「ごいすー(=“凄い”)だったな」・・
・・高齢組が、弘田三枝子さんと森山加代子さんと、ついでのトバッチリの様に坂本九さんの話で盛り上がって、スッキリした顔で寝静まってから、しばらくして非高齢家族が苦笑いしながら言い出しました。
月河家で、高齢組の昔話攻勢が何の話題であれ本格的に炸裂して、クチ挟むタイミングが見つからないくらいになると、非高齢家族の反応はだいたいこれしかなくなります。
(ちなみに非高齢家族は月河と同年代ですが、小学生坊主だった頃の興味関心が月河とは大幅に違うところにあった様で、芸能有名人の名前などデフォルトな事を知らなかったり、逆に三面記事的な事件や容疑者の名前を妙に克明に覚えていたりします)
「“歌うまかったのになぜか消えた歌手”って言えば、そりゃ朱里エイコ、って言いたかったんだけど」・・話がヘンな方向に行きそうなので放置で炸裂するに任せた、とのこと。
朱里エイコさん。このへんなら月河もリアルタイムで覚えています。1970年代初頭から表舞台に急に出るようになった、小柄に見えるけど脚の線がとても綺麗な人で、いつも深いスリットで脚を強調した、キラキラのスパンコールの衣装を着ていたような。出てきた時からすでに「アメリカのショービズ界(“芸能”界じゃなく)で武者修行してきた」「ラスベガスでショーに連続出演した」「アメリカの高名アーティスト誰某と共演した」「オリジナル曲の提供を受けた」とかなんとか、とにかく“アメリカでうんたらかんたら”の修飾を常にこってり背負っていて、良く言えば叩き上げの実力派感に満ち満ちていたものの、悪く言えばフレッシュさが全然なかった記憶もあります。
調べたら1948年(昭和23年)生まれで、弘田さん、伊東ゆかりさんらより1コ下なだけ。たぶん弘田さん伊東さんたちが十代で、日本で日本語カヴァーの洋楽でヒットを飛ばしていた昭和40年前後、朱里さんはすでにアメリカに渡り“武者修行”に励んでいたのではないかと思います。最初から日本で売れたいと思わなかったのかな?・・「売れ出したころ、ハーフじゃないまでもアメリカの、特に黒人の血統が入ってる説もあったんだよな。リズム感とか、間奏で歌ってないときでも全身でパーッとアピールする感じとか日本人離れしててさ」
“日本人離れ”・・やっぱりそこ行きますか。想像ですが、朱里さんの場合、血統や出自が何らか影響していたのかはわかりませんが、“この日本って国、生きづらい”という気持ちが思春期の頃からどこかにあったのではないでしょうかね。アメリカの楽曲に日本語詞をあてて、日本のテレビやラジオで日本人向けに歌ってウケることを目標にしたくなかったのかもしれない。歌手を夢みる日本人少女の中に、そういう方向の野心やコンプレックスを持ち、それをバネにする子は一定数いたはずです。敗戦後約20年という時代背景を考えると少しわかる気もする。
朱里さんの“アメリカ武者修行帰り”は看板倒れでないことは、子供の月河がテレビだけ見ていてもわかりました。実家母は「バタ臭い」と評していたように思います。非高齢家族が記憶していた“アフロアメリカンの血が入ってた説”は、実家母は知らなかったと思いますが、“日本人離れ”はしているし脚はきれいだけど「見てごらん、頭が大きくて、バスト下からウエストにかけてズーンとしてる(=ずん胴)でしょ、あれは日本人体型だよ」と、洋裁をよくする人らしい着眼でした。
そして不思議なことに、“アメリカ帰り”をあれだけ鼻高々で強調し喧伝していたのに、日本での初ヒットとなったオリジナル曲は、タイトルからして『北国行きで』と思いっきり昭和歌謡で、曲もサビに入るところの♪ あァ――なンにもあなッたは知らないの と、軽いR&Bばりにイキむところに彼女らしさの片鱗はうかがえるものの、全体的には別に朱里さんでなくても歌えそうな曲なんですよね。
この1972年(昭和47年)という年は吉田拓郎さんの『旅の宿』や小柳ルミ子さんの『お祭りの夜』『瀬戸の花嫁』等がヒットして、日本全国なんとなく“旅ごころ”“離郷志向”にさそわれつつ、レコードセールス№1は宮史郎とぴんからトリオ『女のみち』とド演歌。たぶん朱里さんを日本で売り出すについてその地合いから浮かないように、“アメリカかぶれ”臭がきつくならないように・・と考えての選曲だったのでしょうし、事実うまいこと紅白歌合戦の選に入るヒットにはなったのですが、朱里さん自身は納得していなかったのではないかとも、ちょっと思います。
