★会社の中の一つのプロジェクトがどのように進められたのか、その間どんな経緯があったのか?
いろんな事柄が会社の中では進んでいくのだが、それを時系列に正確に纏めていることも少ないし、なかなか実情はよく解らないことのほうが多いのが現実なのである。
今回取り上げる『テストコースとSPA直入』についても、非常に長い期間にまたがっており、一貫して担当した人もいないのでなかなかムツカシイのだが、後半のSPA直入については、これは間違いなく私自身が進めたプロジェクトなので、何回かに亘ってその経緯を書いてみたい。
『SPA直入』については私の現役時代に手掛けた幾つものプロジェクトの中でも『最右翼』の『私と岩崎茂樹のコンビ』にしか出来なかったムツカシかったが懐かしいプロジェクトなのである。
この前身の『テストコース』が発想されたのは昭和46年(1971)ごろのことで、SPA直入が完成したのは平成2年(1990)だから実に20年近くの歳月が流れているのである。
そのSPA直入建設について私が直接担当したのが昭和63年3月(1988)なのだが、今回はそれまでの17年間の経緯と、なぜそんな『サーキット構想』が出てきたのか、そのあたりのことを纏めてみたい。
★まず『テストコース』が発想された時期は 昭和46年(1971)頃だと思う。
高橋鐵郎さんがカワ販から技術本部長に異動されて、ちょうどZ1などの大型スポーツ車の開発が始まっていた時代である。ホンダもスズキも自社のテストコースを持っていたし、高性能スポーツ車の開発を目指すカワサキとしても自らのテストコースを持ちたいと思ったのは当然だと思う。技術部の堀江部長が担当されて岡山だとかいろいろとテストコースの候補地を探しているという話は聞いていたのである。
ずっとのちになって、昭和58年8月(1983)私が企画を担当していた大庭浩本部長時代に『大分テストコース用地取得に係る経緯について』という増田喬さんが纏めて本部長報告した書類が手元にあるのだがその冒頭には
『大分県直入町の用地は単車テストコース建設を目的に48年秋以降買収を進め、54年7月所有権移転登記を完了し(754,710 ㎡・買収費約7億円)当社の所有地になったものである。』と書かれてある。
この報告書が書かれているのは昭和58年8月(1983)のことで、買収してからも4年を経過し、買収に当たって直入町と交わした契約条件がいろいろあって、直入町からは督促があるし大変な時期が続いていたのである。
- 当時の二輪事業部は経営的に大変な時代で、『テストコースの建設』などはとても考えられないし、直入町からの諸要求を実行するのもままならず、私の直接下にいた武本一郎部長などは、『事業本部でこれが将来に向けて一番の難題』だと指摘して、その状況についての本部長報告だったのである。
- テストコースを造ることはとても不可能なので、地元の人を雇うという条件を満たすために直入町という山奥に工場を造って地元の人を雇ったりしていたのである。
私自身は昭和50年(1975)にカワ販から単車事業部の企画に戻った時にこの問題とは、一度出会っているのである。前述の報告書にもあるように48年から買収を進め、その時点ではまだ最終の契約には至っていなかった時期である。
テストコースの土地を買うべきかどうか? 社内でも意見は二つに割れていたのである。
土地の購入の判断は『企画』の担当なのだが、企画室長の堀川運平さんは『土地買収反対』でその理由は「開発に必要だというが、Z1などはコースがなくても既に開発出来たではないか」と仰るのである。確かにそれはその通りで自分でテストコースを持たずとも、谷田部のテストコースなどを借用すれば、その目的は果たせるのだが、自ら自由に使えるテストコースを持ちたいという希望は、その時点でも技術部を中心に存在していたのである。
そんな状況ではあったが、『企画のメンバー』はまだその土地の場所も誰も観たこともないというので私は50年10月5日(1975)に、高橋宏部長と二人で現地を見に行ったのである。足は当時カワサキ九州に一緒に特約店制度をやった古石君がいたので、彼に頼んで博多から大分県直入町を目指したのだが、当時は高速道路もなく黒川温泉を通って阿蘇のほうから直入町に向かったのである。
