雑感日記

思ったこと、感じたことを、想い出を交えて書きたいと思います。

今年のプロ野球はオモシロそう

2021-02-28 06:04:20 | スポーツ

★ プロ野球もキャンプが終わってオープン戦が始まった。
 今年のプロ野球はオモシロくなりそうな感じである。
 
 セントラルは巨人、パシフィックはソフトバンクではオモシロくない。
 どこでもいいから、違うチームがトップを走って欲しい。


 今年は阪神も佐藤が入って、ひょっとしたらホントに大活躍かも?
 と思わせるような出足だし、

  

 
 藤浪も頑張るかも

  




 
私自身は強烈な阪神ファンのチームはないのだが
強いて言えば、自分が住んだことのある関西・仙台・札幌のチームを応援している。

 そう言えば今年は マーくんこと田中投手の入った
 楽天も面白いかも。


 

 
  開幕投手は涌井のようだが、2戦目が田中投手だとか。


  


 いいピッチャーが2枚いると、これは強みだなと思う。


 阪神ー楽天の日本シリーズもいいな。

 藤浪・田中・涌井など甲子園で活躍した選手たちの
 甲子園でのマウンド姿が見たいものである。

 
 
 
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カワサキの単車事業のスタート時代 その4 自分史

2021-02-27 06:24:14 | 自分史

★昭和39年(1964)1月から広告宣伝を担当するようになって、
私の会社での仕事の内容も『一変した』と言っていい。

それまではカワサキの広告宣伝は『カワサキ自販』で担当していたのだが、
この年から単車が発動機から分離され本格的な事業推進を行うに当たって、
日本能率協会は『広告宣伝課を創ること』を条件に入れたので、
川崎航空機の本社は開発費として3年間1億3000万円の広告宣伝費を出してくれたので、
当然『広告宣伝業務』をカワサキ自販から引き継ぐことになったのである。

 
小野田寛郎さんの弟さんの小野田滋郎さんと具体的な仕事を一緒にしたのはこの時が初めてだったが、
小野田さんの凄さ』その仕事ぶりにビックリしてしまったのである。
世の中にはこんなに優秀というか『仕事ができる』人がいるのである。


★カワサキに広告宣伝課が出来て1億を超す予算があると聞きつけて、
電通・博報堂・大広・毎日広告など多くの広告代理店が売り込みに来て、
広告代理店の『売り込み』は当然のことながら、めちゃ熱心にいろんなことをいろいろ言うのである。

向うのペースのままではどうしようもないので、
代理店選定基準』として、各社に共通の質問として『15項目の質問』を創ったのである。

その殆どは小野田さん主導で創られたのだが、
貴社の創造的能力を図示説明してください』
『貴社の当社担当グループの能力・経験・人員・協力頻度を・・』
『広告効果判定の可能性は・・』
 などいろいろあって、
各広告代理店は出先の営業所ではなく、本社の企画部門のメンバーたちが大勢でやってきたのだが、
当方の質問が厳しくて、
とても素人とは思えないポイントを捉えた質問』と感心されたりもしたのだが、
この代理店選定の面接で『広告宣伝の本質』みたいなものがよく解ったりしたのである。

特に『創造能力の図示・説明』には本職の広告代理店が、ちょっと困ったようだが、
小野田さん曰く『口でいろいろ言えても、ホントに解っていないと図示きない』というのである。
確かにその通りで、簡単に図示することはなかなかムツカシイのだが、
小野田さんは陸士仕込みの『戦略・戦術・戦闘論』などホントに上手く『図示できる』のにはびっくりした。

そんな小野田滋郎さんだったが、広告宣伝が川崎航空機に移り
カワサキ自販も川崎航空機に吸収ということになって、
この年の3月末で辞められたのだが、個人的には私はその後も長くお付き合いがあったのである。


★ こんなことで始まった『広告宣伝課』の新しい職務だったが、
 この1年目は折角頂いた予算1億3000万円の内、7000万円しか使うことが出来なかったのだが、
これは『広告宣伝』と言えば『テレビ・新聞』なのだが、
その『テレビ・新聞』が使えなかったからなのである。
その理由は、当時は『実用車のカワサキ』で東京・関西などの大都会では全く売れていなかったので、
東京・大阪などの大都市は広告は要らない』と営業サイドは言うので、
新聞もテレビも使えないのである。

この1年目の実績に本社の専務から『お前ら金を渡してもよう使わん』と怒られたものだから、
2年目は何とか予算は使い果たそうと

新聞は『朝日・毎日・読売は抜き』で
全国40社以上もある『地方紙』に『全頁広告』を打ったのだが、
これは広告業界では『前代未聞』で『カワサキはとんでもないことをする
と広告業界で評判になったのである。

これは中央紙に広告するよりは費用面では『めちゃ多く掛かる』のだが、
こんなことをしたのは、この年のカワサキだけだろう。

更にテレビも関西地区だけだったが、
当時売り出したばかりの藤田まことを使って

あさん ても んせい めた かわさきと喋らした
15秒のコマーシャルなど作ったので、

   
 
 
 
 2年目は広告宣伝予算はちゃんと使い切ったのである。
 因みに『藤田まこと』さん私と同じ1933年生まれなのである。



★1年目の広告宣伝は、新聞・テレビは使わなかったが、
 結構いろいろと面白いイベントやレースはいろいろやってはいたのである。

 カワサキにとってレースは初めての経験ではあったが、
 関東厚木の『カワサキコンバット』を小野田滋郎さんから引き継いだこともあって、
 広告宣伝課で担当することになった。
 スタートしたばかりのカワサキファクトリーチームである。

 右から、梅津次郎・岡部能夫・山本隆・歳森康師・三橋実・安良岡健
 ここまでが契約選手であとの4人は未契約の『カワサキコンバット』所属の選手で、
 安良岡健の隣が『星野一義』なのである。


 


 契約金は私の年収が40万円の頃だったが、
 100万円以上も弾んだので、当時は結構日本でも高額で、
 他メーカーの選手たちがみんなカワサキに来たがったそんな時代だった。
 三橋実には毎月30万円を若手選手育成費として渡していたので、
 全国から有望選手が集まっていたのだが、
 その中に静岡から星野一義秋田からの金子豊などがいたのである。 

それくらい派手に使っても1000万円ぐらいにしかならなくて、
当時の1億3000万円は今の時代なら10億円を超える額だったのかも知れない。
 
 広告宣伝課ではヘリコプターも持っていて
 モトクロスのレース場などにも帯同したりしたのである。

 下の写真は伊豆丸の山であったMCFAJの全日本モの開会式に
 ヘリでお嬢さんを運んできて『花束贈呈』など派手なことをしていたのである。

 この写真はそのレースで最優秀選手になった山本隆さんの提供です。
 
  

  
 このヘリには各社のライダーたちも乗りたがって、
乗せて欲し』と頼みに来るものだから、
私は他メーカーのチームのライダーたちとも直ぐ懇意になったのである。
特に当時の日本のトップライダー久保和夫・荒井市次さんなどとは仲良くなって、
それは現役引退後も続いていて、
ライダーたちとのこんな写真がいっぱいなのである。


 



★    この時代カワサキのレースライダーはみんないい車に乗っていて
    契約金の殆どが車に化けたのだと思う。
 それぞれこんな車に乗っていたのである。

 三橋実   日産 フェアレデイZ
           
             



