雑感日記

思ったこと、感じたことを、想い出を交えて書きたいと思います。

昭和39年(1964)という年  カワサキ単車の昔話

2024-11-06 05:45:20 | カワサキ単車の昔話

★ 昭和39年という年はカワサキにとっても、私にとっても非常に大きな意味を持つ年だったなと思う。

 カワサキが単車の一貫生産を始めたのは昭和35年なのだが、
 それからの3年間は発動機事業部の中の一部門として単車があったのだが、
 昭和39年1月から単車事業部として独立して、その事業本部長には当時の本社常務だった岩城良三さんが指揮を取られることになったのである。

「隣国の兵は大なり、その武器は豊なり、その武勇は優れたり、然れども指揮の一点譲るべからず」
 と常に話の冒頭はこの言葉で始まった。

 当時の本社は単車事業を軌道に乗せるため、3年間本社開発費で1億2000万円の広告宣伝予算を取り、広告宣伝課が出来てその課を担当することになったのである。

★ 当時の日記を読み返しているのだが、
 1月に単車が独立分離され広告宣伝課がスタート
 2月には広告宣伝代理店の選定
 3月に広告代理店は大広と決定
 4月にはカワサキのファクトリーチームがMCFAJの朝霧での全日本MXに出場、山本隆がオープンで優勝
 5月には北海道・東北の代理店訪問をしている。 当時は末端市場は各地の自前代理店が販売を担当していた。
 6月にはカワサキの初めての中間車種「85ーJ1」の試乗会があった。
  

 7月には当時映画関係で日活とは密接に繋がっていたのだが、明石日活に挨拶に来ていて当時のスター浜田光夫に声を掛けたら、明石工場にやって来て、テストコースでバイクに乗ったりした。
 それを観るために発動機の女工さんのラインが止まってしまったというハプニングもあった。
 そんな当時のスター浜田光夫である。

  
  
 

8月にはABCテレビの人気番組「源平芸能合戦」に川崎航空機として出場している。相手は三洋電機だった。

 

  
 9月には東京モータショー開幕、初日の入場者は17万3000人だった。

 10月10日にはMCFAJの丸の山全日本MXで90㏄三橋実・125㏄山本隆が久保・荒井を抑えて、オープンは梅津次郎と3種目優勝を果たした。


  

  
  因みにこの日は東京オリンピックの開会式当日だった。


 11月には和歌山でスポーツニッポン主催の西日本MXの第1会大会があった。
  このレースのノービスクラスに初めて星野一義が出場している。

  


  まだ有名人でもないただの17歳の新人ライダーだった。
  真ん中が星野、一番左は金子豊、みんな立派に成ったものである。


   12月には尾西市であった日活の「花咲く乙女たち」の現場ロケで単車が出る場面があったので出かけている。


★ こんな1年だった。
  私は広告宣伝とレースを担当したお陰で、その後の人生が豊かなものになったことは間違いない、
  昭和39年はそんなスタートの第1年だったのである。


  
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MCFAJの想い出、いろいろ

2024-10-13 05:20:08 | カワサキ単車の昔話

★先日Facebookにアップした「カワサキの昔話」のブログに、
今はめちゃ有名人のToshi Nishiyama さんから
58年前に丸野山高原で開催されたMCFAJ全日本モトクロスでの、 
ノービス125優勝のこんな写真が送られてきた。

「第19回全日本モトクロス(MCFAJ)丸野山ノービス125ccクラス優勝の写真が出てきました。18歳の時で58年くらい前です。」
とご本人のコメント付きである。





西山 俊樹さんがまだ18歳の頃なのだが、
当時は日本のモトクロス界ではMCFAJ全盛期で、その初代事務局長をされてたのが西山秀一さんで、俊樹さんのお父さんである。
当時私は西山秀一さんはよく存じ上げていて、その息子さんがモトクロスをされるということは知っていた。

この写真は、西山俊樹さんなのだと思うが、
お父さんの西山秀一さんにそっくりである。

 


旧い旧い話である。
当時は二輪関係の雑誌もオートバイ誌モーターサイクリスト誌の二誌しかない時代で、MCFAJモーターサイクリスト誌と密接な関係があったそんな時代だった。


★ 昭和39年(1964)春に富士の裾野の朝霧高原で行われたMCFAJの全日本でカワサキの山本隆が初めて優勝をしたのだが、
その年の秋のMCFAJ全日本が伊豆半島の丸野山高原で行われ、カワサキはその時も山本隆が全日本2度目の優勝をしているのである。
 これは60年も前の話だから、前述の西山俊樹さんの優勝はそれから2年後のことなのだろう。


★これが丸野山高原で行われたMCFAJの初めての全日本で、
その時のことを亡くなってしまったが、
山本隆クンがご自身のブログでこんな風に書いている。

・・・その翌年昭和39年(1964)の春は、晴れてカワサキワークスの一員としてMCFAJ第10回全日本MX選手権朝霧高原に颯爽とカムバックしました。カワサキワークスは125cc一機種しかなくそれを使ってオープンクラスの2レース参加である。
そのオープンクラスで、全日本参加二度目にして奇跡的と言おうか荒井市次さんを抜いて優勝を成し遂げたのです。
その後のレース活動への影響が計り知れないほど私にとってもカワサキにとっても記念すべき優勝であったと思います。

その年の秋の全日本MX丸野山高原(伊豆)では125メーカー選手権で久保、荒井、三吉のMX御三家を抜いて優勝しました、マシンは125ツインエンジンでした!
そこで私の秘蔵の写真を公開致します。
その大会にカワサキのヘリコプターKH-4ミス修善寺が飛来大会会長の新井広武氏に花束贈呈のスナップです。

  


★これがその時の写真だが、当時広告宣伝課は航空機事業部が下取りをしたヘリコプターを持っていて、
あちこちのレース場にヘリコプターを持って行ってたのある。
そんなことで各社のライダーたちに「ヘリに乗せて」と頼まれたりしたので、私は他社のライダーたちとも懇意になったりしたのである。