今は幾らか開けてはいるのだが、当時は全くの山の中で、そんな場所だから広大な土地も見つかったのだとは思うのである。とにかく場所も何となく解ったし直入町長さんからも歓迎を受けたのである。
直入町はもともと温泉町で湯布院からちょっと南に位置している。
★ いろいろと社内でも意見はあったのだが、最終的には川重不動産社長の『買うべし』という判断で、私たちが直入町を訪れた4年後の54年7月(1979)に土地は購入したのである。
土地の価格は川崎重工業にとっては大した額ではなかったのだが、テストコースを造るとすると相当の投資額にはなるであろうし、その当時はオイルショック後の経済情勢やカワサキの場合はアメリカのKMCの赤字問題もあって、とてもサーキットどころではなかったのである。
ただ、現地の直入町と交わした契約条件には、現地の人たちの雇用問題などがあって、テストコースを造らないと雇用は生まれないし、テストコースは作れないので、直入町からはずっと厳しい督促が続いていたのである。
困り果てた末に、直入町に部品工場を造ってそこで何とか雇用を産みだすことでお茶を濁したのだが、そんなことから、この『テストコースの土地関係』は技術部ではなくて、部品製造関係で主として製造部関係の担当が直入町と対応するようなことになっていったのである。
直入町は町長さん自らが明石まで何度も来られていろんな要求をされるので、前述したように武本一郎部長などは土地を手放さない限り『事業部の一番の難題』になると指摘したりする状況だったのである。
これは確かに企画室の問題ではあったのだが、元来「ネアカの私」は何とかなるのだろうとあまり気にも掛けなかったのである。
★私が企画室を担当したのは海外販社、特にアメリカのKMCの経営再建が一番大きな課題だったのだが、58年(1983)7月に大庭浩本部長が再建屋として着任されて3年で全販社が黒字になり事業本部の経営も再建されて昭和62年(1987年)には単車と発動機事業部が統合されて、企画室長は発動機からの柏木茂さんが担当され、私は営業統括本部に異動して、この直入町の土地問題からも解放されることになるのである。
柏木さんは、年次で言えば私より1年上の方だが、私とは至極よく合っていろいろと相談を受けることも多かったのだが、私と違って非常に真面目な方だから、直入町の土地問題も何とかその利用方法がないかと検討をされて、『モトクロス場案』をつくられてそれを私に『どうだろうか?』と相談があったのである。
この図は 10ページにもなる検討資料の最後のページに付けられている表なのだが、5人のメンバーが何ヶ月も検討した結果なのである。
この検討グループには私の知っている人たちも何人もいて、ちょっと申し訳なかったのだが、柏木さんには『これはダメですね』と『ダメ』を出したのである。
理由はいろいろあったが、モトクロス場は簡単に作れるとは思うが、こんな大きなものを創ってしまうと、以降の管理に手間が掛かるし、話題性などから言っても直入町に大してプラスにもならないし、問題の基本的な解決にはならないと『カン』でそう思ったのである。
これは1988年の3月初めの話だったが、ダメを出す以上は『対案』を出さねば単なる反対に終わってしまうのですぐ前田祐作・岩崎茂樹・今城公徳の3人を集めて、本格的なテストコースはムツカシイが、『小さなサーキット』はできないかの検討に入ったのである。
★ 私が『小さなサーキット』という構想がアタマに浮んだのは
● もともと「テストコース」のために購入した土地なのだから、それに類するもののほうが直入町が受け入れやすいであろうということが一つ。
● 当時はレーサーレプリカ全盛時で、各メーカーはレーサーまがいの高性能市販車を世に出すのだが、ユーザーはそれを走らせる場所がなくて、いろんな峠で暴走するものだから世に『峠族』と言われたりしていたのである。当時は鈴鹿サーキットをはじめ各地にサーキットはあったのだが、一般ユーザーの走行を許可するサーキットは皆無の状況だったのである。「レーサーレプリカ」のような市販車をただ売るだけで、『走る場所』の提供をしないのはメーカーの責任を果たしていないのではないのか? 一般のユーザーが『走ることのできる』小さなサーキットを創りたいと思ったのである。