   安良岡健  日産 プリンスGTB
   岡部能夫  日産 プリンスGTB

            
             


 山本隆           ホンダS500
 歳森康師  ホンダS500


            


 こんな派手な状況だったので、他メーカーの選手たちは
 一体いくら貰っているのか?と思ったに違いないのである。

 ちょうどそのころ私も運転免許を取ったので、
 よく乗せて貰ったりしていたのである。
 星野一義の最初のクルマはホンダS500なのだが、
 彼はホントに律儀で『車を買ってもよろしいか?
 とわざわざ我が家まで訪ねて来たりしたのである。
 ライダーたち当初は名もない若手ライダーだったのに、
 みんな日本を代表するTOPライダーに育っていったのである。
 

 初年度はレースの他にもいろんなイベントをやっているのだが、
 その詳細は次回に・・・


 

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クリスマスローズ     雑感

2021-02-26 07:35:26 | 日常生活・園芸、バラ、メダカ、金魚

★2月になって我が家の庭のクリスマスローズも花をつけだした。




結構沢山植わっているのだが、全部株分けで増やしたものである。
咲き出した株もあるし、まだ花の少ない株もある。

 春先に咲くのに『なぜクリスマスローズ?
 と思って調べてみたら、

 こんなことであるらしい。



 


 
 長く咲くし強いので、気に入っているが、

 こんな2種類だけである。


  


  



そんなことなので、ふと思って園芸店に行って
4株ほど新しい種を買ってきた。





  これで我が家も 6種類のクリスマスローズの庭 になる。


 
 
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カワサキの単車事業のスタート時代 その3  自分史

2021-02-25 07:08:23 | 自分史

★ カワサキの単車事業がスタートした年は昭和35年(1960)なのだが、
この年の10月に私は肺結核三田の療養所に入院することになったのである。
 
当時は肺結核になる人は多かったが、
私の場合は大学の2回生の秋に『肺浸』だと言われたのだが、
そのまま休んだりはせずにずっと野球は続けていたのである。
川崎航空機に入社してからも診療所の先生に『野球はダメだよ』と言われていたのだが、ずっと止めずにやっていた。
 
この年にユニホーム姿を診療所の先生に見つかって怒られて、
検査で『菌が出たから入院』と言われてしまうのである。
三田の療養所で菌の検査をしたら『菌など出ていなかった』のだが、
いうことを聞かないものだがら、そんな理由で入院させられてしまったのである。

結果的には『これがよかったな』と思っている。
肺に空洞』などもあったのだが、1年の入院で手術などはせずに消えてしまって、それ以来全く健康だし、
1年入院したお蔭で『単車事業』に関わることにもなったし、
いい運命』だったと思っている。



★この昭和35年(1960)年は私も未だ28歳なのだが、
それから4年間、個人的にはこんなことがあったのである。

 昭和35年(60) 10月に三田療養所入院
 昭和36年(61) 12月に三田療養所退院・ 単車営業課に異動
 昭和37年(62) 12月に結婚
 昭和38年(63) 9月に長男出生・ 青野ヶ原モトクロス

私は昭和32年(1957)に川崎航空機に入社し業務部財産課に配属になるのだが、隣の課の勤労課に家内はいたのである。
そんなことから翌年の3月から付き合いだして、
私の性格から隠したりはせずに『大ぴらな交際』だったし、
結構『熱烈な恋愛関係』だったので周囲の人はみんな知っていて、
いつ結婚するの?』というようなことだったのに、
三田療養所に入院』ということになってしまったのである。

退院してちょうど1年後に結婚し、翌年長男が生まれたりしているのだが、
この時期は会社の仕事も新しくなったが、
自分の人生も『新しい結婚生活』が始まっているのである。

 
★   当時の写真はあまりないのだが、旧いアルバムの中から。
 
これは新婚旅行、新婚旅行のスケジュールは会社の先輩の坂口さんが決めてくれて、
 
           
        



冬だから『スキーをやれ』と北陸から長野に回って、
人生で1回だけスキーをしたのである。
こどもの頃は朝鮮にいてずっとスケートはやってたし、スキーらしきこともやってたので、ちゃんと滑れると思ったのだが、
ホンモノのスキーは思ったより上手くいかなかったのが想い出である。


 



 結婚した翌年には長男が生まれ、
 30代半ばは、東北仙台だった。

  
  


★ 閑に任せて昭和38年(1963)の日記を読んでみた。

  結婚1年目で9月には長男が生まれている。
       生まれる前から名前を考えているのだが、男の子か女の子か解らないし、
  なかなか思い浮かばなかったのに、生まれたら直ぐに決まった。
  『古谷大治』字画なども結構ちゃんと調べたりした。

  当時、31歳なのだが3月の給料が25,000円なのである。
  そんな額でよく生活出来たなと思う。
  6月の給料が34,700円の手取りだが、10500円の残業料が入っている。
  50時間の残業なのである。

  ボーナスの評価は間違いなく最高点がついて夏のボーナスが手取り62,300だった。


 この年には発動機事業部営業企画課管理課で単車を含めて、
発動機全般の管理一切を担当していて、ホントに滅茶苦茶忙しかったのである。
前回にも書いたが、結婚して新婚旅行などとても休めるような状況ではなかったので、
結婚式も年末12月21日となってしまったのである。

同時にこの年の終わりころには、単車事業部の発動機事業部からの独立が発表されて、
私は単車の広告宣伝課担当候補に挙がっていて、
翌年は会社も個人も新しい生活が始まったのである。


★新しく出来た広告宣伝課の予算は本社開発費で3年間支給されることになって、
1億3000万円というべらぼうに大きな額を
ペイペイの私』が自らの裁量で自由に使えることになるのだが、
その初年度は7000万円しか使えなくて、
本社の専務に『お前ら金をやってもよう使わん』と怒られたりする、
そんな広告宣伝課の1年目、2年目のことなど、

 次回に纏めてみたいので、お楽しみにして下さい。

  
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2月半ばの三木総合防災公園

2021-02-24 07:23:42 | 日常生活・園芸、バラ、メダカ、金魚

★ いつも行ってる三木総合防災公園にはいろんな花木が植えられていて、
 1年中花が見られるので、今年はそんな公園の花を追っかけてみたいと思っている。

 2月も半ばとなると梅の花は満開なのである。
 スロー・ジョッギングしたコースの動画と梅林の梅など撮ってきたので、
 ご覧ください。




 非常に大きい公園なので、毎日走るコースを変えているのだが、
 今回はこんなコースなのご紹介である。


  
 

 中央の駐車場に車を止めて、ビーンズドームを右に緩やかな坂道を上ると
 林間広場に出る
 そこで休み休みだが50メートルダッシュを10本
 それから坂道を下って左側に梅林がある。

 


  更に、道路の上の橋を渡って右に下っていく。

  その右手にはサッカー場が3面並んでいる。

  そこをひと廻りして元の駐車場に戻ってくると
  走行距離は約6km、時間は1時間ちょっと掛かる。

  これだけで6kmとは思われないかも知れぬが、
  それくらい広いのである。
  よく『甲子園球場が幾つ』などと言われるが
  右の方に野球場もあるから、それをご覧になると広さが解ると思う。