これは、当時の久保(スズキ)荒井(ヤマハ)の両雄を抑えて
カワサキの山本隆、堂々の優勝の写真である。
右はカワサキの梅津次郎なのだが、左は誰なのか解らない
 



★この丸野山のMCFAJ全日本モトクロスは、
私にとって、いろんなことのあった想い出深い会場なのである。
この年の5月に4輪の免許を取ったばかりで、行くときは明石から延々車で現場に行ったのだが、その時初めて車の長距離運転を経験したのである。
そして帰りは東京に出て、1964年10月1日に開業した新幹線に初めて乗って戻ってきた。
この年が東京オリンピックのあった年で同じ時期に開催されていた。

「戦後の復興から高度経済成長に移行していた日本にとって、先進国への仲間入りを世界に告げる好機となった」と言われた、
「日本の発展の始まりの時期」だったのである。


  
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単車事業との出会い  その3

2024-10-11 05:32:09 | カワサキ単車の昔話

★ 前回までカワサキが単車事業をスタートしての単車営業課時代の話を書いたが、
 最初に発売した125B7が散々な出来であったこともあって単車事業は赤字だったのである
 川崎航空機の本社は「この事業を続けるべきか否か」を日本能率協会に調査を依頼していたのである。
 その時期に「青野ヶ原のモトクロスの圧勝」があって事業部内の意気は上がっていて、それを観た能率協会は「この事業を続けるべし」という結論を出すのだが、
 その条件の中に「広告宣伝課を創るべし」と言うのがあって、当時の本社は3年間1億2000万円の広告宣伝費を準備し「広告宣伝課」を創ることを決めたのである。

それは昭和39年(1961)1月のことだが、この「広告宣伝課」を担当するように指示があったのである。
入社以来ずっと新しいことばかりをやって来た実績から「古谷なら出来るだろ」と思われたに違いないのである。
まだ係長にもなっていない時期だったのだが、
私はそんな1億2000万円と言う予算の付いた広告宣伝課とを担当することになったのである。

★1億2000万円と言う予算は、当時のサラリーマンの年収が50万円という時代だから、今のカネに直すと「10億円」に相当する膨大な額だったのである。
 当時のカワサキは「実用車のカワサキ」の時代で大都会では全く売れておらず主力市場は東北・九州などの田舎だったから、所謂「マスコミ」を使う必要はなくて1億もの広告宣伝費をなかなか使い切れないのである。
 そんなことで、結構な金が要る「レース」をスタートさせたのである。
 先ずはモトクロスから初めて関東にはカワサキコンバット、関西では神戸木の実クラブと契約して、こんなメンバーでのスタートだった。
 左から岡部能夫、歳森康師、山本隆、三橋実、梅津次郎の五人だが、
 この中で三橋実は鈴鹿サーキットで日本で初めて行われた日本ロードレース選手権の250ccクラスの優勝者で彼はカワサキコンバットを関東厚木に立ち上げたのである。
 関西では350cc優勝者の片山義美の神戸木の実クラブから歳森康師・山本隆のライダーと契約することになったのである。
 

 

  
 こんな状況だったから、
 若し、本田宗一郎さんが鈴鹿サーキットを造っていなかったら、
 カワサキの二輪事業は全然違った道を歩いたであろうし、
 ひょっとしたら存続できなかったかも知れないと思ったりする。
 
  


★その後、鈴鹿サーキットのロードレースにも1965年にはモトクロスライダーの山本隆が出場して当日雨になったものだから、
全体のタイムが落ちて運よく3位入賞を果たすのである。

  


  「ヤマ3、シオ8、セイコウ、カワ
  とは当日現場にいた川合寿一さんが我が家に送ってくれた電報で
  山本3位、塩本8位と言う、カワサキの初めてのロードレースは大成功だったのである。


 そう言う意味では青野ヶ原モトクロスも当日雨になって勝てたので
 いずれもカワサキにとっては恵みの雨だったのである。

 この鈴鹿のロードレースの「3位入賞」でカワサキも本格的にロードレースの世界に進出することになり、神戸木の実クラブの金谷秀夫と契約することになったのである。
 
★ この時代カワサキは販売の分野では全然ダメな最下位の時代が続くのだが、レースの世界ではモトクロスの日本選手権を制したり、
 結構派手な活動だったのだが、それらはすべて「広告宣伝課の活動」だったのである。

 そんな時代が約10年続いたのだが、
 私はその間広告宣伝と言うか「レース担当」だったのである。
 昭和41年にようやくレースは技術部の担当になるのだが、
 私の広告宣伝課担当もその時期までで、それ以降は販売の分野に転向することになるのである。


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単車事業との出会い  2

2024-10-04 14:26:06 | カワサキ単車の昔話

★ 川崎航空機工業と言う会社は軍事産業だということで戦後は事業を中断されていたのだが、昭和28年(1953)にようやく再開されるのである。
戦時中はその名の通り飛行機を造っていたのだが、明石工場がエンジン、岐阜工場が機体だったのである。
 そんなことで再開された川崎航空機の明石工場では農業発動機などの小型エンジンの生産が中心だったのだが、その中の一つに当時のメイハツ工業が生産していたバイクのエンジンを提供していたのである。

カワサキオートバイ70周年」として言われているのは、この明発工業スタートから70周年なのである。


 


  そんなカワサキが単車の一貫生産を明石工場で始めたのは、昭和35年(1960)のことなのだが、
 広い工場敷地の南に新しく「単車工場」が建てられ「テストコース」も工場内に新設されるのである。

 
  


★ 新しく単車営業課も新設されるのだが、私がその新しく出来た課に異動になったのは昭和36年(1961)12月のことで、
入社して4年と6か月というまだ新人時代と言ってもいい時期なのである、
一応、部長・次長・課長・掛長と上司はいたのだが、どなたも全く「単車事」など初めての経験で、誰も何も解っていないのである。
 当時はカワサキ明発工業から「カワサキオートバイ販売」となった国内販社があって「単車営業課」はそこに単車を販売している部門なのだが、 
 現在の職制で言うなら事業本部の開発・生産を除いた部門で、営業と言いながら品質保証機能のサービスも含んが所謂「企画・営業」部門なのである。
 現在は多分数百人の陣容だが、当時は課員は私以下サービスもいれて、7人ほどだった。
開発・生産以外のことはすべてホントに「何でも担当」で滅茶苦茶忙しかったのである。
加えて、物品税などと言う余分な仕事もあって、今思うとホントによくやったなと思うのである。
それは係長以上の上司もよく認めてくれていて、その当時の考課は抜群で、
ボーナス」なども最高だったのだが、その額は手取りで53000円だった。
 そんな時代だったのである。

