『赤松小三郎ともう一つの明治維新 ーテロに葬られた立憲主義の夢』(作品社)では、そのことを明確に展開した。
明治憲法第三条を、法理論から自然に解釈するならば、
これは「天皇の無答責」条項に相当します。
そして、この条項は、徳川期、とりわけ松平定信に
おける寛政の改革で明確化した、「大政委任」法理の
末裔です。
したがって、ご指摘の解釈は少々無理があります。
明治憲法のセキュリティ・ホールは、内閣制度を
憲法典に明記せず、内閣制度を「令外官」化した
ことだと言えるでしょう。
ただ、リアルポリティクスは、憲法のみで
運用されるわけではありません。
特に、明治憲法典成立前に立法、
運用されていた、いくつもの重要な法が
事実上の法慣習、るいは憲法典群として
明治憲法典と同様に効力を持っていたことが
諸悪の根源と言えるかも知れません。
以下の弊ブログ記事を時間の余裕がおありの際、
ご笑覧下さい。
1)徳川期の「天皇機関説」
http://renqing.cocolog-nifty.com/bookjunkie/2009/09/post-b3ac.html
2)明治天皇の戦争責任
http://renqing.cocolog-nifty.com/bookjunkie/2006/01/post_f114.html
ただ、私も、これまで、「神権政治としての
明治憲法体制」という観点からは考えたことが
ないので、そこから、明治憲法典(群)を考察する
必要性を感じます。私も現在、身辺多忙でエネルギー
を割けない状況なので、いつ記事化できるか、
心もとないですが。
また、ご教示ありがとうございました。紹介して下さった「責任がないことは、権限がないこと」という、松平定信時代の「大政委任」の法理、大変に勉強になりました。
しかしながら、江戸時代と違って、明治以降の天皇は「責任がないのに、権限はある」ようにしか見えませんので、腑に落ちない感じはいたします。また、ご指導ください。
>「神権政治としての明治憲法体制」という観点
美濃部達吉などの知性たちが明治憲法を近代立憲主義的なものにしようと懸命な努力をし、それが大正時代などには効果的に機能したことは確実で、その先人たちの努力には心より敬意を払います。
しかし明治憲法の近代立憲主義の外皮の中に隠された神権政治の側面は、どう頑張っても隠し切れなかったのではないでしょうか。
明治憲法の、国家神道の神権政治的な部分は、憲法の前文に当たる告文にありますが、「天皇の地位は神の皇子の位を継承したものであり・・・その権力は神威に由来し・・・・神佑によって憲法を履行する・・・・」といった具合です。
王権神授説に基づく前近代国家にしか見えません。紹介して下さった松平定信の方がよほど近代的に見えます。
このエートスの中からは、治安維持法が出てくるのも無理はないように思えます。明治の初めから不敬罪や讒謗律もありました。
明治の最初から植え付けられた神権政治の根は、後年に近代立憲主義の外皮を重ねても覆いつくせなかったように思えます。
一般の庶民が名義貸しをしたら、まあそれなりに罪に問われることがあります。
ましてや一国の君主が・・・
て思うと、この「大政委任」とか「天皇の無答責」は、その内部の人間にはめでたい話でしょうが、
外部からしたら「そんなん知らんわ」って話になりそうに思えます。
前の敗戦の戦争責任などその傾向が強いですよね。
また庶民や最前線の「天皇ために死ね」とか「将軍のためにすべてをささげろ」といわれた人たちには「そんなこといって、責任逃れするな!」ってなると思います。
それを「無答責」で「大政委任」で「無かったこと」は無理があります。
それを受け入れたのも君主であり天皇ですから、それを受け入れて失政や国家の敗亡をしたのですから、それで全責任があるといえませんが、なにも責任がないとしたら、天皇や元首など無用の存在ですはね。
で、幕府は、将軍家が皆殺しになったりしませんでしたが、徳川は将軍を辞めて「大政奉還」。
で、天皇家は・・・・
阿呆な意見ですいません。
ではまた。
「臣下に権限を与えて、失敗してもそりゃ、君主の責任でしょう」
てことになるかな。
韓非子は、王が追放されたりした例を挙げていたような。
これは法律論でも行政法の話でもなく、
「政治論・命令の系統からくる責任の帰趨」てことかな。
なにも権限が無いはずの天皇が「終戦」を決断したら、実現できた。
それは権威からくる権力で、権限とは違った形の権力で。
なにせ「天皇陛下」の御威光で、多くの庶民がごろごろ殺されましたね・・・。
ちなみにその権力を振るうことなく山河を焦土と化し善良な庶民を殺人鬼に仕立て上げて故郷と無縁の山海で死屍をさらさせた。
イタリア国王は亡命したとか。そもそも国民投票で「王制廃止」が決まったから。
で、同様なことを日本でしたらどうなっていたかな。広報宣伝効果でどうなったことやら・・。
まあ日本帝国の場合は「神権政治」でかなり誤魔化しが効いて天皇は傷つかなかったけど、似たような責任回避法で、今でも高級官僚・政治家・大企業経営者から、無責任の「知らなかったから俺責任ない」って責任回避して好き放題出来ます。
それを日本国内では、グズグズに納得させられてますし。
こりゃ、天皇制を辞めた方が言いかも・・・
また戦争出来かもしれないし、原発が爆発してもまた責任を誤魔化せるものね。
ではまた。
コメントありがとうございました。
ご指摘の点の多くに賛同いたします。長薩がつくりあげた近代天皇制システムは、天皇を隠れ蓑として、軍部はどんな失敗を犯しても、誰も責任を取らないまま済まされ、同じことが繰り返されるという、「失敗国家」だったと思います。
昭和天皇は、アメリカが許すと言っても、自ら進んで退位すべきでした。
「沖縄メッセージ」や「言葉のあや」発言を見ると、自分の保身ばかりをはかる無責任な人物にしか見えない昭和天皇。戦後退位しなかったのも、「退位したら戦犯として処罰されるんじゃないか?」と危惧したからではないでしょうか。
崇徳上皇や後鳥羽上皇など、敗戦により処罰された天皇・上皇は少なくないんですけどねえ。また、彼らが処罰されたことで天皇制が絶えることは無かったんですが。