★ 道は沢山あるし、先日は山道を通って、
  一番上にある『志染の石室』まで行ったら『1万歩』を越えたのである。

  動画の中では『』が余り写っていないが、
  広いからなかなか出会わないので、人を避けている訳ではない。

  ただ、都会の公園のような沢山の人は来ていない。
        ジョッギングしている人や、散歩している人たちが主流なのである。

  ここまでは家から車で来るのだが、
  10分とはかからない。
  家から歩いてきて戻っても6キロほどだと思うのだが、
  公園の中の道を歩き慣れると、
  何となく街の中の信号などのある道は落ち着かないような気分になるのである。

 
 
 
  
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カワサキの単車事業のスタート時代 その2  自分史

2021-02-23 06:55:30 | 自分史

★明石工場内に「単車準備室」が開設されたのは昭和34年(1959)で、当時私はまだ財産課にいた時にお声が掛かったりしたのだが、
当時は財産課でIBMでの償却計算システムを完成すべく頑張ってた時期なのでお断りしたような経緯もあった。

翌年の昭和35年夏ごろには明石工場内に24工場も完成して、
メイハツ・ニューエースと姉妹車のカワサキ・ニューエースを1960年8月より生産したらしいが、詳しいことは解らない。

この年の10月には私自身が肺結核で療養所に入院してしまうのである。
そして翌年昭和36年(61)12月に退院し、
新しく出来たばかりの『単車営業課』に配属になったのである。

カワサキとしての初めての生産車は『125B7』と『カワサキペットM5』が1962年度初頭から生産開始にはなっていたのだが、
正式に単車営業課が出来たのは12月だったのである。


 
★この時代の特に営業関係のことなど、
 今となっては私以外に知ってる人は殆どいなくなってしまったのでは?と思う。

当時の技術部や生産関係には関係のあった方はそれなりに多かったと思うが、
単車営業』と言っても『発動機部門』の中の単車営業課なのでホントに限られていて、機能としては営業部品品証もあったのだが、
部品は正垣さんと納さんの二人、品証というかサービスは吉田さん以下3人、営業は私と女子(藤田孝昭さんの妹さん)
私の上に壱岐係長がおられただけの陣容なのである。
その上に北沢課長と小野次長がおられたのである。

私は入社4年目だったが、部品やサービスの面倒も見ていたし、
出荷や物品税は勿論、広告宣伝らしきものも業界紙対応も、
その他現在の事業本部で事務屋さんがやってることは全てやってたので、その忙しさは大変だったのである。

当初も大変だったが、慣れるに従って
守備範囲がどんどん広くなって、職制変更の度にメンバーも増えるが業務も増えて、
現役時代で『一番忙しかった』のは間違いなくこの時期なのである。



★この時期は単車事業がスタートしたばかりで事業内容は安定せず、
 世の中は『事業部制』なるものが出現した時期でもあって、
 兎に角『職制変更』が頻繁に行われ、
 その度毎に『私の担当業務』はその範囲が増大していったのである。

 よくお解りにはならないと思うが、これくらい頻繁に職制変更が行われたのである。

 昭和36年(61)12月  発動機営業部単車課単車係
 昭和37年(62)3月   単車部単車課業務係 場所も14工場に移動
          4月   発動機事業部第2営業課業務課
          11月  発動機事業部第1営業部業務課
 昭和38年(63)4月   発動機事業本部営業企画課管理課
          11月  単車事業部に発単分離 
 昭和39年(64)1月   単車事業部営業企画部広告宣伝課



この間、1962年の12月に結婚しているのだが、
結婚式の日は12月21日で、ホントはもっと早く結婚したかったのだが、
この時期は休みを取って『新婚旅行』などとても考えられなかったほど、
会社の業務が忙しかったし会議の事務局などやってたので、休むわけにはいかなかったのである。

暮れの21日なら、この年は終わりだし正月休みも含めて休んでも大丈夫だからと『会社の事情』でこんな日になっってしまったのである。
結果的には半月ほどの結婚休暇が取れてよかったのかも知れない。

仲人は私を単車営業に引っ張って頂いた『小野助治』さんが引き受けて下さったのである。

  

★ ただ単車事業の方は、昭和38年度(63)になると
 新しく125B8が上市され、これが期待以上に評判が良くて、
 放っておいてもよく売れたし、
 



  
 青野が原のモトクロスでも1位~6位独占などの成績を上げるなど、
 ようやくカワサキ単車も何となく落ち着いて、
 日本能率協会も『この事業やるべし』という結論になるのである。

 この時の決定の条件の中に『広告宣伝課を創る』というのがあって、
 それを私が担当することになるのだが、
 それまでは広告宣伝は『カワサキ自販』で担当されていて、
 それはあのフィリッピンの小野田中尉の弟さんの『小野田滋郎』さんが総務課長兼務で担当されていたのだが、
 その野田滋郎さんに私はすっかり『見込まれていて』いろんなお手伝いをやっていたのである。

 私の現役時代、『この人にはとても敵わない』と思ったのは、
 『小野田滋郎さんだけ』かも知れない。
 それくらい素晴らしかった。

 陸士出の秀才で、戦略・戦術・戦闘などの実践論を確りと教えてくれたのも小野田さんである。
 当時『お兄さんがフィリッピンで生きてるか』という情報があったのだが、
 『小野田さんのお兄さんなら間違いなく生きている』と私は信じて疑わなかったのである。

  左が小野田滋郎さん、

   



 カワサキのレースのスタートは『青野ヶ原』ということになっているが、
 B7時代に三吉一行などがMCFAJ 全日本に出場しているその仕掛け人が小野田さんなのである。
 青野が原の後、ヤマハから三橋実を引っこ抜いて、厚木にカワサキコンバッを創らせたのも小野田さんなのである。

 私の広告宣伝課担当は『小野田滋郎さんから広告宣伝を引き継ぐ形』で自然に決まったのかも知れない。
 いつの間にか『広告宣伝課を担当』することになったのである。


★ この『広告宣伝』という業務を本格的にやれたということは、
 本格的なマーケテングが学べたし、
 私のその後の人生の『差別化』に繋がったと思っている。
 『レースの世界』を経験したことも本当によかたった。
 こんな世界は、ご縁がなければとても入っていける世界ではないのである。
 その経験のいずれもが、人生を非常に豊かにしてくれたと思っている。

 そういう意味では、『無茶苦茶忙しかった』のだが、
 今となってみれば『いい想い出や経験』ばかりなのである。


   
 
 





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カワサキの単車事業のスタート時代 その1  自分史

2021-02-22 07:02:23 | 自分史

★ カワサキの単車事業の明石工場での一貫生産が始まったのは昭和35年(1960)なのだが、
 その年は私は未だ業務部財産課所属だった。
 実はその年の10月から肺結核で三田療養所に入院しているのである。
 ちょうど1年程で退院できたのだが、
 10月頃の話では退院後の異動先は企画ではないかと専らの噂だったのである。

新しく単車生産一貫工場がスタートしたのは昭和35年だが、
その単車を売る単車営業課が新しく出来たのは昭和36年(1961)12月で、
ちょうど退院時期ともがっちして、その単車営業課への異動となったのである。

この単車の営業部門を新しく担当されたのが小野助治次長で、
小野さんも12月に業務部総務課から異動されたばかりで、私を指名されたのは『小野さん』だったようである。
 
小野さんとは同じ業務部所属でお互いよく知っていたし、入社以来いろいろと目を掛けて頂いていたのである。
若し小野さんの単車への異動がなければ、私の単車異動もなかったのではないかと思っている。
そういう意味では不思議なご縁である。