★私自身は以降40年間「単車一筋」で定年まで勤めたのだが、その間単車事業は日本からアメリカ、ヨーロッパから更には東南アジアのCKD事業と世界に拡大していくのだが、
 そんなことでスタート時代からカワサキの単車事業と共に歩めたのは非常に幸いなことで「素晴しい現役生活」だったと言えるのである。
 




 

 


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単車事業との出会い  1

2024-10-01 05:11:17 | カワサキ単車の昔話

★ 昭和36年(1961)12月に単車営業課が出来て、その出来たばかりの課に異動になって、私の二輪車との関係がスタートした。
 なぜか二輪車とは言わずに「単車」と言ったのかはよく解らない。

 出来たばかりの課で、庶務から小野助治さん異動されて次長で、
 課長は野球部で一緒だった北沢さんとみんな顔馴染みで、
 係長は壱岐敏さんだったが、課員では若かったけど私が一番上だった。

 そんな単車営業に異動した初日に小野さんに言われたのは
 「物品税を研究してくれ」だったのである。
 「物品税」とは当時贅沢品に掛けられていた税で、消費税がスタートするまで続いた税なのだが、
 当時の二輪車は125cc以上が「贅沢品」と見なされて、「物品税」が掛けられていたのである。

 「物品税」は工場出荷時にその台数分を掛けて納入すればいいので、
 税金を納入するのは至極簡単なのだが、
 二輪車が返品されて工場に戻ってくると「戻入手続き」さえすればそれは戻されるのだが、
 その「戻入手続き」が大変なのである。

★ 私が単車営業課に異動したのは12月だが、その当時も返却が多く、
 翌月の1月度はついに返却が出荷を上回って、生産台数がマイナスを記録したのである。

 カワサキが最初に世に出した125ccは「B7」なのだが
 こんなオートバイである。






 「航空機のエンジニアたちの作ったオートバイ」と
 宣伝のコピーはカッコよかったのだが。
 エンジンは兎も角、車体に欠陥があって、
 前述したように返却が続いて、工場は返却車であふれかえったのである。

  

★ そんなことで私の単車営業課での職務は、
 毎日毎日これら返却車の「物品税の戻入手続き」だったのである。
 税金を戻してもらうためには「出荷当時と同じ状態」でなければならず、
 1台1台税務署員の立会検査があって、若しメーターが回っていればメーターの巻き戻しが必要なので、ホントに大変だったのである。
 更にこんな「物品税」は明石税務署ではなく「大阪国税局」の直接担当で、
 「申告税」だから若し不正があれば罰せられて逮捕されるというのである。

 そんなことで、単車営業課のスタートと言うか、カワサキの単車事業のスタートは大変なことになっていたのである。
 
 
★こんな状況は昭和37年度中は続いたのだが、技術部はB7は諦めて昭和38年度には125B8を開発しその発売に踏み切ったのだが、
この事業を続けるべきかどうか?」当時の川崎航空機本社は日本能率協会に市場調査を依頼するというそんな状態だったのである。


  

そんな日本能率協会の市場調査の真っ最中にあったのが、
昭和38年6月の「青野ヶ原のモトクロス」なのである。
これはたまたま「昭和37年11月」に鈴鹿サーキットで日本で初めてのロードレースが開催されて、そのレースを観戦した生産部門のメンバーが、
カワサキもレースを」と出場したのだが、
 当日はひどい雨になって、他社のレーサーはみんな水につかって止まってしまったのだが、実用車に近いカワサキB8だけが完走して、
1位から6位まで独占と言う快挙となり、現場をはじめ事業部の意気は大いに上がったので、
 その雰囲気を見た日本能率協会は「この事業続けるべし」との決断を提示しカワサキの単車事業の継続が決定したのである。
  天の恵みとも言える大雨だったのである。
 
 
  
 




  






  

 
 
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イランの想い出

2024-07-26 05:58:56 | カワサキ単車の昔話

★ テレビでイランの紹介をやっていた。
 世界のいろんな国に行ったのだが一番強烈な印象を受けた国と言えばイランである。

 ご覧の通り殆どが砂漠で樹が生えていない。
 テヘランをはじめ大都市には緑があるが、自生しているのではなく人の手で植えられ、テヘランなどは日に何回か山からの水が流れてくる。
 都市はみんな人の手で創られている。

  


 1976年(昭和51年)のことだからまだイランが王政の時代である。
 カワサキが小型のCKD生産を始めるに当たって、
 主としてタイ・インドネシア・イランの3カ国を選び、
 その市場調査を行った時に調査団の一員として訪問したのである。
 この年の6月3日から10日まで8日間だったがこんなルートで
 テヘランを中心にあちこちに行っている。


 


 長距離は飛行機だが、工場のあったサヴェーには片道140kmを車で砂漠の道を往復した。
 途中は全くの砂漠で樹など生えていない。
 こんな光景を見るのは生まれて初めてだった。

 南のシラーズイスファファーンデーラー訪問などしたのだが、
 いずれも人が創った綺麗な街だった。

★ こんなイランの風景も印象に残っているのだが、
 人々の発想や言葉も全然違っていたし、
 イランいはイランの数字があるのには驚いた。
 ゼロは・なのである。
 ホテルの部屋番号や飛行機の座席番号も奇数が数字なら偶数はイラン文字で表示されていた。

  
  私は結構こんな新しいことには関心があって
  所謂『ペルシャの市場』にも独りで2度ほど行ったのだが、
  物品の価格が値段交渉で決まるのには驚いた。
  そんなことだから、イランの人達との会議は大変だったのである。
  『事業計画』など未来のことは神様の世界だと仰るし、
  会議をしていても『お祈り』の時間が来ると突然中断されてしまうのである。

 最後に訪れたイスファハーンでは、
 空港で飛行機が欠航になり、いつ飛ぶのか解らないのである。
 まさに、未来は神様の世界で空港関係者は飛行機が再開する時間などあまり関心が無いようで、何を聞いても『解らない』なのである。

  
 


 そんなことでテヘランまでの400kmを2台のタクシーで戻ってきたのである。
 道は砂漠の中をホントに真っすぐで車も殆どいないから、400kmを3時間ほどの行程だったのである。

