“昔読んで、それきり”な本、特に長編本をひょんなきっかけで再読する経験は初めてではありませんが、その中でもよりにもよって『Yの悲劇』について足かけ2か月もブログで書くとは思いませんでした。
やはり翻訳ミステリビギナー時代に初読して印象が鮮明だったこともあるし、「人に面白いよと勧められた本(特に小説)が、通読完走して本当に面白かった」という、よくありそうで実は意外に少ない経験をさせてくれたタイトルでもあるからでしょう。
それにしてもここまでの自分のエントリを読み返して、本格ミステリ古典中の古典作に、我ながらちょっと点が辛いなと苦笑してしまうのは、やはりシリーズの探偵役にしてヒーロー役のドルリー・レーンという人物が基本、好きになれなかったからだと思います。
舞台で鍛えたたくましい身体能力と美声の持ち主・・と何度も描写されてるけど、基本、白髪ロン毛の老優、お年寄りですからね。当時、翻訳ミステリ開眼二年生か三年生、それも学校図書館で借りてくる、小学館やポプラ社刊の少年向け推理全集(アガサ・クリスティやイーデン・フィルポッツと、少女探偵ナンシー・ドルーシリーズが抱き合わさって全集になってるようなハイブリッドなやつ)に早々と飽きてしまい、角川文庫や創元推理文庫、ハヤカワ・ミステリ(当時はハヤカワ“文庫”はまだ無く、小口が黄色な新書判のみでした)に踏み込んで間もないガキんちょにはアクが強すぎたんでしょうね。
この時期の月河は、まだ、いまなら金輪際見ない所にもいろいろ夢を見ていて、「シャーロック・ホームズやエルキュール・ポアロはムリだけど、エラリー・クイーンのお嫁さんにならなってもいいな」「となると、リチャード・クイーン警視を“お義父(とう)さん”とか呼んじゃったりするわけだな」と妄想することもありました。
そんな話を前出のミステリ愛好家の伯父にしたわけではありませんが、伯父がよく「これが面白いよ」とわざわざ『Y』を買ってくれたものだと思います。
この作品の発表当時=1930年代前半の、(作中探偵ではなく)作家のほうのエラリー・クイーンは、『Y』を“因縁一族のお屋敷もの”に仕立てただけではなく、ドルリー・レーン主役四部作皮切りの『Xの悲劇』は雷鳴と豪雨のニューヨーク、満員の市電車両内で、まさかの毒針をポケットに仕込んだ毒殺で開幕・・と、いま読むと2サスっぽ過ぎて失笑してしまうくらい、舞台装置の絵的な派手さを追求していて、名前は忘れましたが或る邦訳者は「稚気あふれる」と表現しています。
月河ももう少し、TV刑事ドラマや映画“汁”に浸かり込んでからのミステリ挑戦だったら、ドルリー・レーンのややペダンティックで文字通り“芝居がかった”質感を「良きB級」ととらえ、ツッコミ入れながらもっと楽しく味わえたかもしれません。やっぱり、楽しみ方、興がるポイントの目の付け所が、幼い(実際、年齢も幼かったけど)というか、狭かったですね。
そんな中でも改めて『Y』の秀逸さとして月河がぜひ特筆しておきたいのは、“動機の(たくまざる)連続性”とでも言いましょうか。
これまた、いまさらながら世紀のネタバレになりそうなので薄氷を踏む覚悟で書かなければなりませんが、えーとね、あの、“計画犯”?“筋書き犯”の、あの計画筋書きを企画し組み立てるモティベーションとなった激しい怨恨、憎悪が、所謂洗脳にも教唆にもよらず、ほとんどオートマティックに“実行犯”の中にスライドして行っているように思われるところです。直接的に“吹き込んだ”描写どころか、事件前の計画犯と実行犯との間になんらかの(顔を合わせたりすれ違ったりする以上の)コンタクトや人間関係、心理的交流さえあったように思えない。にもかかわらず、実行犯は計画犯の動機になった感情を何の拒否感も、恐れも、抵抗もなく自分の中に取り込んで、「こういうことを自分がやってみたい」と、それこそ稚気あふれる、ほとんど勤勉な情熱をもってさくさくと実行に移している。
作中、この心理をレーンも、感想戦パートの聞き役であるサム警部やブルーノ検事も詳細に分析はしていませんが、要するに、計画犯の抱いていたどす黒く粘液質な怨恨と憎悪が、もともと実行犯の中にも相似形で存在したのです。
教唆や洗脳教育はもちろん、会話らしい会話さえ必要ではなかった。計画犯の計画は、計画のまま誰にも知られずに永遠に埋もれる運命だったかもしれないのですが、因縁屋敷の間取りと構造のいたずらで、たまたま実行犯の目に触れ彼に読み解かれるところとなり、彼の中の相似形に即点火し拡張し、計画の平面からあっさり実体を持って立ち上がり、実行に移され実際の犯罪となった。
設定系図上、実行犯が計画犯の“何”に当たるかを改めて見直し思い返すと、これらの一連の犯罪と、その終結(探偵役レーンが深く容喙関与してのものだった件は月河は是としませんが)は、さらっと書かれているけれどもまさに“因縁”“宿縁”の果て、それ以外の何ものでもなかった。結末でここに気づいて感じる曰く言い難いうそ寒さ、それこそミステリ『Yの悲劇』の最大の魅力で、これだけはいままで延々述べてきたB級だ、派手さ狙いだなんだの論を軽く飛び越えて、いくら強調しても強調し過ぎという事はないと思います。やっぱりすごいよ、『Yの悲劇』。
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