★単車事業がスタートしてからの5年間はこんなことがあったのだが、

●昭和35年(60) 財産課・三田療養所入院(10月)・単車一貫生産スタート       28歳
●昭和36年(61) 12月10日退院・営業部単車課に異動  29歳
●昭和37年(62) 鈴鹿サーキット開場・鈴鹿ロードレース・結婚(12月)  30歳
●昭和38年(63) 青野ヶ原モトクロス・日本能率協会調査  31歳
●昭和39年(64) 単車再建決定・広告宣伝課に異動・レースも担当  32歳

 ざっとこの5年間がどんなものだったのかを粗っぽく纏めてみる。


★新しく出来た単車営業課で、一番先に小野さんから言われたのは、
物品税を研究してくれるか』だったのである。

カワサキが一番最初に発売した125ccはこんなB7というバイクだった。
このバイクはフレームに欠陥があって、
私が営業に異動した昭和35年の年末ごろには、毎日毎日、返却が相次いでいたのである。

当時の二輪車の125cc以上には確か15.5%の物品税が掛かっていて、
掛ける時には工場をでるバイクの台数にその税率を掛ければいいのだが、
その二輪車が戻ってきて『払った物品税』を返してもらう『戻入手続き』は至極ムツカシイのである。




いろんな規定があって、『工場をでた時のまま』でないとダメで、
1台1台税務署員の立ち合い検査などもあって、例えばメーターが回っていたらダメなのである。

だから製造部の人たちとメーターの巻き戻しなどもやったりしていたのだが、
返却される台数が半端ではなく、出荷台数より返却台数の方が多かったりしたのである。

 こんな状態で、販売するより『返却台数』の処理が仕事の殆どと言っていい
大変な営業課だったのである。



★ 当時はカワサキ自動車販売という会社が東京の神田岩本町にあって、
そのカワサキ自販の社長は川崎航空機の専務が兼務されていて、
明石工場のTOPよりはずっと偉かったし、
更にその『カワサキ自販』からは全国の『自前の代理店』への卸なのだが、
自前の代理店の社長さんはまさに『お客様』だからめちゃエライのである。

明石工場は『カワサキ自販』からはボロカスに言われるし、
それ以上に地方の代理店の社長はうるさい存在で、大変だった時代なのである。
今の『メーカの人たち』は末端の販社が子会社だから、
根元のメーカーの方がエライような関係になってるので、
こんな時代のことを言っても理解して貰えないと思うのだが、
ホントはこんな形の方がいいのかも知れない。
そんなメーカーの営業課の窓口担当が私のスタートなのである。


★さらに、最初に発売したB7が散々な状態だったから、単車事業の経営状況は大赤字で、
当時の川崎航空機本社は『この事業を続けるべきかどうか』を日本能率協会に調査依頼をしていたのが、昭和37年から38年にかけての時代だったのである。

その昭和37年(1962)には鈴鹿サーキットが開場して、
日本で初めての本格的なロードレースが開催され、そのレースを単車製造部の人たちがバスを仕立てて見学に行ったのだが、
レースなるものを初めて見て燃え上がってしまったのである。
 
そのグループはカワサキの中でも最も血気盛んだった中村治道・髙橋鐵郎さんたちで、
レースを観たあと『カワサキも』とモトクロスレース出場を目指すのだが、
この一連のことを仕掛けた張本人兵庫メグロの西海義治社長
 西海さんは元オートレースのプロライダーでレースには詳しく、
後には兵庫県のMFJの会長などもされたのだが、
この写真はずっと後の神鍋で行われたMFJ全日本モトクロスの時の写真なのである。

  
       

 
 
 その西海さんが、実際にはバスを仕立てて
 『カワサキもモトクロスを』という雰囲気を盛り上げ
 カワサキの中にはレースのことなど解る人はいなかったので、
 兵庫メグロの子飼いの『松尾勇さん』を製造部に送りこみ
 モトクロッサーは全て『松尾勇・作』なのである。


そして昭和38年の青野ヶ原モトクロス1位~6位独占という快挙に繋がるのである。


  


  
こんな結果が事業部内の雰囲気を高め、日本能率協会は『末端の意気は盛ん
と感じて『この事業やるべし』という結論を出す一つのきっかけになったのは確かなのである。


 この写真の後列の真ん中の大きな方が『小野助治』さんである。
 このレース出場は、会社が正規に認めたものではなかったので、
 製造部のこのレースに関わった人たちは、定時後自主的に集まってレーサー制作などに当たったのである。
 
勿論、残業料なども出なかったので、小野さんが私に営業の経費から『なにがしか都合してやれ』と言われて幾らかの『パン代』ぐらいのお金を私が都合したので、何かレースらしきことをやってるということだけは知っていたのである。


★ そんなこともあって、昭和39年(1964)度には
 日本能率協会の『この事業続けるべし』との結論から『単車事業再建』が決定され、
 その条件の一つになっていた『広告宣伝課を創るべし』ということから、
 私は川崎航空機で初めて出来た『広告宣伝』を担当することになり、
 レースも含めて『はじめての仕事』を担当することになったのである。


 この5年間には結婚もしているし長男も生まれている。
 今回はざっとこの5年間を総括したのだが、
 この時以降一生のお付き合いとなった単車事業や家内のことなど、
 シリーズで別途取り上げてみたいと思っている。

 まずは『その1』である。

  
 
 
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今朝のスロージョッギング

2021-02-21 06:56:21 | 発想$感想

★ 今朝も家の前を水道管の入れ替え工事なので、
 車が出しにくいので、防災公園までは行かずに家から協同学苑の周りを一周してきた。

 



 
 家を出る時は、まだ工事は始まっていなかったが
 帰った来た時は、工事の真っ最中だった。


 いろんな道を歩いてきた。
 ● 住宅街の細い道をスタートして

         
       
 
 
 ● その周囲のちょっと広い道に出て
 ● 交差点から新しくできた広い下り坂を下って

   
      


 ● 『りんどうの里』からの道は細い
 ● ここは昔からある道で細いままだが車の通りは多い
 ● 横にある池は今は網が張られて入れないが昔は鮒釣によく来た




    
 ● 下っていくと志染の里に出る
 ● 昔流にいうとあぜ道を通り
 ● 村の中の道を通ると
 ● 新しくできた広い道

       
 
  
 ● そこから坂道を上るとよく釣りに来た池がいっぱい
 ● 今でも魚か多いのか水鳥がいっぱいいた

   


 
    ● そこから田んぼ道を少し上って
 ● 協働学苑の一番下にある池のところに
 ● 少しだけだが舗装でない地道を通る

  


  
 ● 協働学苑に入ってからは急な坂道を登って




 ● 桜並木を通って

  



 ● 元の住宅街に戻ってきた

   




 新興住宅街だが、ちょっと歩くだけでこんな風景にも出会えるし
 公園の中の道も歩ける。

 


  
 こんなところを1周してきたのである。


  



 
8時20分に家を出て、1時間半、1万800歩、7,7km
 消費カロリーは1300kcalを越えたりした。

 

    


 
 

 