 当時のイランのデーラーは日本の販売店よりはずっと立派で、
 サヴェーの工場も立派だったから、
 イランでの販売には期待していたのだが、
 1979年のイスラーム革命で、各社ともダメになってしまったのである。
 因みに、この時サヴェーの工場に単身出向してたのは、
 後、川崎重工業の副社長をされた佐伯武彦さんなのである。

 当時はブリジストンもホンダさんも工場進出していて、
 どちらのメーカともお会いして話を伺ったりしたのである。

★ こんなイランだったから、調査団のほかに人たちの印象は『イランはオカシイ』だったのだが、
 私は何となく回教徒は日本人よりは多いし、
 イランの人達から見たら『日本人はオカシイ』と思ったのではないかと思ったりした。
 ペルシャの市場には一般のバスに乗っていったのだが、
 言葉は通じなかったが、人々の対応は非常に親切で人間味あふれるものだった。
 そんなことがあったので、その後も何となくイランには親しみを感じるのである。
 兎に角、世界は広いなと思ったのが実感である。


  
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C2 SSの想い出

2024-06-12 05:11:25 | カワサキ単車の昔話
 
★ ずっと昔のことだが、昭和42年・1967年のことである。
 私は仙台事務所長として初めて営業第1線を担当することになったのである。
 ホントウか?と思われるかと思うが、
 当時は東北6県がカワサキの最大市場であったし、
 岩手カワサキが全国販売代理店の中で販売台数TOPを何年も続けていたのである。
 そんな東北市場の代理店から仙台に事務所をと言う要望が出て、
 新しく事務所を創ることになったのである。

 まだ小型実用車全盛の時代でアメリカ市場ではA1やマッハなどが販売主力だったが、国内ではまだあまり売れなかった時代に、
 カワサキとしては初の国内向けスポーツタイプ車として発売されたのが『120ccC2SS』でこんなクルマだった。



       



 モトクロスの盛んな東北では結構売れたのだが、
全国的には期待どうりの販売には至らずに、明石工場には相当の在庫が残っていて
これを東北で何とか売れないか』と仰るのである。
 ちょっと条件を付けて『セリアーニタイプのフロントフォークに改造してくれたら200台は引き受けましょう』ということにしたのである。
 
そんなことで特別仕様の東北タイプのC2SSが200台造られたのだが、
まずフロントフォークを外す作業からスタートしたので、
明石工場では前代未聞のラインを逆に回すことになったらしいのである。
ご依頼の『200台』は特別仕様であったこともあってすぐ売れたのだが、
明石サイドでは『もう200台』と仰るものだから、さらに200台もお受けして何とかしたのである。
そうすると『あと200台ほどで、工場在庫は無くなるから』と言われて、とうとう計600台を引き受けたのだが、最後の200台は捌ききれずに、各代理店の在庫になってそれをさばくのに大変だったのである。
 それにしても今では考えられないほど東北6県の代理店は力があったのである。

C2SSのセリアーニタイプのマシンは実はモトクロス用に、
 レース職場の松尾勇さんに頼んで作って貰っていたので、
 セリアーニタイプのフロントフォークが付くことは解っていたのである。
 当時東北は全国でも一番モトクロスレースが盛んで、
 そんなことでC2SSは非常によく売れたのである。


 これは何年か後に市販レーサーとして販売されたC2SSモトクロッサーだが、
 これは東北でC2SSのモトクロッサーに改造して、レースに出ていて好評だったので、
 メーカーは市販レーサーを創ったのだと思う。
 これにはセリアーニタイプのフロントフォークが付いている。

 
  



★私は東北に来る前は広告宣伝課長で、
 このC2SSのカタログが最後の作なのである。
 そんなご縁もあった懐かしいC2SSなのである。


  

  
 
 同時に『レース担当』だったので
 当時東北はレースが盛んだったこともあって、
 山本隆・歳森康師・岡部能夫・星野一義などファクトリーライダーたちがよく東北のレースに来てくれていた時代で、
 いろんな意味で『私はツイていた』と思うのである。
 でも、残念ながら山本・歳森・岡部は逝ってしまってもうこの世にはいない。

 人間、『ツキ』があるものだが、
 私がその後も、引退した現在も『人一倍いいツキ』を持っていると思っていて、
 そんなことで『いい人生』だったと思っている。


  
       
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 H1 と GTO と 松本博之さん

2024-05-22 05:56:21 | カワサキ単車の昔話

★ マッハⅢ と言われたH1が世に出たのは1964年のことで、
 カワサキで「2ストロークのエンジン設計は松本」と言われていた松本博之さんの作である。

 
  
 




★ 125B8をはじめ、数々の2ストロークエンジンを開発した松本博之さんだが、
 あまり知られてはいないがCKDで東南アジアに出荷された開発コード740、GTOエンジン松本さんの開発で、
CKDなので部品出荷のため台数記録がないのだが、
カワサキの二輪車で間違いなく最大の台数を世に送り出した大ヒット車なのである。


   


  


 私は企画やマーケッテング分野が専門で、機種の開発などには関係していなかったのだが、このGTOの開発については私が色濃く関係したので、そんな昔話をご披露してみたい。
 
 
★ 1978年、東南アジアのCKD新市場進出のため市場開発室を組織して、タイでの合弁会社をスタートさせるなどやっていた時代のことで、
営業としては、どうしてもCKD市場にあった「専用の機種」が欲しかった時期である。
78年2月3日私の日記の記述をそのままご紹介してみたい。

「夕方から技術部の会議に呼ばれる。大槻部長以下課長以上全員が揃っていた。方針が明確でない限り、技術部としては開発はやらないと大槻さんにまくしたてられたが、大槻さんとはレース時代からのお付き合いで気心もよく解っていたので、営業代表としてねばって言い分を通してもらった。」
と書いてある。

このときのことは、本当によく覚えているのだが、
125ccなどの小排気量には大槻部長はあまり関心が無かったのだが、私がひつこくねばるものだから、
私がやりましょう』と「助け舟」を出してくれたのが、松本さんだったのである。

カワサキにとって初めての「CKD専用機種、開発コード740」,
110ccGTOは、CKD専用車であるために一般には余りよく知られていないが、
歴史に残る大ヒット商品となり、この機種でカワサキのCKD事業は軌道に乗ったと言っていいのである。

