↑↑↑今日のタケオ(柄本時生さん)(@『おひさま』)の名言。簡にして要。そうだよねぇ。戦争憎むべし。いっさいの論を俟たず無条件に、いの一番に、万障繰り合わせて地球上から消去撲滅すべきもの、それが戦争。満場一致、みんなタケオの味方だよ。その結論に至る過程なんかどうでもいい。動機もどうでもいい。声を揃えて言おう「戦争が憎い」。
………テンションが上がったところで(上がらないか)、先般の続きです。
『刑事コロンボ』、昭和40年代後半の初放送の頃、もうひとつ発見したのは、「追いかけたり解明したりする側の心理より、逃げたり隠し事をする側の心理のほうが同化しやすいんだな」ということでした。
エルキュール・ポアロものやエラリー・クイーン、ドルリー・レーンもの等が「この世に存在する書物の中でいちばんおもしろい!」と信じて疑うことなく、眠らず食べず学校ももちろん行かずに読み続けることができたら死んでもいいと思っていた当時の月河にとっては、衝撃の発見。
とは言え子供といえども自意識の萌芽みたいなものはすでにありましたから、誰かに開けて見られたり読まれたりしたら困る引き出しの1杯、ノートの1冊ぐらいは持っていたので、そこから長ーーーい延長線を引いて行けば、別に犯罪経験はなくても、犯人がものすごい勢いで偽装工作をし、細心の注意で隠蔽し、必死にそらっとぼけ、感づかれたのではないかと小心翼翼する気持ちはとてもよく理解できました。
このあたり、活字世界のフーダニットと、目に見せて興がらせ惹きつけてなんぼの映像作品の違いがあるかもしれません。ドラマや映画で、観客を真相究明役の探偵や警察官サイドに同化させるような作りのものだと、たいてい探偵ははみ出し一匹狼であったり、努力家だがドジで間抜けであったり、逆に頭脳超明晰な代わり、変人の窓際だったりで苦戦の連続、「応援してやんなきゃしょうがない」「しないでいられようか」というキャラになっている。
我らが『コロンボ』は、毎話リッチでセレブでスマートな犯人たちに比べ、風采や推定年収では歴然と見劣るものの、要所要所で捜査能力の手練れ慧眼ぶりを披露し、現場の制服お巡りさんや鑑識さんにもそれなりにリスペクトされ、しかもどう見ても裕福とは言えなさそうな私生活面も、カミさんや甥っ子たちにわいわい囲まれてリア充している気配まで垣間見られるので、「そんなに必死に肩入れしなくても、コイツなら必ず真相に辿り着く」と突き放して見ていられます。
究明サイドにあまり高体温にならず距離をおける分、犯人の、犯人なるがゆえの怯えや焦りや思い上がりには気持ちをぴったりフィットさせられる。「人間の本性は、追う肉食獣より、逃げる草食獣に、未だ、より近いのかもしれない」…そんなことまで考えさせてくれた『コロンボ』でした。
さて、こういうことを思い返していくと、昨日(1日)注目の最終話が放送された『霧に棲む悪魔』も、巻き込まれ真相究明者サイドに立たされて行く圭以(入山法子さん)や弓月(姜暢雄さん)らに観客の意識を沿わせるよりも、転がり込んできた邪悪のチャンスに飛びついたがゆえに、雪だるま式に悪事の屋上屋を架し続けなければならなくなった御田園、いや名無しの偽者(戸次重幸さん)の視点で、逃げ続け嘘をつき重ね、大きな偽装をカムフラージュするためにより大きな企みを打ちたてて見せようとする、嘘偽りが“生業”と化してしまった者の心理主体に描いたほうが、締まった、かつ乗りやすい作品になったかもしれません。
“昼ドラ初の本格的ミステリーロマンス”と銘打たれ、しかもその謎の中身が“アイデンティティの異動・偽装・混乱”という、月河の大好物のハイスミス系と思われただけに期待したのですが、“ミステリー”も“ロマンス”も、“本格的”も、どこかしら大幅に散漫な印象に終わりました。意気込みは買いたかったところですがね。この件は追って後日。