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新しい水道管の設置作業

2021-02-20 07:26:09 | 発想$感想

★ いま私が住んでいる三木市緑が丘は1970年頃の開拓なので、ちょうど50年程経っている。

 50年も経つと『水道管』も寿命が来るらしい。
 昨年の秋ごろから新しい水道管の設置作業が始まって、
 昨日はちょうど家の前あたりを作業中なので、
 その動画を撮ってみたりした。

 こんな作業なのである。






 旧い水道管と取り換えるのか? と思ったが、確かに『取り換える』のだが、
 旧い水道管はそのままにして、新しく設置しているのである。
 
 その手順は
 ● 道に約1メートルぐらいの巾の溝をつくるために
 ● ブルで土を掘り横のトラックに積む
 ● その深さは勿論一定に堀り
 ● 新しい水道管を埋め込み
 ● トラックに積んだ土を戻して
 ● その上を舗装する
 ● それだけのことだが1日に埋め込める水道管は6本だそうである
 ● いつもは3人でやってるらしいが今日は4人いるので作業が早い
 ● ブルを運転してるのが社長さんで、息子さんもいるとか

 
 


 今はこんな団地の『青い線』の部分を作業中なのだが、
 勿論、団地の中すべてをやるのでこれは大変である。

 今は『水道管の埋め込み作業』だが
 完成したら、一戸一戸に取り込む作業をやるらしい。
 『気の遠くなる作業』だが、それをやるらしい。


  これは新しいパイプを埋め込んだのち、
 掘り返した土を戻しているところである。


  



 右手前にあるのが新しいパイプで
 これが1日6本埋めるのが1日の作業量だというのである。

 




★いつになったら出来るのだろう?
 しかし50年前にも同じように埋め込んだのである。
 
 今回のパイプは耐用年数が伸びて『100年持つらしい

 発注元は三木市役所で道の真ん中に二人いるのが市役所の方、
 日に何度か作業状況を見に来るらしい。

 『暇だから』作業の交通整理をしているおじさんに話を聞いて、
 いろんなこと『仕入れている』のである。


 誰とでも直ぐ親しくなって、『気安く話ができる』のは『私の特技』なのである。

 交通整理をしているおじさんも『暇だから
 幾らでも話に応えてくれるのである。


 『暇だから』と言ったが
 もう少しまともな言い方をすると
 こんなのが『マーケッテング・マインド』なのである。

 簡単なようだが、こんな話を交通整理をしているおじさんに
気安く聞き出す』のは、ちょっとしたテクニックも要って、
なかなか、普通の方は『気安く聞き出す』ことが『出来ないのが普通』だと思う。


 誰とでも直ぐ親しくなって、
 『気安くいろんなことを聞きだす』ことが出来るのは
 身に付いた『私の特技』だと言ってもいいのである。


 
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カワサキオートバイ販売出向の10年間  その 8

2021-02-19 07:32:28 | 自分史

★ この時期が1回目の国内出向の10年間だった。
 現役時代国内販社と親会社の間を往復していたのだが、川重に戻った時は営業第1線で得たノウハウを単車事業部が必要としたときに戻ったりしているので、
何となく自分では『逆出向』のような感じも持っている。

その1回目の国内販社出向の10年間は、自分にとっても初めての経験ばかりだったのだが、ホントに末端の第1線を経験したことは、普通ではなかなか経験のできない貴重なものだったような気がする。

中でも『人との出会い』が貴重な経験で、
大会社の従業員でない代理店の方たちや販売店の人たちと密接に繋がって、
一緒にいろんなことが出来たのはよかったなと思っている。

人は歳を取るにつれて成長する』というのだが、ホントかな?と思ったりもする。
 
特約店候補の人たちも、それを推進した所員も、私自身もみんな若かった。
若かったから』思い切って世の中で初めてのことだったのだが、推進できたのではと思ったりもする。

 
★このカワ販出向期間の10年改めて振り返ってみる。

● 昭和40年(65) カワ販出向・山本隆ジュニアロードレース
● 昭和41年(66) カワサキ日本GP初出場・藤井敏雄マン島事故死
● 昭和42年(67) 仙台事務所長・東北6県代理店営業
● 昭和43年(68) マッハⅢ発売 カワサキ中・大型車分野へ本格的に
● 昭和44年(69) 川崎重工業・川崎車両・川崎航空機3社合併
● 昭和45年(70) 三木市に土地購入、10月に大阪母店長に
● 昭和46年(71) 大阪カワサキ共栄会設立
● 昭和47年(72) アメリカ視察団、特約店構想、中日本営業部長、
● 昭和48年(73) 直営部長、 東名阪 特約店制実施、三木市転入
● 昭和49年(74) 管理部長(本社異動)、特約店制全国推進
● 昭和50年(75) 10月川重単車企画室企画部復帰、

 ざっとこんな10年だった。
 明石での広告宣伝課でレースも担当、仙台に白紙から事務所を創っての代理店営業は初めての営業経験だった。
4年間のうち、あとの2年は北海道も担当だったが、流石に広すぎて北海道には2度しか行けなかった。


  


   
その間の3社合併やカワサキ二輪事業の中大型スポーツ分野への転身に伴っての大阪への異動は文字通りの第1線の初体験だった。
 大阪でのカワサキ共栄会の設立から、特約店構想さらにその推進と目まぐるしく動いた。
 
 直営部長時代のテリトリーである。
 広かったが結構現地に行っている。



 


その間個人的には三木の土地購入。三木市への転入などあって、明石本社への異動し、全国の特約店制推進の旗を振った。
1975年には全国特約店制がほぼ完成して、10月に10年ぶりに川重復帰。



 殆ど家のことは家内任せで放っておいたのだが、
 子どもたちは小学生時代、息子は4年生ぐらいからサッカーを始めて、
 小学校5年生ではオール三木で兵庫県優勝、
 6年生では兵庫選抜で全国大会にも出場し優秀選手になったりしたので、
 川重復帰して息子も中学生になってからは、そのサッカーを観るのも楽しみだった。

 兎に角、ガムシャラニ精一杯生きた「10年の出向期間」だった。

 
 

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性格かな? 努力かな?  それとも・・・『才能かな?』

2021-02-18 07:00:46 | 発想$感想

★アメリカにいる孫の門野真也、本職はプロのサッカー選手である。

 もう20歳を過ぎてるのに、『こどもみたいなところ』がある。

 先週末の土曜日、Facebook のメッセージにこんなのが届いた。
 『今日で描き続けてちょうど1年です

 ただ、それだけである。


  



  何を思ってわざわざのメッセージなのか?
 『頑張ったな。ホントに半端やないな。でも止められなくなるな。』
  と返事したのだが、

 ブログにでもこの話題『取り上げてくれ』と言ってるのではないかと
 思って書いている。



   門野真也のInstagram   にはこのように書かれている。

  

 


 その後もずっと続いている。
 毎日絵もちょっと違うし、『短いコメント』が秀逸である。
 毎日、こんな『コメント』を思いつくのは『才能かな?









