カワサキのサーキット専用4輪スポーツヴィークル、X-11
カワサキの昔話もいろいろあるが、これは4輪に関するもので余り一般には知られていない。
ハードとしては完成し、カタログまで造ったのだが、最後に何故現実の販売にならなかったのか、直接担当はしていたのにもう一つ良く覚えていない。
人間の記憶は本当になくなってしまうこともあるのだと思う。
そんな話を思い出させてくれた人に、
ヴィンテージモトクロス、ON ANY SANDAの日に出会った。
大阪の貴島久裕さん。
このヴィンテージモトクロスに深く関係して、立脇君の所からファクトリーマシンを調達して展示したり、ご自分の持っているマシンも展示したりしている方で、当日年寄りの私の話し相手を積極的に引き受けてくれたのだが。
話は、止まるところを知らず面白かった。
その貴島さんからX-11の話が出たのだが、その前の自己紹介を聞いてビックリした。
少し横道にそれるが、解る人が読めば直ぐ解る。このブログをお読みの方も解る人は多いと思うのだが。
「今は自分で商売をやっていますが、以前、Taichi に居ました。」
「佐々木さんのところにもいました。その頃お会いしたこともあります。」
「吉田純一さんの手伝いもしていました。」
夫々、この道では有名人であり、全国区である。
私は直接,深く関係のあった人たちばかりである。
「ここからは、後からの挿入です。 山本隆君のブログのコメントから飛んで行ったのですが、
ON ANY SANDAについても、貴島さんについても、詳しく写真入りのブログを見つけました。貴島さんのことホントに詳しく出ています。是非ご覧下さい。ここまで。」
X-11は、
90年の秋、開発NO.015の試作がほぼ完成し、その販売を中心にソフト面でのお手伝いを当時のケイスポーツシステムが引き受けた面白いプロジェクトであった。
どんな4輪かというと、
FJ1600よりは限りなくF3に近いサーキット走行専用車で、
ZX1100ccのエンジンをベースに160PS/105000rpm、車重409kg,
ホントにかっこいいマシンだった。
エンジンは当然カワサキの開発陣が関わったのだが、サポートしてくれた人たちがまた、かっこよかったのである。
シャシーは、FJ1600の創始者で鈴鹿のウエストレーシングカーズ㈱社長の神谷さんが直接担当してくれた本格的なものだった。
このマシンに興味を持ったのは、出来たばかりの4輪の個人メンバーを集めようとした「TIサーキット」の千々岩さんや国井さん。
そのテストと評価は、元F3チャンピオンの佐々木さんで、その評価も上々であった。
その他、星野インパルの金子社長、星野はタイヤの契約の関係で乗れなかったのだが、この件で金子君はわざわざ明石まで足を運んでくれたりした。
少し脱線するが、金子豊君は若い頃、星野と同じカワサキコンバットにいた。
秋田の出で、その後、私が仙台で東北6県を担当した頃もよく遊びに来ていて、彼のトヨタの空冷のスポーツカーで一緒に走りまわったりした仲なので、特に頼みやすかったのである。
90-12-4、発表されたばかりのホンダNSXに乗ってカッコよくやって来た。
チームグリーンの連中が、思わず車に群がったのをよく覚えている。
レース界では名を知らぬ人は居ないほど有名だった、ダンロップの京極さんなどもタッチしてくれている。
大げさに言えば、レース界の日本の最高レベルの人たちが関与してくれていた。
KSSでは、当時のチームグリーン監督の重本君ほかが、いろいろとお手伝いをした。
当時カワサキに出入りしていた岩城洸一や二輪ライダーの宗和なども乗りたくて、乗れたときには子供のように喜んでいた。
乗りたくて仕方がなかったそんな魅力いっぱいのマシンであった。
岡山のTIサーキットでのKAZEのイベントでルマン耐久3位入賞コンビの宗和,多田が走行披露したりしたこともあった。
特に、二輪エンジン10,000回転を上回る独特のノイズが何とも言えぬいいムードであった。
TIをベースにテストは続けられ、川重社内の経営会議決済でも承認された。
当時の社長の「大庭さんも上機嫌」と日記には書いてある。91-10-17のことである。
当時の雑誌、カーグラフィックにも記事が掲載され、その評価も至って良く、カタログも作って1台800万円ぐらいで売り出すべく準備をしていたのだが。
そこまでの記憶も記録もあるのだが、何故本格的な発売にならなかったのか、それが解らないのである。
私自身は、松井田のサーキットや、JJSBAの改組、新宿ショールームなど同時進行の面白いプロジェクトを手一杯に持っていて、X11はアタマの片隅にしかなかったのか。
そんなことはないと思うのだが、どうしても思い出せない。
今日はこのくらいにして、また調べてみたい。貴島さんとの話でXー11を思い出した。