この時、松本さんに私が頼んだ『開発コンセプト』は、
唯一、メーターで『最高速120㎞』を確実に出せることだったのだが、これが実現できてGTOは大ヒット商品になったのである。
兎に角、あの時代の東南アジアで一番速かったのがGTOなのである。
タイでの販売台数は当時、6400台/年だったのだが、
11000台、20000台と一挙に増加し、インドネシアでも好調に売れてCKD進出を軌道に乗せたのである。


★ カワサキの二輪関係者でネットのWiki に載ってるのは松本博之さんだけで、こんな記述が載っている。

 「現在のカワサキの草創期を支えた歴代モデルを設計した。
カワサキで最初に設計された2サイクルエンジンKB-1から開発に関わり、カワサキの事業存亡をかけたモデルB8のエンジンから車体までを設計。
B8のヒットによってカワサキはオートバイ事業撤退を回避した。
 その後もA1、H1、H2 等歴代の2サイクルモデルの設計を指揮した他、オフ車F21M、KT250、カワサキで最高の販売数を誇ったGTO110やAR & AV50その他、4サイクルエンジンにも関与した。 」

ここにもGTOの記述が、ほんの少しだけ書かれている。

   


 
この隠れた大ヒット商品のエンジン開発者が松本博之さんだったのである。
松本さん、あの時は助け舟を出して頂いて、本当に有難うございました』

 カワサキの単車のスタート時期からの開発者としての松本博之さんだが、もうこの世にはおられない。
 私としては一度もお礼を言う機会もなく過ぎてしまったのである。

 ところで、松本さんの奥様はまだご健在なのだろうか?
 松本さんの奥さんの『大ちゃん』は私の入社当時隣の課にいて、
 大人気者だったのだが、いろいろとお世話になったのである。
 松本さんに何のお礼も申し上げていないので、
 せめてこのブログの最後に末筆ながら『有難うございました』と書いておきたいのである。


  
 
 
 
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1966年・アメリカ市場進出、A1の時代

2024-05-09 06:58:54 | カワサキ単車の昔話

★ 1966年は米国に新会社KMCを設立、そしてA1を発表とある。
  二輪事業に進出はしたものの、民需のそれも末端ユーザへの販売は、川崎航空機工業にとっては初めての体験で、
  国内市場の販売はメイハツ・メグロの方たちに任せた対応だったし、なかなか大変だったのである。
  
  そんな時期に1965年からアメリカ市場に進出したのだが、
  このアメリカ市場への進出は、本社の企画にいた浜脇洋二さんが旗を揚げ、
  明石の事業本部からは、田崎雅元さんが最初にアメリカに渡たり、W1などを持ち込んだのだが、アメリカの高速道路には通用しなかったし、何もかにも初めての経験で大変だったようである。

 
  



★ 二輪の販売など経験した人は、川崎航空機工業にはいなくて、
 アメリカ市場では現地主義と称して、
 二輪に関心のあるアメリカ人を集めて当初の販売を推進したのである。

 これは当時の事業本部長の岩城良三さんがアメリカに出張された時の写真だが、左から3人目が浜脇洋二さんで当時は浜脇さんも川崎航空機では新人課長の若手だったのである。
 アメリカに最初に事業部から渡った田崎さんもまだ係長にもなていないそんな時代だったのだが、若手が頑張らざるを得なかったそんな時代だったのである。

 
   


  
 
★ そんなアメリカ市場用に最初に開発されたのが『250A1』だったのである。

 
  



   カワサキが初めて開発した『スポーツバイク』なのだが、
   エンジンは兎も角、デザイン面については、カワサキが新しい流れを創ったと言ってもいいのだが、
   こんなデザインの新しい流れは、二輪に関心があるアメリカ人の発想がいろいろと取り入れられている。
  

  当時の二輪車はどこもメッキタンクで側板が常識だったのだが、
  そのタンクを紅くカラーにしたのは、カワサキが初めてなのである。
  次に出た『マッハ』ではタンクマークも側板もなくなって、KAWASAKI の表示となっている。



  

  最終デザインに仕上げたのは明石のデザインルームだが
  発想段階のアイデアは二輪に詳しいアメリカ人の新鮮な発想があったのだと思う。 
   

★ このようなアメリカ人の発想がベースにあったアメリカ市場では、この250A1・マッハ500・そしてさらにはZ1と
 カワサキのスポーツ・中大型車が市場に受け入れられて、
 カワサキの二輪事業そのものがアメリカ市場中心に展開され、
 Z1が世に出た1972年には、その大ヒットで、
 ようやく『カワサキの二輪事業』が確立された時代と言っていいだろう。


  


 いまもカワサキの基本コンセプトとして生きている
 KAWASAKI Let the Good Times Roll 
 が創られたのもこの時期なのである。


  

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W1の時代  カワサキ単車の昔話

2024-05-03 06:16:20 | カワサキ単車の昔話

★ 1965年に「W1を発表」とある。
  当時の昭和40年を振り返ってみると、
  私はまだ33歳、広告宣伝課でレースなども担当していた頃で、
  W1のカタログなど創っていたが、直接の販売には関係なかった時代なのである。

  このカタログは私の広告宣伝課長時代の作なのである。


  
 

  
 その年には販社の名称がカワサキ自動車販売から『カワサキオートバイ販』に変わって、そのカワ販出向した年でもある。
 そのころ丁度、アメリカ市場開拓がはじまって、
 一緒にレースなどやってた田崎雅元さん(後川重社長)が、シカゴに事務所を創った時代なのだが、
 W1はそのアメリカ市場に持ち込まれたのだが、高速道路の高速走行には不向きで、振動が激しくもう一つ評判がよろしくなかったという記憶があったりする。
  
   ただ、国内市場では誠に評判がよくて、当時の国内市場では最大排気量車であったし、
 警察の白バイは当時はホンダではなくて、圧倒的にカワサキだったのである。
 そんなこともあって、各地の白バイの隊員さんとはいろいろと仲がよくて、
 当時はやっと運転免許を取りだした時代だったのだが、
 ちょっとしたスピード違反などは、頼めば取り消して貰える、そんな悠長な時代だったのである。

 私が初めて運転免許証をとって、車の運転を始めたのもこの年なのである。

 
★ 1965年5月には山本隆のたっての希望で会社には内緒で、
 鈴鹿のジュニアロードレースに出場したのだが、
 当日は雨でタイムが落ちて、モトクロスライダーの山本隆が3位入賞と言う結果で、カワサキがロードレースの世界に本格的に進出することになったのである。