★ 子どもの頃から4人の孫の中で、一番面倒見てやったのが真也である。
そういう意味では『私の子分?』みたいなところもある。
ちょっと『似てる』ところもあって、何でもよく続く。

サッカーも下手くそだったのに、努力を続けていつのまにかプロになった。
今度は、本職のサッカーの動画づくりに凝っている。

     SHIN'S JOURNEY   というこんな動画をいっぱい作っている。
 
  是非、クリックしてみてやってください。

SHIN’S JOURNEY(@shins.journey) • Instagram写真と動画


   



  性格かな? 努力かな?  それとも・・・『才能かな?』

  
 
 
 
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カワサキオートバイ販売出向の10年間  その 7   

2021-02-17 06:12:43 | 自分史

★1970年代後半の『カワサキ特約店構想』について書いてきたが、
その中には『二輪車新聞の衛藤誠さんの記事』を引用もさせて頂いたのだが、

衛藤さんは 二輪車新聞 の創刊号から関わっておられるベテラン記者なのである。

 二輪車新聞のネットのホームページの中にも衛藤さんの『創刊号作り』の話なども載っている。


  




衛藤誠さんとは、昭和36年川崎航空機に単車営業部が出来た最初の頃からのお付き合いだったが、昨年まで現役記者で活動されていたのである。

この時代の大阪特約店の記事は、衛藤さんにとっても懐かしい想い出なのだと思う。

そこには非常に詳しく当時の取材記事から書かれているので、
ご紹介しながら、私の感想を述べてみたい。
●印の文章が『私のコメント』である。










 
★まずは『カワサキ販売網づくりの今昔(1)』はこのように始まっている。


これは、これまでの“実用車のカワサキ”から脱皮し、“中・大型スポーツ車”を中心とする販売展開を目指すため、新しい販売方式を模索しての動きであり、特に東京・大阪・名古屋など大都市市場で見られてきた。
既にこの前年、70年(昭和45年)には東京で、中・大型機種の販売を指向する販売店約50店による「東京カワサキ会」が結成された。

これに触発された大阪でも、カワサキオートバイ販売大阪母店(近畿地区を統括)大阪営業所が1月、府下の主力20店を和歌山の勝浦温泉に招待して新年会。この席上、古谷錬太郎所長が“中・大型機種を指向する販売店の組織化”を相談したところ、出席者の大半が賛成し「早急に準備を進めてほしい」ということになったという。

この直後、古谷氏から私に声がかかり、古谷氏が考える新しい全国の“カワサキ販売店組織化構想”を示し「この早急な実施を図りたい」との話。
そこで私も「この構想を二輪車新聞に掲載していいのか」と問いかけると、「是非大きく書いて」ということになり、本社でも“面白い”ということで、2月5日付で、1面トップで大きく扱ってくれた。

ところがカワ販でこの記事が大問題となり、私と古谷氏が明石のカワ販本社に呼びつけられ、当時の荢野豊秋専務から“大目玉”。
荢野専務曰く「現在、全国にカワサキ車を販売してくれている販売店は1000店以上ある。この販売店は、何の前触れもなくこの記事がいきなり舞い込んできたら何とする。販売店の今後の経営方針にも大きく影響するばかりか、カワサキの今後の営業活動にも大きく支障が出る」というような主旨のお叱りの言葉を約3時間。私は荢野専務のお叱りは“ごもっとも”と思い、大いに反省させられた。


● 衛藤さんはこのように書かれているのだが、確かに本社サイドの決済など受けずに、取材に応じたというか、『取材をお願いした』のは間違いないのだが、当時の大阪市場での『カワサキ』が新販売網政策を展開し、その実現を目指すにはこれくらい迫力のあることをやらないとダメだったのである。
 強烈な反応があったということは、目的は達成できたということだと思う。
 衛藤さんは『反省』と言っておられるが、私は全く『反省などしていない
私の性格テストの中で一番強烈に出る欠点は『反省しない』ということなのである。



ところが一方の古谷氏も、その場では“ハイ、ハイ”と平身低頭していたが、後々、古谷氏の言葉から、これは“確信犯”だと感じさせられた。
「難問題にチャレンジするには、まず、事を公に発表してから進める。当然リスクはあるだろうが、そのくらいのことは最初から覚悟している。
私は物事を半年刻みに考えており、半年で出来ないものは、10年経っても出来る保証はない。
これは私の信念であり、今度のことでは、衛藤さんには迷惑をかけたが、“事を急ぐため”の常套手段であり、物事の実現には大きな“追い風”になります。
もちろん、これには多くの人たちを納得させる正当性がある限りです」とのこと。全く恐れいりました。


●衛藤誠さんとは、カワサキの二輪事業のスタート時点からお付き合いがあり、現役時代私はホントにいろいろとお世話になったが、この時期のカワサキの特約店政策が順調に推移したのも、この二輪車新聞の記事が大いに寄与したのは間違いないのである。
そして、『その2』はこのように続いている。






古谷氏の狙い通り、事はトントン拍子に進み、「半年あれば物事はある程度の現実をみる」とおっしゃる通り、この年の5月には大阪府下の主要な販売店25店が参加して「大阪カワサキ共栄会」の結成総会にこぎつけ、カワサキオートバイ販売から田中誠社長の出席もみた。

名称の「大阪カワサキ共栄会」は、その文字通り“カワサキとその販売店が共に栄える”という願いを込めたもの。また、その会長には船場モータースの岡田博社長が就任した。
さらに5カ月後の10月には、同共栄会の2回目の会合が開かれ、東京カワサキ会から北多摩モータース、城東カワサキの両社の社長さんも来賓で出席し、東京の組織活動などの情報を話し、相互に意見交換を行った。
このあと、カワ販大阪営業所は、カワサキ共栄会メンバーを軸とした販売強化策を展開して、府下の販売店のうち約500店もの販売店との取引中止を実施した。

同時に「カワサキ特約店制度の基本構想」の検討にも着手した。
これにはカワ販本社の田中社長も大阪の展開に強い関心を示し、その取り組みを側面から支援したこともテンポを早める要因になったようである。
おりしもカワサキは、この年(71年)、“二輪車事業10周年” を記念して、全国的な「二輪車事業10周年記念セール」を展開し、このセール成約の優良店100店を“KMC&米国市場視察旅行”に招待することにした。

このセールの主催は全国カワサキ会(小野寺和夫会長)。この会は、全国のカワサキ代理店組織で、カワ販の各地区母店もこのメンバーに含まれており、大阪母店長の古谷氏は同会の副会長に就任していた。

「米国視察旅行」は、72年(昭和47年)1月8日から15日までの7泊8日で、KMC(カリフォルニア)とサンフランシスコなど西海岸の旅で、参加した100店のうち、約50店は東京地区、残る50店が大阪をはじめとする関西と、名古屋地区の販売店であった。この帰国直後には、京都カワサキ共栄会も結成をみた。

● このアメリカ市場視察団は、全国カワサキ会が主催したもので、私自身の発案なのである。
当時のアメリカ市場の販売網がどのようなものなのか?
今後、国内市場で『二輪専門店網』を確立するためには先進市場のアメリカを是非観たいと思ったのである。
この時代未だ『海外旅行』など一般にはなかった時代で、二輪業界では勿論初めてのことだった。参加した国内100社はアメリカ市場を見て『洗脳』されたと思うし、東京を中心に、大阪・京都・名古屋などから参加した人たちは、
一気に燃え上がったとと言っていい。
私はこの視察団の団長を務めたのである。