前の記事でも書いた森山加代子さんは1970年の『白い蝶のサンバ』でのカムバックからこの年には再びフェードアウトしており、やがて結婚が報じられました。69年に『人形の家』で変身登場した弘田三枝子さんも、この年からは紅白出場が途絶え、その後一度も出場していません。
思うに、GSブーム、エレキサウンドブームを通過して、この時期の日本は、日本人アーティストの“洋楽傾倒”“アメリカ踏襲”に倦んでいたのではないでしょうか。一方でカーペンターズなどカヴァーでない本物の洋楽もベスト50以内に入ってきていますから、外国人が外国人の顔で歌う外国語の曲は、それはそれで受け容れられるようになってきていた。弘田さんの『VACATION』が戦後17年、森山さんの♪ ティンタレラ ディルンナ~『月影のナポリ』は20年。長い様で短い、でも短いようで、敗戦のズタボロからやはり四半世紀余を越えたということは大きかったのです。
朱里エイコさんがもし十代での歌手としてのスタートを、弘田さんや森山さん、伊東ゆかりさんの様に日本で切り、アメリカ流にこだわらずに日本人に聴かせるポップスを歌っていたら・・と思わずにいられませんが、『北国行きで』の頃日本で喧伝されていた通りの評価と成功をすでにアメリカで獲得していたのであれば、そのままアメリカに居ついてアメリカ国籍取得し、アメリカを拠点に世界規模で活動する道もあったろうに、帰国して日本の芸能界の流行りに合わせて歌謡曲でヒットを狙うということは、どこかで“私は日本人なんだから日本で認められたい、錦を飾りたい”気持ちがあったのかなとも思います。
いくら実力があって努力もしても、アメリカの1960年代のショービズ界で、敗戦国のアジア人女性歌手が、差別や偏見を浴びせられなかったはずもない。
日本に居ればアメリカに憧れ渇望し、アメリカに渡れば日本への凱旋を願う。朱里エイコさんは晩年は健康を害して露出が減っていましたが(2004年56歳で死去)、そういう事とは別に、ふたつの相反するベクトルに、溢れる才能と意欲を摩り減らした人生だったような気がしてならないのです。
・・おや、でもウチの非高齢家族は、ちょっと違う事を言いますよ。
曰く「朱里エイコも、森山加代子とおなじで男マネージャーと結婚したけど、離婚して、離婚したのに事務所は共同で運営してて、結局、例の宗教団体○○△会のトップと衝突して、それでガツンと仕事が減ったんだよ」・・・・ありゃりゃ、それは初耳だわ。訃報もそういえば新聞の扱いが小さかったような。圧かけられてたのかしら。
・・・「何で宗教に入ってたのか知らないけど、うまいことやってればあの団体は傘下の興行会社が日本全国にネットワークあるから、ショーとか舞台の仕事回してくれるし切符も売ってくれたのに、よっぽど腹に据えかねることがあったんだろうな」「宗教やめて急に声が出なくなるわけじゃない、歌がヘタになるわけじゃないのに世間は冷たいよな」「歌うまかったのに消えた人、沈んだ人・・で朱里エイコの名前出したら話がヘンな方向に行きそうだなと思ってコレ(=クチにチャック)してたわけよ。宗教ってなると、もう音楽や歌の話じゃなくなるから。問答無用だから」。
・・そうか。非高齢家族の話ですから根拠はないですが、彼女が宗教団体に入る様なマインドの人だったなら、アメリカと日本に引き裂かれる上昇志向にも意味があったのかな。あの団体は海外、特に欧米で布教集金の広告塔になり得る芸能人は優遇しますからね。
実は月河が“朱里エイコ”という字並びと声に初めて接したのは『北国行きで』でも紅白歌合戦でもなく、『アニマル1(ワン)』というスポ根アニメのOP主題歌のクレジットだったりします。調べると1968年(昭和43年)春から秋の放送。アマチュアレスリングでオリンピックを目指す少年が主人公とあって、『いだてん』風の(←既に懐かしい?)ファンファーレ調なイントロ、♪やるッぞいッまにみてッろ バババババンッ!と 日の丸あっげるっのだーー! と、当時推定20歳の朱里さんの、パワフルかつ澄んだ声が勇ましく気持ちいい。
たぶん最初の渡米武者修行から帰国して、日本での歌手活動を手探りしていた時期のアニメソングオファーだったのでしょうが、なんとなく、72年の『北国行きで』よりこちらのほうが、朱里さんの“歌いたい!”情熱にフィットしていたようにも響くのです。