 これがその時の写真で、広告宣伝課の川合寿一さんが現場に行ってたのだが、
 『ヤマ3、シオ8、セイコウ、カワ』の電報が5月3日の休みの日に我が家に届いたのである。
 ヤマ山本隆シオは北陸から参加してくれた塩本なのである。

  

  
  
   
 
★ そんなことから、ロードレースライダーとして金谷秀夫とも契約を結ぶことになるのだが、
 翌年の1966年のことだが、 富士スピードウエイが出来てその初めてのレースに金谷秀夫がW1で出場したことがある。

 ずっと後の話だが、小関和夫さんのWの本を出される取材で、
「FISCOで、W1のレーサーに、金谷秀夫が乗って走ったレースがあるのだがご存じありませんか? 」というのである。

このレースは、私はFISCOの現場にいて、非常に印象に残ったレースなのである。 
W1のロードレース出場はこの1回だけなのだが、
 当時は500ccを超えるロードレーサーなどはどこにもなくて、このレースも350ccが相手だった。
まだFISCOに伝説となった 『須走り落とし』と言われた第一カーブがあったころで、直線コースは長かった。
 レースはその直線部分では、Wが圧倒的なスピードで他を抜き去ってしまうのだが、
 逆にカーブでは車体が揺れて、チェンジは右、ブレーキは左のマシンには、流石の金谷も手こずって抜かれてくるのだが、
 直線の最後までにはまたトップを奪い返すと言うオモシロイ展開だったのである。
 このレースでの『金谷のアタマの揺れ』を見て、
 アメリカの高速道路での車体の揺れを想いだしたりした。
 結局最後のゴール地点では、抜き返すには距離が短くて確か、2位か3位でのゴールインであったのだが、
小関さんに聞くとクラスが違うので『クラス優勝』扱いになっているのだとか。

 残念ながら写真もないのだが、その時の印象は今でもよく覚えている。
 懐かしいW1と金谷秀夫の話である。

 まだ、カワサキはGPレーサーは開発時代で、
 三橋実・安良岡健・金谷秀夫の3人がそのテストで鈴鹿を走ってた時代である。
 彼らの契約条件に『テスト走行』などはなかったのだが、
 頼めばやってくれる、そんないい時代だったのである。
 

 

  

  


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メイハツ&メグロとの想い出と 小野田滋郎さん

2024-04-23 06:24:23 | カワサキ単車の昔話

★ 1964年に目黒製作所を吸収合併とあるが明発工業とはそれよりずっと以前から提携し、その販売網をそのまま頂いてカワサキ自動車販売として、国内販売を行っていたのである。
 
  


 当時の川崎航空機の明石工場は戦前からエンジン工場であったことから、戦後も米軍のジェットエンジンのオーバーホールや、農業用の小型発動機エンジン生産などを行う傍ら、明発工業に二輪のエンジンを提供したことが本格的な二輪事業へのスタートとなるのである。

★ただ、エンジンについての専門家はいたのだが、民需・末端市場販売網を敷いて最終ユーザーと繋がるような『二輪販売』については、全く未知の世界で何のノウハウも持っていなかったのである。

そんなことから社長・専務は川崎航空機からだが、それ以下のメンバーはすべてメイハツ・メグロからの人達の『カワサキ自動車販売』販売関係は丸投げしてのスタートだったのである。
 
私自身は1961年に初めて出来た単車営業課の課員としてカワサキ自販への出荷販売を担当したので、当時神田岩本町にあったカワサキ自販の本社に出張することも多く、そこで、メグロや明発の人達と接する機会があったのである。
このカワサキ自販には高野専務が独り川崎航空機から出向で、あとはメイハツ・メグロの人達だったのである。
そこで高野専務を支えていたのが、総務課長兼広告宣伝課長の小野田滋郎さんだったのである。
 
小野田滋郎さんはあのフィリッピンの小野田寛郎さんの弟さんで、
陸軍士官学校卒の英才で、私が小野田さんから学んだことは本当に多かったのである。


  

 

★ 小野田滋郎さん
カワサキのレースの創生期にヤマハから三橋実を引っ張り、カワサキコンバットを事実上作った人である。
この人が自分に与えた影響は大きい。
思想的にも、仕事の実務的なやり方も、それに対する態度も。
この人にはとてもかなわぬと思った数少ない人の一人である。

陸士出身、文学を愛し、酒を好み、人間味あふれる人柄、
小野田滋郎の物事に向かうときの純朴さと一徹さを見習いたい。

箸袋 寛郎と今も 還らぬ子 

小野田さんのおふくろさんが、正月に詠んだという句。
このお母さんの話も、小野田さんの話によく出てきた。
人生には、いろいろ影響を受ける時期もあり、また人もいる。
本当に、小野田さんには影響を受けた、戦略論の基本も教わった。
年賀状の文章は、逆立ちしても真似の出来ない素晴らしいもので、いつも楽しみにしていた。
いつまで経っても、そんな文学青年みたいな小野田さんが、また魅力であった。
戦後、小野田滋郎さんは自衛隊にもおられたのだが、その後、メグロからカワサキ自販に来られたのである。

この時期の一番の想い出は『小野田滋郎さん』なのである。
私にとって小野田滋郎さんは『人生の宝物』であったといっていい。

 
 
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カワサキのレースのスタート時期のこと

2024-04-16 06:48:01 | カワサキ単車の昔話

★カワサキのレースのスタートは1963年5月の『青野ヶ原モトクロス』と言われている。
 このレースは製造部の有志で出場したいわば『プライベートチーム』で正規のメーカーのレース出場ではなかったのだが、
 このレースの結果がその後のカワサキの二輪事業に大きな影響を与えたのは間違いない。



 



 この『青野が原のモトクロス』のきっかけは、
 1962年11月に開催された鈴鹿サーキットのジュニアロードレースを製造部のメンバーが観戦し、カワサキもレースをと言うことになったのである。
 このレース観戦の仕掛け人兵庫メグロの西海義治社長で、青野ヶ原のモトクロスの開催を主宰したのも当時MFJ 兵庫支部長だった西海さんなのである。
 西海さんは子飼いの松尾勇さんをカワサキの製造部に入社させ、
青野ヶ原のマシンも、その後のF21Mまでの約10年間は、MXもロードレースも、松尾勇さんがマシン製作を主導したのである。
 カワサキのレースマシンの制作が技術部に移ったのは、マシンがKXと称される時期からなのである。
 エンジンは兎も角、フレームについては二輪の専門家が少なかった時代だったと言えるのだろう。