このあと、4月にはカワサキ本社に東京・大阪・名古屋地区を統括する直営部が社長直轄として設けられ、直営部長に大阪母店長から古谷錬太郎氏が赴いた。
前年から検討されていた「カワサキ特約店制度」の構想も急ピッチで進み、8月中にはその概要がまとまり、二輪車新聞の8月31日付けに掲載。
9月8日、大阪の厚生年金会館で、この正式な発表説明会を開いた。
まずは直営部管内の東京・大阪・名古屋地区で先行することにして、正式なスタートは72年10月1日からだった。

契約第1号は、説明会を行った翌日の9月9日、大阪の船場モータースで、しかも船場モータースの岡田博社長は自店の契約だけでなく、東・名・阪各地で契約促進をバックアップした。

さらに翌年の73年9月からは、この「カワサキ特約店制度」を全国的に導入することになり、首都圏全域や広島、福岡などで積極的な活動が展開された。
これには、東京・大阪・名古屋地区で特約店契約を結んでいた販売店も積極的な協力を行ったという。
また、当時のカワサキは“ZⅡ”をはじめとする中・大型車の販売が好調で、これも特約店契約促進の追い風になったようである。



カワサキが現在取り組んでいる新しい販売網政策の「カワサキ・ネットワーク」と、46年前に取り組んだ「カワサキ特約店制度」は、新しい販売網を構築しようという狙いは共通している。しかし、唯一異なる点を挙げると、現在進めている制度は、寺西猛社長、清水泰博取締役を中心に、本社で綿密な計画を練り、これを全国展開している点で、

46年前の制度は、販売店の声などを汲み入れる形で地域の営業所長などが考え、これを可能な地域から全国的に拡大しようとした点だと思われる。

この差異は、混沌とした46年前の二輪車市場と、すでに成熟しきっている現在の二輪車市場という、全く異なる時代的な背景がもたらすものだと思う。


● この衛藤さんの原稿は2017年に書かれたものであり、
現在も進行中の『新しいカワサキの販売網政策』との比較が行われているのだが、時代も違うのだが最も異なる点を挙げるなら、
 現在の『カワサキネットワーク』はホンダさんも殆ど同じような政策を採られているのだが、
 1970年後半の『カワサキ特約店制度』は二輪業界でカワサキだけが先駆けてその『先頭を走った』ということだろう。

私自身は常に『二輪業界に貢献』ということがベースにあって、この時点の特約店制もそうだが、
カワサキ専門店システム』ではなくて、他メーカー車の販売OKなのである。
なぜ今は、各メーカーオンリー制に走るのだろうか?
末端のユーザーにとってみると、いろんなメーカーのクルマがある方がいい筈だと思う。
ずっと後、創ったユーザークラブKAZEも、その基本コンセプトは、
カワサキだけのユーザーのものではなくて、for Everybodyなのである。

 
 
 


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カワサキオートバイ販売出向の10年間  その 6

2021-02-16 06:56:36 | 自分史

★ このカワ販出向中の10年間、個人的にもいろいろなことがあったが、
 子どもたちはまだ小学生時代なのである。
 この間の住所は 明石ー仙台ー高槻ー三木 と移っている。
 
 何と言っても『三木に土地を買って家を建てた』というのが、個人的には最も大きな出来事だっただろう。
 当時、誰しもが自分の土地を買って家を建てようという機運にあった世の中であったことは間違いない。
 ただ私の場合は、仙台から明石に出張しているときに突如話が出て、
 出張中に独断で決めてしまっているのである。
 なぜそうなったのか?
 大体のことは覚えているが、当時の日記を読み返してみた。

 昭和45年(1970)6月12日に、かって広告宣伝課時代に付き合いのあった田中さん大和ハウスに移っていて
廣野にいい土地があるから』というのである。
 翌日には現地を見て『6月14日には予約書にサイン』をしている。

土地という大きな買い物なのにあまりにも簡単に決め過ぎるきらいがあ』と日記には書いているがその通りなのである。


★ 大体、何でもこんな調子で『決断は早い
 『いいと思ったこと』は直ぐ決めてしまう。

 それは『人を信じる』というのがその根底にある。
 田中さんは広告宣伝課時代には印刷屋さんに勤めていたのだが『いい奴』だった。
 大和ハウスに転勤して三木に開拓中の土地を川重の明石工場人たちに売り込んでいるのだが、なかなか決まらないという。
そこに私が出張で戻ってきたものだから『いい土地だから買ってくれ』というのである。
 
現地を見たら、廣野ゴルフ倶楽部の前の広大な土地なのだが、
まだ造成中で土地の地肌だけが見えるだけで、
家の場所さえ解らなかったのだが、細部は全て田中さんに任して『サインした』のである。

信じる者』と書いて『儲かる』という。
信じる者』は『儲かるように出来ている』と何となくそう信じている。

 当時直接担当した『大阪の特約店制』なども25店の販売店を信じて、
 500店の自転車屋さんを切ってしまったのである。


★ いま住んでいる三木はこんな立地なのである。
 今は周辺も開拓されているのだが、
 当時は明石からはずっと奥の田舎だったのである。

 

 
 三木に住んでもう50年近くになるのだが『よかった』と思っている。
 
 当時の給料や物価は年々20%以上も上昇している時代で、  
 三木の土地は75坪を280万円で買ったのだが、
 土地も給料もどんどん上がって実際に家を建てた4年後の1973年の春ごろには、
 私の給料も土地の値段も2倍ぐらいになっていたのである。

 そんな私の『やり方』を見て周囲の人は、
 『そんなになることを読んでいたのか?』と言われるのだが、
 そんなことはなくて、ただ『田中さんの言うこと』を『信じた』だけなのである。


★ホントに『人を信じる』のである。
 大阪・京都・名古屋の3地区でスタートしたカワサキの特約店制なのだが、
 京都の所長をしていたのが『藤田孝昭』くんで、
 彼は川崎航空機入社の同期で野球部で私と三遊間を組み、1・2番を打った球友でもある。
 
京都営業所を任すときに『すべて自由にやれ』と言ったこともあったのだが、
突出して『徹底的に進めた』のが『京都営業所』なのである。
当時の京都営業所はオモシロいメンバーが揃っていて、
久後淳一郎・関初太郎・柏原久・吉川健一など今でもお付き合いのある人たちがいたのだが、
京都府は京都市内の9店と宇治カワサキの10店だけに絞ってのスタートだったのである。

ホントに10店だけで大丈夫かなと思ったが、当時の京都営業所の経営実績は抜群だったのである。
 
 『信じる者』というのは本当に『儲かる』のである。

 これは吉田純一さんの受賞のお祝いに集まったメンバーだが、
 右から二人目が『藤田孝昭』くんである。

 

 
 このメンバーもそうだが、お付き合いのあった方、
 みんな立派になられるのである。

  
 これは 会が始まる前だが、
 藤田くんもいるし、一番右が柏原久くんである。
 明石カワサキも和歌山の阿部ちゃんもいる。
 みんな当時の仲間たちである。

 一番左は村島政彦さんなのだが、昨日はFacebookのこの写真に、当時の出会いのコメントなど頂いたのである。

 

 

 同じ会だが、受賞者の吉田純ちゃんを囲んで一番右が関初太郎くんである。

 