この検討をしたのは3月8日のことだったが、3月11日にはその基本コンセプトを纏めて、高橋事業本部長にこの『サーキット構想案』を提出しそれを具体的に進める許可をとったのである。
私が物事を推進するときのスピードはいつもこんな感じである。
私は基本的に部下が出来ることは100%部下に任して『部下がやれないこと』を自分自身が先頭に立ってやるのが常で、この問題も部下に任したのでは絶対に出来ないようなムツカシイ問題なので、自ら小さなサーキットの現場視察からスタートしたのである。
3月16日には、まず近くの中山サーキットを観に行っていろんなデーターを仕入れた上で、3月28日から3日間 直入町の現地に岩崎茂樹と二人で出掛けて、岩屋万一直入町長に会ってこの構想を話し、直入町に若い客をとにかく呼び寄せる方向で、まちの活性化のお手伝いをすることにしたのである。
二輪だけでなく直入町の現地のすぐ近くにある芹川ダムでのジェットスキーの走行の提案もし、ジェットスキーの寄贈もして初対面ではあったが直入町長岩屋万一さんとは至極いい関係になったのである。
ものごとは単独では何をやっても大したことはないのである。繋げるものはすべて繋いで、明るく楽しくやらないと単独プロジェクトではダメなのである。
SPA直入が完成してから芹川ダムにそんなに大勢のジェットスキーの客が来たわけではないのだが、その当時カワサキと一緒に遊んでいた岩城滉一さんが ジェットスキーも二輪も乗れる直入町は大いに気に入って何回直入町を訪れたことか。
この一事だけでも、直入町長は大満足だったし、私とお付き合いした以降は、感謝されても文句など一切聞かなくなったのである。サーキットの大分県への申請にも直入町長が同道してくれて、直入町からの申請のような感じになり、知事さんが直接会って頂いて誠にスムースだったのである。
それはさておきSPA直入の現場も岩崎と見たのだが、当時は背の丈もある草ぼうぼうの斜面を歩き回ったが『よく解らなかった』というのが感想なのだが、このプロジェクトは私と岩崎茂樹との二人でその骨子は白紙から創り上げたものである。
私はカワサキの初代のレースマネージメント担当だったが、それを引き継いでくれたのは岩崎茂樹なのである。そして彼は私と違ってバイクに乗れるし、多方面に博学なのである。博学ということは何でも興味のあることはよく調べて勉強するのである。
このプロジェクトが湧き上がったのは3月初旬だが、3月末には私と岩崎の間には、基本コンセプトの確認はお互いに出来たし、サーキットに関する新しい知識みたいなものも結構なレベルで確認し合えるところまでは行ったのである。
★この直入のサーキットプロジェクトは、川崎重工業の財産物件の土地の上にサーキットを建設するという川崎重工としては未経験のことだし、本社財産課など本社が絡む案件なのである。 当時の社長は大庭浩さんだったので社長の了解には自信があったのだが、本社各関係課を通さないといけないのだが通常ではなかなかムツカシイのである。
それが非常にスムースに行ったのは当時の単車事業本部の経営危機には本社企画・財務部門も応援してくれていたのだが、本件については企画班長の阿二眞三郎さんに調査段階から一緒に行ってもらって近畿や四国の山奥の小さなサーキット視察を私と岩崎・阿二の3人で車で走り回ったのである。
そんなこともあって、本来私がやらねばならない『本社説得』は細かい部分はすべて阿二さんがやってくれたのでスムースだったのである。
このプロジェクトで私が担当したのは1988年3月なのだが、
88年3月 事業本部長によるプロジェクト推進承認
88年6月 計画書による三井不動産の見積書提出
88年9月 川崎重工経営会議承認
89年2月 大分県庁への申請書提出 (前述)
89年3月末 工事着工
90年4月3日 SPA直入オープン
と2年でオープンにこぎつけたのだが、この間このプロジェクトを直接担当したのは、私と岩崎茂樹だけでやり切ったと言っていいプロジェクトだったのである。
その環境から言って『日本で一番美しいサーキット』に仕上がっているSPA 直入については、次回にお話ししたいと思う。