 因みに、西海義治社長が何故かくも熱心だったのかと言うと、
 西海さんは元プロのオートレーサーで、何としてもカワサキにレース部門を立ち上げようと思われたに違いないのである。


★このカワサキのレースのスタートのきっかけは、
 1962年11月鈴鹿サーキットで開催されたジュニアロードレースだったのだが、
 このレースの250ccの優勝者が三橋実350㏄が片山義美で、この二人のレーサーがその後カワサキのレースチームを支えることになるのである。
 当時はMCFAJ主催のレースが主体で、それに出場するためには選手はメーカではなくクラブチーム所属であることが必須だったのだが、
 カワサキコンバットを主宰したのが三橋実で、神戸木の実クラブ片山義美だったのである。

 この写真の左から岡部能夫、歳森康師、山本隆、三橋実、梅津次郎
 この5人がカワサキの最初に契約したライダーなのだが、
 三橋、岡部、梅津が三橋実が立ち上げたカワサキコンバット
 歳森、山本は片山義美が主宰した神戸木の実クラブ所属なのである。

  
  


 
 1962年に本田宗一郎さんが鈴鹿サーキット創っていなければ  
カワサキのレースチームもまた、変わった形になっていただろう。
 そういう意味では、本田宗一郎さんがカワサキのレースに陰ながら関係したとも言えるのかも知れない。
 

★ レースには私自身いろいろとご縁があって、 『青野ヶ原』以降のファクトリーチームを担当したのだが、
  1988年10月に『カワサキファクトリー25周年』と銘打って、立ち上がり時代のレース関係者と当時の現役レースチームを招いて、25周年記念パーテイを開催したのである。


  
  

 集まったライダー諸氏は、最初の契約ライダー歳森・山本・岡部・梅津をはじめ
 その後ファクトリーに参加した安良岡健・和田将宏・金谷秀夫・清原明彦・星野一義、
 現役ライダーでは宗和孝宏・多田喜代一・関本五十洋などもいる。

 川崎重工側の出席者としては、青野ヶ原を主宰した中村治道・高橋鐵郎(元川重副社長)さんも、当時のレーサー製作を仕切った松尾勇さんもおられるし、
 真ん中にお座りなのが兵庫メグロの西海義治社長なのである。
 初期のレース運営委員会会長の山田熙明(元川重副社長)、苧野豊秋さんなど錚々たるメンバーなのである。
 
 カワサキのロードレーススタート時の監督大槻幸雄(Z1開発総責任者・川重元常務)・副監督田崎雅元(元川重社長)さんも、
 さらにはカワサキの名物男・平井稔男さんなどが顔を揃えているのである。

 因みに、OBサイドでの末席星野一義・清原明彦と言うホントにウソみたいな話なのである。
 このメンバーを見る限り、レースだけではなくカワサキの二輪事業を支えた中枢メンバーが当初のレースに関わっておられたことがお解り頂けると思う。

★カワサキの初めてのレース『青野ヶ原モトクロス』で、1位から6位までを独占するという完全優勝はまさに運がよかったと言わざるを得ないのである。
 マシンは125B8で、ライダーはこのモトクロスが初めてという初心者ばかりだったのだが、
 当日は雨でいたるところに水溜りが出来て、他社のマシンはみんなエンジンが止まってしまったようなのである。
 後、カワサキのエースライダーになる山本隆も当時はヤマハで出場していたようだが、マシンが止まってリタイヤしたのである。
 カワサキのレースでその後も1位から6位まで独占などはこのレースだけで、まさに雨のお陰なのである。
 因みに、この青野ヶ原の優勝者が誰なのか?
 当時はカワサキが勝ったということだけで、優勝者が誰だったのか?解っていないのは不思議なことである。

 雨がカワサキに幸運をもたらした、まさに『恵みの雨』だったのである。
 ずっと後、山本隆がはじめて鈴鹿サーキットを走ったロードレースでも、当日雨になってモトクロスライダーの山本隆がホンダに次いで3位入賞と言うことになるのだが、
 雨がMXもロードもカワサキに幸運をもたらしたのである。

 
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カワサキの二輪車の歴史について    その2

2024-04-11 05:43:12 | カワサキ単車の昔話

★カワサキの二輪車の歴史・その2は
 1960年。神戸製作所で二輪車の一貫生産を開始とある。



  

 私は昭和32年4月(1957)に川崎航空機に入社したのだが、
 最初の配属先は業務部財産課だった。
 そこでも新しいことばかりやっていて、木製の椅子から金属製のネコスの椅子に変えたり、財産物件の償却計算を民需では初めてIBMを使ったりした。
 当時はアメリカ空軍のジェットエンジンのオーバーホールを明石工場でやっていて、明石工場にはIBMの器械装置があったのである。

 日本で一般にIBMが使われ出したのは昭和40年代だから、それより10年も早い時期のことなのである。
 そんな財産課にいたのだが、肺結核にかかって1年ほど入院していたのだが、その退院の時期が1961年12月で、たまたま新しく単車営業課が発足したのである。
 初めてのことだからそこには誰もいなかったのだが、
新しい仕事』なら古谷は出来るだろうと思われたのか、その単車営業課の所属になったのである。
 その部門の上司は業務部時代にもいろいろお世話になった小野助治さんで、その小野助さんに『私は引っ張って』頂いたのである。

 小野助治さんは、当時小野助さんと皆に呼ばれて、ホントに面倒見のいい上司だったのだが、私はその後、結婚するときは仲人をお願いしたりしたのである。

★これがきっかけで、私はその後、1999年に退職するまで、一貫して二輪事業を担当することになったのだが、
 一番最初の車はニューエースとあるが、それはほんの数か月のことで、私が営業課に異動した時の車は、125ccB7モペットM5が主力車種だったのである。


  
 