★ 『カワサキ特約店制』に没頭していた1970年代後半だが、
 それから50年近く経つた今も、Facebookなどでは毎日のように繋がっているのは、

 みんな『信じ会えた仲間たち』だったからだと思う。
 いまお会いしても昔と同じように話ができる。

 人生、長く生きてきたが『人を信じて』生きていると
 本当に『いいことばかり』なのである。
 そういう意味では『バカみたいな性善説者』で、
 世の中でお付き合いした人たちは、みんな『いい人ばかりだ』と信じて生きてきたし、
 今後も間違いなく『そう生きる』と思っている。


 
 

 
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カワサキオートバイ販売出向の10年間  その5

2021-02-15 07:20:06 | 自分史

★ 1970年代の国内の二輪業界は、
 各社とも250cc以上のスポーツ車の上市もあったのだが、
 カワサキを除く業界3社はその販売の中心は50ccのモペットで、
 その販売方法は全国の自転車屋さんの店頭にバイクを委託するという
 『委託販売』の時代だったのである。

そんな環境の中でカワサキだけが、中大型スポーツ車を中心の販売であったし、
最大の市場東京では、既にカワサキは100店余りの『二輪専門店網』を敷いていたのである。

東京に次ぐ大市場の大阪なのだが、大阪では全くそのようなことにはなっていなくて、やっと『カワサキ共栄会』を創ったばかりの状況だったのである。


★ 『カワサキ特約店制度』と検索すると
 こんな野田浩志さんの記事、 が現れるのである。

 1971年時代にはカワサキの本社では野田君が『特約店制』なるものを
既に起案して承認はされてはいたのだが、
 第一線ではどこもそれを実施しようとするところはなかったのである。

  


 そんな状況だったので、私の管内で何とかそれを実現させたいと
 その前身の『カワサキ共栄会』なるものを創ってスタートを切ったのである。
 『特約店制』と簡単に言うが、既に取引のある自転車屋を切って、新しく『カワサキ特約店』を創るのは、口では簡単でも第1線の営業にしてみると『リスク』が大きすぎて実行しようというところが皆無の状態だったのである。

 まず大阪・京都と名古屋地区でスタートを切るべく検討を開始し、
 特に『カワサキ共栄会』が出来た大阪では500店以上の取引自転車店があったのだが、
 『カワサキ共栄会』の25店で大阪管内の実績の60%の販売台数になれば
500店の店を切って25店の『特約店制』に踏み切ると公言したのである。
 
約1年の期間を経て、管内の京都地区にも10店の京都カワサキ共栄会がスタート出来て、名古屋地区でも岡崎営業所がスタートするなど、徐々にその機運が高まっていったのである。

 
そして1972年9月1日に二輪車新聞のトップ記事で
 『カワサキ特約店制の実施構想』を発表したのである。


 
 

 これは簡単に出来たように思われるかも知れぬが、
 大変だったのである。

 特約店候補の店も数少なく絞ったが、
 その候補店に対しても、十分な理解を得るために、営業所で夜遅くまで『勉強会』をやったし、
 既に同じような『二輪専門店』にはなっていた東京地区の
 北多摩モータース・城東カワサキには、何度か大阪まで足を運んで頂いて
二輪専門店』なるものへの研修会の講師を務めて貰ったりしたのである。

 特約店契約の内容も非常に厳しいもので、従来の自転車屋さんとの
委託販売』とは全く違った『年間契約金額』も設定されたものだったのである。
 カワサキ場合は、大型車も多いので『台数契約』ではなく『金額契約』とし
 その最低を『1000万円』としたのである。

 大阪の場合で言うと25店だから契約総額は3億円を超え、
2年前に二輪車新聞に『2年で倍増』という公約は十分に果たせたのである。



★こんな細部のことを言っても、一般にはなかなか理解がムツカシイとは思うが、
 兎に角、当時としては『桁外れに高い条件設定』だったのだが、
 神様は援けて下さるのである。

 上の二輪車新聞の左上に『カワサキ750、国内用に明春発売』とあるが
 これが50年経った今も人気の『カワサキZ2』なのである。

   


 この車が『特約店制スタートの初年度』に発売されて
カワサキの特約店制は最高のスタートを切ることが出来たのである。

 カワサキ特約店制がスタートしたのは1973年なのだが、
最初は大阪・京都・名古屋の3地区からスタートし。
既に同じような『二輪専門店制』を採っていた東京も加えて
東名阪メガロポリス地区』での特約店制が確立するのである。
東・名・阪の東海道メガロポリス地区での


★この時点では地元『兵庫県』が入っていないのだが、
 兵庫県は販売台数は多いのだが、典型的な自転車屋さんが主力で、
 『二輪専門店』になるような候補店が皆無の状態だった。

 そんな中で登場したのが、この稿の冒頭にご紹介した『従業員独立制度』、
 所謂『のれん分け制度』で兵庫県はカワサキの従業員の『のれん分け』のお
店が多いのは、そんな事情からなのである。

 これは最近の写真だが、
 みんな立派になられたが、『元カワサキの従業員』だし、

  



 これはその最右翼『叙勲』を受けられた吉田純一さんの祝賀会に集まった
 当時関係のあったメンバーたちなのである。

 不思議なほどその当時の主役たちが集まっている。

 



 今でも思うのは、この当時『特約店制』で関係のあったメンバーたちは、
 単なる販売元と販売店という関係ではなくて、
 『一緒に同じ目標に向かって邁進した仲間たち』なのである。

 50年経った今も、そんな絆で結ばれているのが素晴らしい。


 冒頭にご紹介した特約店制度のれん分け制度起案者野田浩志さんこと
 『のんちゃん』もFacebookで繋がっている。

私にとってもこの二輪業界で先頭を切って創り上げた新しいシステムだったし、こんな特約店制度の推進に関われたのは『最高の喜び』なのである。

 
 
 
 
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梅の花と六地蔵と志染の石室

2021-02-14 06:05:24 | 日常生活・園芸、バラ、メダカ、金魚

★ 天気がよかったし、三木総合防災公園の梅の花が咲いたので、
 その動画を撮ってきた。
 80分の行程を1分50秒に纏めてあるので
 ご覧になってみてください。
 三木総合防災公園とはこんなに広い公園です。




 そのついでに園内をスロージョッギングしてきたが、
いつもは通らない山道を通って、『六地蔵』や『志染の石室』にも久しぶりに行ってきた。


 2月も半ば、梅の花も開いている。
  








 土曜日で子どもたちがサッカーの試合で、
 駐車場はいつもより車が多い。





 こんな広い道をいつもは通るのだが、




 こんな山道ばかりを通ってみた。



 
急こう配の階段などを上って




 久しぶりに六地蔵さんのところに行ってきた。





  こんな彫り物のある石がある。





  
六地蔵 どっこいさん とは こんな石である。

  




  そこから更に、こんな坂道を下り





  さらにこんな石段を下った先に





  志染の石室はある。



  この時期『金色に輝くこと』があるというので





 このように言われている。




  ずっと下ってきたので、今度は登り、

 急な階段や坂道が続く。

 







 そしてやっと公園の道に戻ってきた。
 



 子どもたちがサッカーの試合をやっていた。






 歩いた歩数9000歩、約6km、80分掛かっている。
 消費カロリーは、1300kcal と1000を超えた。

 

 


  
 あと20日で88歳・米寿を迎えるが、結構元気である。
 今距離歩いたのではなくて、
 『スロー・ジョッギング』で登り以外は走ったから、
 アクテイブタイム81分と出ている。


 
 
 

 ただ、歩くのでは幾ら歩いても『0分』なのである。
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