 
 そのほかにも、井関のタフ50なども委託生産していた時代なのである。


★ 私が営業課に配属されて小野部長に最初に言われた指示は物品税を研究してくれ』だったのである。
  この125B7は出荷もしていたが、フレームに欠陥があって多くの車が返却され、明石工場は返却車の山だったのである。
 私が配属されて2か月目の1962年1月の出荷台数は返却が出荷を上回って『マイナス17台の出荷』と言う信じられないことが起ったのである。

 当時125cc以上のバイクは贅沢品に掛けられる『物品税』が掛けられていて、この物品税の納入は至って簡単なのだが、
 返却されて治めた『物品税を戻入』して貰おうとするとこれが大変なのである。
 1台1台、明石税務署の署員の実地検査があって、そこで認可されないと戻して頂けないのだが、
 それは出荷当時のままと言うのが条件で、例えばメーターはゼロ出ないとダメなので、メーターの巻き戻しなどもやるという、大変な作業だったのである。
 さらにこの物品税は申告税だから、若し不正があると体刑になるというムツカシイ処理で、ホントに大変だったのである。

 そんな大変な時代が1年続いたのだが翌年には名車とも言われる25B8が出て、単車事業はやっと何とか軌道に乗り始めたのである。


  
 
 
 私の単車1年目はこんな大変な時代だったのである。
 いまは隆盛を極めるカワサキの単車事業だが、
 スタートから10年はずっと大変な時代が続いたのである。
 100社近くもあった単車の事業体がどんどん脱落して、
 いまの4社体制になるのだが、浜松の3社以外に生き残ったのはワサキだけなのである。
 そんな時代をずっと一緒に過ごせたのは今となっては貴重な体験だったと言えるだろう。


  

 
 私の入社当時の川崎航空機の明石工場はまだ単車工場もなくこんな状態だったのである。
 この広大な土地や戦前の機械の売り食いでやっと経営を繋いだ時代で、そう言う意味でも財産課は至って貴重な部門だったのである。



 
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カワサキの二輪車の歴史について    その1

2024-04-08 05:59:43 | カワサキ単車の昔話


★「カワサキモーターサイクルの歴史」としてこんな表が載っていた。
 1960年から2000年までの40年は丁度私が二輪車を担当してた現役時代なのである。
 40年間の歴史の中で1966年までのスタートの時期以降は抜けている年度もあるが、そんな年度のことも私なりに補って40年間の歴史としてみたい。 
 



川崎航空機工業が戦時中に生産してたのは飛燕などの戦闘機だったのだが、
そのために敗戦と同時にGHQから工場を差し押さえれ操業停止になった。
昭和28(1953)の生産再開までは播州滝野高槻に疎開工場があって、播州工場では歯車を高槻ではエンジン関係をやっていた。
カワサキの単車1号機も高槻工場で造られたものだった。





 この高槻工場には後に単車事業本部長もされた高橋鐵郎さんもおられたようである。
 昭和28年(1958)に明石工場が再開されたのだが、
 私は昭和32年入社なので、その頃のことは話として聞いているだけである。
 本格的にカワサキが一貫生産工場を造って単車事業をスタートさせたのは1959年のことで、
 目黒製作所と提携し、社内にも『単車営業部』がスタートしたのは、1960年なのだが、
 この年に私はその単車営業部に異動したので、カワサキの単車のスタート時期から、1999年に退社するまで、二輪事業に関わっていたのである。

★その殆どの項目が二輪車の機種なのだが、それについて私なりの感想や思い出などを纏めてみたいと思っている。
 閑に任せて40回、どんな記事になるか解らぬが、楽しみにしてください。
 

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FX400と私とカワサキ

2024-04-01 06:21:18 | カワサキ単車の昔話

★最近はネットのニュースにカワサキが登場する機会が多い。
 昨日もこんなFX400の柏秀樹さんの記事が載っていた。

空冷DOHC4気筒400ccバイクの中でもっとも威風堂々としていたバイク、といえば1979年登場のカワサキZ400FXです。
Z400FXは当時、最先端のデザイントレンドというべき角張ったカフェレーサースタイルを導入しながら、同時に見た目の大きさが際立っていたことです。
と柏秀樹さんに紹介されているFX400は、

  


 空冷4ストローク並列4気筒DOHC 399cc 、43ps/9500rpm で
 当時の販売価格は38万5000円でした。

★1979年当時は、実はカワサキにとっては大変な時期だったのである。
 1977年以降のアメリカ市場はHY戦争が日本からアメリカまで飛び火して、
 カワサキもその乱売合戦に巻き込まれてアメリカのKMCは毎年100億円を超える赤字の連続で、日本の事業本部も赤字になって、川崎重工業の本社財務部門が救済に当たっていたような時期だったのである。
 
 国内のカワサキオートバイ販売は、アメリカのダンピング問題もあって、
 そのままの体制ではカワサキだけがダンピングに引っかかるということで、
 従来の社長以下の大きな本社をなくして、ホントに小さな体制にしたのだが、
 そのTOPをまだ新米課長だった私が引き受けることになったのである。

★それが1979年なのだが、
 何も解らぬままカワサキオートバイの常務として全軍の旗を振っていたのだが、
 この年に登場したのがFX400で、何もしないのにどんどん売れるものだから、販売会社にあった10億近い赤字を消去して、
 カワサキオートバイ販売は優良会社に変身したのである。

 そう言う意味で、二輪事業は一つのヒット商品で様子が一変するのである。

  


 カワサキにとっての最初のヒット商品は、あのZ1/Z2と言っていいのだが、
 国内市場では750㏄の市場はそんなに大きくなかったのだが、
 この400ccの市場は750㏄とは違って、非常に大きかったから、
 カワサキの販売会社の状況が一変してしまったのである。

 
★ ただ抜群によかったのは国内市場だけで、
 アメリカ市場をはじめ海外市場は苦戦の連続だったのだが、
 国内市場の販売のノウハウをと私は単車事業本部の企画部に移籍することになるのだが、
 そんなことが私のその後の経歴にも大いにいい影響を与えてくれるのだが、そのきっかけを作ってくれたのがこのFX400なのである。

 この車がきっかけで、その後のNinjaに繋がり
 さらにはZEPHREに繋がっていくのだが、
 そのベースにあったのはFX400で、これは私にとってもカワサキの二輪事業にとっても多大の好影響を与えてくれた車だと言っていいのである。

 そんなFX400だが、確かに今見てもなかなかカッコいい。
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